鑑賞録やその他の記事

映画どアホウ『野球どアホウ未亡人』(2023)

書き下ろしです。

ソウルフラワー監督のオススメで、小野峻志監督作『野球どアホウ未亡人』(2023)を観る。

愛する夫を草野球練習中の事故で亡くした夏子は、夫の野球の師匠たる重野進に見込まれ、野球選手としての特訓を受けることになる。野球など気が進まぬどころか大嫌いだったのだが、夫の借金のため仕方なかったのだ。だがやがて、苦難を通じて野球に目覚めることに-それどころか苦難そのものに-悦びを覚えるようになってしまう。そんな折、夏子に知らされる驚天動地の真相。夫は事故ではなく、重野の手によって殺されたのだった。

…というストーリーは、『鉄腕未亡人』(1942)『セックス・チェック 第二の未亡人』(68)『カリフォルニア未亡人ズ』(81)などに連なる映画ファンならお馴染みの "未亡人スポ根もの" の王道と言えるものだ。本当はそんなジャンルは無いし、いま挙げた三作とも存在しないのだが、あたかもそれらの王道であるように捉えたい。

ところでかつて映画評論家の蓮實重彦が草野進の名でプロ野球評論を書き始めたとき(※注1)、「蓮實の薫陶を受けた映画監督(※注2)が生まれたように草野進の文章を読んで野球選手を目指すひとが現れたりして」という冗談(※注3)が囁かれたものだが。本作は-特に最初の方は-まるでこの冗談を映像化したようなものだ。
重野進の名は重彦+草野進だし、夏子の夫はその著書にも心酔している。しかもタイトルバックは夏子による重野の著書の朗読である。そこまでいったら重野の台詞回しは、「にわかには信じがたいが途方もなく蓮實風にほかならない」ものであって欲しかった気もするが、そこはまあ、よしとしよう。

というわけでこの映画は「アホ映画に見せかけて実は知的」というやり方の知的ぶった映画にも思えそうなのだが。アホであることの悦びにも打ち震えているので、ちゃんと「知的なアホ映画」になっていて、「なるほどなるほど」と観ていられる。
夏子の魔球は「あたしったらこんなにアホなことしたくてたまらないの」という作り手の悶絶の表現だし、彼女がボールを投げ上げては受け止める動作の繰り返しは、映画する(なんて恥ずかしい表現!)悦びを知的な輩にも分け与えてくれそうだ。

かくして本作は基本的に成功作となったのだが、しかしまあ、ここまで来ると-評価するがゆえに-「もっと」を求めたくなる。
例えば映像は、もっとあからさまに美しくても良かったのではないか。ある程度の知性を経由したからには「こんなバカ映画なのにこんなに美しい」というのが、さらにバカ感を増すと思う。『ゴダールのマリア』(85)とか『カルメンという名の女』(83)といったゴダール(※注4)映画に限らず『バーバレラ』(67)だって、身も蓋もなく美しいところがバカだ。

そして-ここからはネタバレ全開になるが-重野の死に様はもっと凄くあって欲しかった。
彼が倒れるでしょ。そしたらその肉体には何かが起きると思うじゃん。あのとき俺は『フューリー』(78)のジョン・カサベテスの爆発(グロ注意)か、『ヴィデオドローム』(82)のレスリー・カールソンのぐちゃぐちゃ(グロ注意)ぐらいのものを期待したわけですよ。

んで、一応爆発したけど、高校生が作ったみたいな最も安い CG だったよね。「盛大に爆発しました」という情報を伝えるような。それはこの超低予算映画にふさわしいし、「怪獣が死んだときの爆発と同じだよね」とも思えるし。お客さんは安心して笑いますよ。
しかし思う。ここが「安心」の裏切りどころじゃないか。ここでいきなりお金のかかった『フューリー』爆発(グロ注意)が来たら、「やったあ!」と思うと同時に激しく動揺しますよ。この時点で、本作は(俺にとって)そこまでの期待値が上がっていたのだ。

いや、実際のところ『フューリー』爆発(グロ注意)も『ヴィデオドローム』ぐちゃぐちゃ(グロ注意)も、お金がいるってのは分かりますよ。ならば、出来る範囲の中でもっと別のやり方はなかったのかなあ。例えば、打ち上げ花火が上がる中、バラバラになった重野が空を横切って「おかあさーん!」とか…いや、これは違うか。
でも重野が死ぬってのはそれぐらいのことであるべきで、たとえそこで幾人かの観客を取り逃がしたとしても、理解し難い何かに走ってしまう "映画どアホウ" ぶりこそを体験したかった。

一方、夏子が前半の(映画表現的に素晴らしい)特訓で「ボールになる」というテーマを与えられたのが、最後に「ホームランボールになった」というセリフに結実するのは、美しい。
その特訓で繰り返される "落とされること" は、夫の幽霊の出現シーンで思わぬ変奏を奏でることになる。この1カットは凄い。恐らく本年の日本映画の中でも最高のカットのひとつである。これだけのために観てもいい。

主演の森山みつきは、とても魅力的に撮られている。

注1:渡部直己との共同ペンネームという説もある。

注2:ちなみにこの映画、黒沢清万田邦敏塩田明彦といった監督が蓮實重彦門下の立教大学生であった頃に組織していた "パロディアス・ユニティ" の8ミリ映画と雰囲気的に共通するものがある。

注3:あくまでも冗談である。

注4:映画どアホウ。

カルナータカ音楽映画『響け! 情熱のムリダンガム』(2018)

書き下ろしです。

レコードそして CD と音楽はディスクで聴く世代の自分も、時代に逆らえず遂に Apple Music に登録。以来、「昔ちょっと興味を持ったがのめり込むまでいかなかった音楽再発見の旅」を続けていて、最近はワールド・ミュージックのターンに入ってたのだ。
そんな折、ふと思い出したのは高校生の頃、友人に聴かせてもらった南インドのヴィーナ(※注1)のアルバムで。奏者もジャケットも忘れてしまったが、その時一緒に聴いた世界的に有名な北インドラヴィ・シャンカールシタールより身体にしみ込んできて、「(余韻が深くて)この後、しばらく他の音楽を聴けなくなるね」と、感想を言ったのを覚えている。逆に、それがのめり込まなかった理由かも知れない(次から次へいろいろ聴きたいお年頃でしたからね)。

でまあ、「あれは何だったんだろうね」と Apple Music で南インドの古典音楽を探してみて、ジャンル的には "カルナータカ音楽" と呼ばれているのを知って、いろいろ聴いてみるとどれも良くて、中でもヴィーナのS.バーラチェンダー、歌のスダ・ラグナタンにアルナ・サイラムあたりは気に入った(※注2)。
少年時に感銘を受けたアルバムはなかったが、その後 Facebook を通じて親切な方から「これでは?」と写真を見せてもらった『南インドの音楽 ~ナゲシュワラ・ラオのヴィーナ~』がそのものズバリで、音源も YouTube で見つかったのだった。

前置きが長くなったが(というか今回は半分、音楽の話題だが)、このタイミングでカルナータカ音楽にスポットを当てた映画が公開中と知れば、観に行かぬわけにはいくまい。
響け! 情熱のムリダンガム』(2018)がそれで、東京国際映画祭に『世界はリズムで満ちている』の邦題で上映されたのを、何と、荒川区南インド料理店「なんどり」が配給・公開に漕ぎつけたという。
ちなみにムリダンガムとは、カルナータカ音楽で使われる手で叩く両面太鼓だ。「ムリガンダム」と間違えないようにしたい(マジで自分はたびたび間違える)。

主人公ピーターは、南インドのタルミードゥ州都チェンマイに住む若者。勉強そっちのけで友だちと人気映画スターの "推し活" にいそしんでいる。ある日、父が仕事で作ったムリダンガムを巨匠ヴェンプ・アイヤルが叩くのを見学して衝撃を受け、自らも奏者になるのを志す。思い立ったら一途なピーターは、巨匠に弟子入り志願するのだが…。

という分かりやすい青春熱血芸道もので、庶民的で一本気で共感しやすい主人公に、彼を心配する優等生ヒロイン、父と師匠という立場の違う人生の先達、憎まれ役の兄弟子に、その姉のどぎついまでに俗なテレビ人、友人からライバルに転じるお坊ちゃん、気の置けない仲間たち…とキャラクターを揃え、役者もピーター役のG.V.プラカーシュ・クマールをはじめ適材適所で、しかも皆、がんばっている。
個人的には父親役のイランゴー・クマラヴェールとテレビ人役のディヴィヤ・ダルシニが気に入った。ダルシニは本職の人気テレビ番組ホストということで、現地のひとが観るとリアルなのだろう。なのにテレビという媒体を使って主人公を陥れるような役を、よく引き受けたもんだ(※注3)。

ラージーヴ・メーナン監督の演出は特に優れてるとも思えず、シーンごとに配置した人物に平面的な芝居付けしたのを、細かめの定型的なカット割で押し切る深みに欠けたテレビドラマ的なもので(※注4)。物語の消化の上でも、例えば重要なターニングポイントであるはずの主人公が騙されてテレビに出演してしまうところなど、もう少し-観客が「マズいぞ、ピーター!」と思いながらも、一方では、巧みに陥れられていくのを物語的に楽しむような-うまい段取りを組めなかったものか。
全体にこの映画は、偶然だろうが-のらくら者の主人公が打楽器奏者の道に目覚め、敵役に手を傷つけられ、クライマックスでは横並びして打楽器合戦をする…などの点で-石原裕次郎の『嵐を呼ぶ男』(1957)に似てるが、演出技術的には、同作の井上梅次監督(及び1966年のリメイク版舛田利雄監督)の方が遥かに上手い。

とはいえ先述のように役者たちがイキイキしてるのは演出家としての功績だし、話を盛り上げるために揃えたキャラクターとエピソードを-巧みとは言えなくとも-絵本的に分かりよく見せることは、やってくれている。だから「いい話だったね」と、気持ちよく観終えることはできる。好感の持てる劇映画には仕上がっているのだ。
またパンフレットにある「配給までの道のり」などを読むとこの監督は相当の好人物らしいが、そういうひとが作った人懐こい感触はある。

しかしまあ、本作の魅力はドラマ演出より音楽的要素だろう。
テーマとなっているカルナータカ音楽のライブ・シーンはしっかり見せてくれるし、舞台上ではメインである歌手ではなく、ムリダンガムに焦点を絞った撮り方も新鮮だ。
またミュージカル的に様々な歌が楽しめる "ザ・インド映画" としては、『ムトゥ踊るマハラジャ』(95)『スラムドッグ$ミリオネア』(2008)などの実力者A.R.ラフマーン音楽監督の手腕が光る。特に「世界はリズムであふれてる」「我々の時代はいつ来る?」といったナンバーでは、ムリダンガムのみではないインド古典音楽の様々な打楽器の合奏をフューチャーして楽しませてくれる(ただし "ミュージカル・シーン" として演出的に最も良かったのは、ピーターが巨匠の家の前で小さな太鼓を叩いて子どもたちを踊らせるところだったと思うが)。
その他、後半の主人公の "音楽の旅" のシーンでは、インド各地の現場でいろんな楽器が奏でられる様子が見られるし。テレビの音楽バトル番組のシーンでは、打楽器のみならずヴィーナなど様々な楽器のソロ演奏が断片的にではあるが見られて興味深い。
ムリダンガムに話を戻すと、リズムパターンを口で唱えて教え、叩かせるレッスンの様子なども見られる(※注5)。

映画の楽しみ方にはいろんな面があるが、"音楽めあて" では、強くオススメできる作品であることは間違いない。
「(ダンスホールより前の)レゲエを知りたい」というひとに「じゃ、まず映画の『ハーダー・ゼイ・カム』(1973)を観てみなよ」というのは、アリでしょ? 自分もこの映画を観る主要目的に「カルナータカ音楽や、その周辺のインド音楽をもっと知りたい」というのがあったわけだし、その点ではかなりピッタリだった。

そしてこの映画で最も見逃してはならない点に、インドのカースト制度、すなわち差別の問題と娯楽性との両立がある。
主人公が当初は弟子入りを断られる理由や、太鼓職人の父の故郷の描写に、差別されることの矛盾・悲しみ・怒りが込められて、だからこそより一層、感情移入できるのだ。社会的な問題に向き合うことが-そのことで評価して欲しいというイヤらしさを感じさせず-自然に映画のパワーになっている。これは美しいことだと思う。
付け加えると "太鼓職人の差別" は、日本人も他人事にはできない問題なのだ。和太鼓がどういう人たちに作られてきたか、もしも御存知なければ "太鼓作り 差別" などの語句で検索してみて欲しい。
ピーターの抱える問題は、日本の問題でもあるのだ。

注1:シタールに似て非なる南インドの楽器。ヒンドゥー教の女神サラスヴァティーが抱えているサラスヴァティー・ヴィーナなどの種類がある。

注2:スダ・ラグナタン Sudha Raghunathan の『シャクティShakti (Sacred Song from Southern India) はハツラツとしたキレイな歌声で聴きやすいアルバムで、この手の音楽の入門用にいいんじゃないでしょうか。
Apple Music https://music.apple.com/us/album/shakti-sacred-song-from-southern-india/1081085912
YouTube  Music https://music.youtube.com/playlist?list=OLAK5uy_lYfIb8quIaKuk7T5tu2KNLoNh4x8eUfDY&feature=gws_kp_album&feature=gws_kp_artist

注3:出演者のひとりである声楽家のシッキル・グルチャランも、自分の職業そのままの役で、大先輩の打楽器奏者に嫌な感じのセリフを言ったりする。

注4:もちろん "テレビドラマ" が、深みに欠けているという意味ではない。"深みに欠けたテレビドラマ" のことを言ってるのだ。

注5:配信で見つけた "Mridangam Teachings in Adi Talam: Tirunelveli 1969" P.S. Devarajan というのが、ムリダンガム・レッスンをたっぷり聞かせてくれて、興味深い。
Apple Music https://music.apple.com/us/album/mridangam-teachings-in-adi-talam-tirunelveli-1969/447117102
YouTube Music https://music.youtube.com/playlist?list=OLAK5uy_kdb1Fcrnnk7yTZfCgkvDiOHR0H6S06hso&feature=gws_kp_album&feature=gws_kp_artist

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大人の人情喜劇『輝け星くず』(2024)

書き下ろしです。

来年公開予定の『輝け星くず』を、扇町キネマでの特別先行上映で鑑賞。
監督の西尾孔志(ひろし)氏は大阪在住で、本ブログでも取り上げた大傑作『ソウル・フラワー・トレイン』(2013)をはじめとする数々の注目作をものにしてきたひと。拙作『LOCO DD 日本全国どこでもアイドル』(17)の十三シアターセブンでの公開に、大いに協力してくれた好人物でもある。

大阪で暮らす青年、光太郎(森優作)には密かにプロポーズを考えている恋人、かや乃(山﨑果倫)がいるのだが、彼女が突然、薬物所持の罪で捕まってしまう。光太郎はかや乃の父、慎介(岩谷健司)とともに、四国の警察署に保釈金を届けに行くことになるのだが、この父が自称パニック障害で、電車にも、普通サイズの乗用車にも乗れないという。思わぬ難物を抱えながらも、光太郎は目的地へ近づいていくのだが…。

まず主役の三人が素晴らしい。
川崎ゆきおの漫画に出てくる "まきこまれ型" 男のようなルックスで、お人好しに厄介事を背負っても自然に見えてしまう森。胡散臭く信頼し難いが、どこか漂うひと懐こい動物っぽさに観てるこっちも心許しそうになる岩谷。しゃんとした大人っぽさと弱さのバランスが絶妙で、父とは逆にひとに甘えきれない寂しさを見せる山﨑。
世間的にはいわゆる "スター俳優" ではないにもかかわらず、観客を惹きつける魅力ある(というか、西尾監督が魅力を引き出した)この3人あってこそ、「かや乃はなぜ薬物に手を出したのか」「慎介の自称『パニック障害』はなにゆえなのか」という謎に自然に引っ張られて、物語(=登場人物たちの旅)に付き合う気持ちにさせられる。

映画の前半は、光太郎と慎介のロードムービーとして進むのだが。雰囲気に流されず、丁寧に画面を積み重ねる中で、この映画ならではの "ロードムービーの空気感" を醸しているのが、嬉しい。プロとして映画をきちんと作る心意気だ。
例えば、ロードムービーであれば欲しくなる野外のロングショットには、「ここぞ」という場で踏み込んでくれるし。乗り物の選び方・見せ方も、工夫が凝らされている。あるいは-移動してるシーンのみでなく-二段ベッドの上下での会話にも、単なる顔と顔の切り返しなのに、何ともいえぬ宿泊所の雰囲気がある。こういうのが映画の "質" を決定する。

中盤以降、旅(=ロードムービー)の目的の保釈金支払いも終わり、"父娘のトラウマ克服物語" になる頃には、すっかり映画のタッチに乗せられて、感情移入しながら観ることになるのだが。この映画、最後まで「ほら、『愛すべき』奴らでしょ」という甘さに堕ちない。このような "大人" の人情喜劇は、本当に貴重だ。
クライマックスも、娯楽映画らしくきちんとミスリードを用意した上で、作り手が「こうあるべきじゃないか?」と考えた結果に向かう。そして3人を、それぞれなりに-若くはない慎介でさえ-成長させてみせるのだ。

観終えた後の感覚は何とも言えない爽やかなもので、それは-言うならば-この映画の "人間讃歌" を受け取ったからだが。その歌を歌うためには、作り手に「自分は人間讃歌なんて歌えるほど偉くはないんだけど」という謙虚さがあるのが大切で。それでも何とか「歌いたい!」という気持ちの果ての悪戦苦闘が生んだ傑作の数々を我々に見せてくれたのが-例えば-森﨑東という監督だった。
『ソウル・フラワー・トレイン』はそんな "森﨑後" を印したみごとな映画だったが、本作はさらに、作家としての成熟を感じさせる新たな一歩に踏み込んでいる。こんな映画につきあってこそ、現代映画につきあってると言えるのではないか。つまり、必見である。

塩田監督渾身のエロコメ『春画先生』(2023)

書き下ろしです。

塩田明彦監督最新作『春画先生』(2023)を観る。

江戸の浮世絵の中で「春画」といわれるジャンルは、性の悦楽の世界を赤裸々に描き出したもの。春信・歌麿北斎など多くの巨匠が手がけており、性器そのものの描写を含め、観るひとに強烈な印象を与える。
本作では内野聖陽扮する春画研究の第一人者「春画先生」の興味深い人間像と、彼の弟子となる若き女性、弓子(北香那)の先生との付き合いを通じた心身の変化を描く。

性的な題材を主題に据えた映画は、それだけで色眼鏡で見られがちだ。本作も、観る前から「お下劣ではないか」という先入観を持つひとがいそうな気がする。そうした偏見のもとでは、春画は題材面での性的趣向のみがいたずらに誇張され、芸術性は置き去りにされかねない。
だがしかし、作中の春画先生は芸術鑑賞・研究のプロとして語り、振る舞う。弓子への最初の「授業」では、歌麿春画の肌と円山応挙の雪を並べることで、美術的な「技法論」を通じた-単なる性的興味に留まらぬ-芸術鑑賞の対象としての春画観を提示する。
だから本作は、軽々しい性的好奇心から離れて観られるべきなのだ。真面目に日本美術の一ジャンルとして春画を捉えんとするひとにこそ、響いてほしい映画だ。

…な~~~~~んてね!

そんな人畜無害な映画になるわけないでしょうが。塩田監督が春画の絡む師弟関係を取り扱うからには。もう、どうしようもないエロエロの危なっかしいコメディになっちゃってるわけですよ。

エロコメつっても「ボッキ~ン」とか「ぷりんぷり~ん」みたいな健康的なあけすけさはない。先生と弓子は最初っからずっと発情しっぱなしのくせに、美術研究という枠の中にあることで、より淫靡でおかしな言動に及ぶ。例えば先述の最初の授業は、セリフが美術論であることが、身のこなしのエロさを逆に際立たせる。そして観客をほくそ笑ませる。
また、先生が弓子を-助手としてのお披露目のように-連れて行く春画鑑賞会のシークエンスは、ルイス・ブニュエルから小沼勝までスキモノ監督が大好きな「ハイソのいかがわしいエロさ」が充満していて「やってる、やってる!」と嬉しくなってしまう。ここで先生が思い出話を開陳するくだりは、前半の大きな見せ場だ。
そうかと思えば、後半の回転ベッドのシーンで、弓子が「やります! すぐにでもセックスさせて頂きます!」みたいにやる気満々なのも、楽しい。さあ、ここからは「枠」をもぶち壊しますよ-という点火状態を見せて、決着になだれ込んでいくのだ。

そして本作では、みごとな発情演技でワクワクさせてくれる内野と北に加え、柄本佑の編集者がシェークスピア真夏の夜の夢』のパックのような道化-というか「性の悪戯者」としての適切な役割を演じてくれる。彼が最も春画-つまりは江戸時代の浮世絵-から抜け出てたような顔つきをしているのにも注目したい。鍵となる脇役は風土を背負う者なのだ。
これだけの三人を並べて巧妙に「おかしなおかしな春画の世界」を作っていった上で、塩田監督は「今の安達祐実にピッタリの役を堂々と演じてもらう」という最良のカードを嬉しそうに切ってみせる。
実は自分は途中まで本作を女版『月光の囁き』(1999)かと思ってたのだが、クライマックスに至って「それどころか…」という真相が晒される。そのときの安達がやはり本当に素敵で、ファン必見と言ってしまおう(※注)。

というわけでこのエロコメ・エンタテインメントは塩田明彦監督のベストといえる一本になった。

余談だが、最近の邦画で、「男先生と女生徒の一見品がありそうな映画でその実エロコメ」といえば、濱口竜介監督の『偶然と想像』(2021)の第二話があるのだが。そこでの先生役の渋川清彦と本作の内野は佇まいが似ていて、嗜好も共通するものがある。これは偶然だろうか。

注:本作の安達祐実は写真出演の段階で既に素晴らしい。みごとに生きている写真なのだ。

第一作の継承『ゴジラ-1.0』(2023)

書き下ろしです。

ゴジラ-1.0』(2023)を観た。
実写映画監督としての山崎貴を近年の『アルキメデスの大戦』(19)『ゴーストブック おばけずかん』(22)で高評価してる身としては、いやでも期待が高まる。

事前情報で戦後間もない日本をゴジラが襲うというのは知っていたが、冒頭、主役の神木隆之介が戦争末期に特攻から脱落して戦闘機を整備基地のある島に不時着させるところから、「なるほど、こう来るか」と思った(以降、けっこうネタバレします)。
この島での一連は、往年の特撮ドラマ『ウルトラQ』(1966)の『東京氷河期』的な(首都を襲う怪獣に戦争で生き残った戦闘機乗りが戦う)展開を予感させつつ、まだそこまで大きくないゴジラが局地戦で人間を次々と殺す恐ろしさを見せつけて、戦慄させられる。必死に逃げる人間をどんどん踏むのがえげつない。

ただ、その後、主人公が焼け野原となった実家(東京)に帰ってくるあたりは、あまり良くない。特にヒロインの浜辺美波から(預かって!)と赤ん坊を押し付けられるシーンは、「あれ? 最近の山崎監督って、もうちょっと巧くなかったっけ?」と心配になった。ゴジラという大ネタを預かって、演出が硬直してないか-と。
結局、神木と浜辺の関係の描き方に関しては今ひとつというか、悲劇が訪れる前にもう少し観ていて「分かるなあ、これ」と思わせる要素があっても良かったように思える。ただし、赤ん坊が喋れるぐらいには成長してからの子役とその使い方が物凄いので、かなりカバーはできているが。
あと、焼け跡から始まる戦後の描写に、昔なつかしな風俗的な要素を、安直に強調しないのも良かった。

その後、本題のゴジラに戻ってからは、期待通り大いに見せてくれる。
海で再登場するまでのサスペンスは手応えあるし、巨大化した禍々しい姿を見せてから(神木と仕事仲間たちの)粗末な木船を一直線に追ってくるのは、さながら(『悪魔のいけにえ』(1974)の)レザーフェイスのでっかいのにチェーンソーが触れんばかりに追走されるみたいに怖くて嫌だ。
そしていよいよ東京上陸。銀座の大破壊に至って思い知らされるのが、本作が何よりも1954年のゴジラ第一作への深い思い入れに満ちたものだということだ。電車襲撃・ラジオ実況班の悲劇といった具体的な部分だけでなく、テーマ的に大きな一点を引き継ごうとしている。
それは、ゴジラとは戦争の亡霊であり、その亡霊が実体化して戦争のような大破壊をもたらすということだ。

「戦争の亡霊」としての怪獣を描くことは(第一作を踏まえた)ゴジラ映画として重要だったのはもちろん、山崎貴というひとりの映画作家にとっても、意味のあることだったろう。
ちょうど10年前の『永遠の0』(2013)で、既に戦争の亡霊らしきものを映像化していたからだ。現代日本の空を飛び去る特攻機がそれである。
単独にあのカット自体は力が入ってたとは思う。だが過度に感傷的なあの映画の中では、戦争を感傷的に捉えた甘い幻にしかなり得なかったのではないか。映画自体も『市民ケーン』(41)的構成を巧みとはいえない手つきで操りつつ、謎の真相を「宮部の本当の心情は誰にも分かり得なかった…」なんて感じで曖昧に片づけるものでしかなかった(※注)。
だが今回は、もっと非情で恐ろしく暴力的な亡霊であるがゆえに、表現としての手応えが段違いだ。それはもちろん、破壊神ゴジラという映画史上の大発明を使い得たからではあるが、山崎監督自身の意識も変わってきているように思える。
我々が目にできるのは『アルキメデスの大戦』のラストに滅亡が運命づけられた戦艦の姿を描いてみせた監督による戦争の亡霊としてのゴジラなのだ。島で死んだ整備兵たちの写真が、(神木を責める小道具という)物語上の意味を超えた陰惨さを帯びていたことを見逃さないで欲しい。

そしてさらに第一作の継承として重要なのは、そのように呪わしく禍々しい戦争の亡霊としての怪獣の破壊と人間たちの戦いを、大人の鑑賞に耐えうるエンタテインメントとして成立させる精神である。
そこでまず自らVFX作家でもある山崎貴が、渋谷紀世子VFXディレクターらとともに作り上げた特撮映像だが。それ自体非常に迫力あるもので、陸上においては前述のように「踏む」えげつなさ、その想像を絶する重みが体感的に伝わってくるのには恐れ入った。
そして最後の海戦ではゴジラによって大きく波立つことにより、海自体もみごとに怪物となった。待ちに待ったあのテーマ曲が流れるタイミングを見よ、これが娯楽映画というものだ。
その上で空中からの攻撃に至るのだから、観ているこちらも力が入る。パイロット神木隆之介の運命については、またしても『永遠の0』との比較で何かが言えそうだが、そこまでのネタバレは避けようか(まあ割と分かりやすい「これはひとひねりあるな」という描写があるけど)。自分は素直に、これでいいんだ-と感動した。
また、艦船を使った「わだつみ作戦」は「ヤシオリ作戦」よりは説得力を感じた。

役者では腕利きの整備兵をやった青木崇高が良かった。
病院の浜辺美波の姿は、『シン・ゴジラ』(2016)の庵野秀明に敬意を表したんだろうか。まあ、エヴァ以前から怪我で片目の女の子というのは、萌え要素ではあるのだが。

注:自分はネットなどで見られる『永遠の0』の原作者の政治的姿勢や発言に全く同意しない者だが、そのことが映画の低評価につながってるわけではない。何なら、主人公がもっと歴然と帝国軍人としての使命に(彼なりに)目覚めて特攻を志したことが露骨に描かれていて(困ったことに-ではあるが)感動させられた方が、評価したと思う。例えばの話だが、夕日をバックに飛び立つ特攻機群を見て日の丸を連想して決意するとか。あの映画はそんな風に「危険」でさえない。いろんな意味で中途半端で、しかも、面白くなかったのである。

清水宏監督のレア作2本『桃の花の咲く下で』(1951)『明日は日本晴れ』(48)

Facebook への複数の投稿を組み合わせ、手を加えたものです。

清水宏監督の比較的レアな作品を、別の映画館で続けて観ることができた。

まずは神保町シアター笠置シヅ子特集で『桃の花の咲く下で』(51)。
終戦後の貧しさ濃い都会で、歌入りの紙芝居屋として働く笠置。もとは夜の女だったが、産んだ男の子は育てる余裕がなく、父たる男とその妻の家庭の養子に出していた…。
黙っていても笑っているような顔の笠置が元気に哀しい女を演じるのがミソで、独特の胸つかむ叙情がある。河原で去りゆく息子とその友だちを見送るカットなど素晴らしく、全身がジンと来る。温泉地の川にかかる粗末な橋の使い方など、この監督らしい細部も魅力的。安直にも思われかねない「簡単なマスクで正体を隠す」といった設定も、紙芝居の荒唐無稽が実生活にまで及んでいると考えれば、映画らしくて面白い。
だが笠置の歌うシーンで子どもたちがいまひとつ楽しそうに見えないなどの疑問点があり、傑作とは言い難い。特に冒頭、歌いながら子供たちを引き連れるのを長回しの斜め後退移動で撮るという魅力的になりそうな場面で、子供のみならずすれ違う大人までもが生気のない表情をしているのには(悪い意味で)動揺してしまった。いまひとつピリッとしたところのないストーリーといい、清水宏監督としては力の入り切らなかった仕事と言えるかも。リアリズムとミュージカルを融合する道が見いだせなかったのか。
それでも前述のような魅力的な要素で見せきってしまうのはたいしたもので、これが初仕事となる鳥居塚誠一の美術も見応えがある。

続いてシネマヴェーラ渋谷で『明日は日本晴れ』(48)。
『桃の…』と比べてもレア度は圧倒的で、公開後長らく観られず幻となっていたのが、昨年の国立映画アーカイブ「発掘された映画たち2022」(※注)でお目見えしたものだ。
清水宏監督で題材は田舎の路線バス-といえばただちに戦前の傑作『有りがたうさん』(36)を思い出すひとも多いだろうが、決定的に違うのは本作では峠越えの最中に故障し、止まってしまうことである。要は「動けないバス」の映画で、陽光の下の開放感ある停滞感が独特だ。
乗合車両なので、『駅馬車』(39)のように個性的な人物が入れ混じって社会の縮図を形作るわけだが、皆が戦争の影を負っているのが重要だ。片足の傷痍軍人が上官クラスの男に怒りをぶつける場面の鮮烈さは、多くのひとに語られるところだろう。戦災孤児と思われる子どもを登場させてすぐに(タダ乗りだから追い出して)退場させるのだが、ラスト間際に再登場させて題名にふさわしい希望ある行動をさせるあたりも、心憎い。
東京から帰省したワケアリ女の国友和歌子の描き方も素晴らしく、二度にわたりアップになる脚の美しさ、サングラスを外すタイミングなど、ため息がでる。彼女が草むらに埋もれるようにしゃがんで勘のいい按摩と話す場面は、情感溢れる名シーンだ。
スターといえるのは運転手の水島道太郎だけ。オールロケーションで手早く撮られた低予算の独立プロ作品ながら、観るひとの数だけ異なる感想を導きそうな豊かさに満ち、時代に翻弄された人々への作家のまなざしが深い余韻を残す傑作中の傑作。国立映画アーカイブによって作られたプリントが、映画館で鑑賞できるようになった意義は大きい。

注:国立映画アーカイブ公式YouTubeチャンネルによる上映企画「発掘された映画たち2022」記者発表会での解説