鑑賞録やその他の記事

『すべて、至るところにある』(2023)、或いは、「ない」?

書き下ろしです。

マレーシア出身で大阪を拠点に活動するリム・カーワイ監督の最新作『すべて、至るところにある』を、渋谷のイメージフォーラムで観た。

バルカン半島で出会った女性エヴァ(アデラ・ソー)と男性映画監督ジェイ(尚玄)。ふたりは意気投合し、ジェイはエヴァをヒロインに映画を撮影する。やがてジェイは姿を消し、エヴァは完成した映画も観ないまま、彼の行方を追ってバルカン半島の国々を巡る…。

物語には大きく3つの流れがある。1、エヴァとジェイの出会いと映画作り。2、エヴァと別れたジェイの旅。3、エヴァのジェイを探す旅。
-これらがときには前後し、ときには並行して描かれる中、別の要素もある。随所でバルカン半島で取材した人々のナマのインタビュー(というより、カメラの前での語り)が挿入されるのだ。戦争の体験を語る彼らはドキュメンタリーの取材対象でありながら、エヴァとジェイの物語の登場人物にもなる。
フィクションとドキュメンタリーを独自の手つきでミックスした作りだ。

エヴァとジェイの最初の出会いに注目したい。
ジェイは-橋の上だったか-高い、かなり離れた場所からエヴァの小さな姿を見下ろす。それからすぐ、エヴァがジェイに-目と鼻の先にいたが如く-近よるカットになる。実際は時間をかけてやってくるのが省略されてるわけで、そのこと自体は映画として珍しくはない。むしろそういうのがない映画は、かなり「たるい」。
にもかかわらずここで印象に残るのは、作り手の距離に対する鋭い感覚もあるだろうし。前もって-このシーンから時系列的には後になる-離れてしまったエヴァとジェイを見ているからかも知れない。

そのように本作では登場人物間の空間的(または時間的な)距離が描かれ、同時にそれが「映画である」ことで消えさる予感をも漂わせ続ける。
それは例えばこういうことだ。別々になったエヴァとジェイだが、映画の作り方として、片方が見つめるカットの次にもうひとりをつなげれば、一気に近くの相手を見ていることになる。ふたりが再会しないのは、たまたまそのようにカットがつながってないからではないのか-という気にさせられる。

あるいは逆に、ある場所をジェイが訪れ、しばらくしてから同じ場所をエヴァが訪れるとき、結局ここで感じられる時間的な(または空間的な)距離は映画が捏造したものではないか-という気にもなる。
ふたりは同じ場所にいたのに、映画の作り方として、別のシーンにしたから距離が生まれたのではないか。カメラが回ってないとき、エヴァとジェイ-というより-アデラ・ソーと尚玄は、一緒にその場にいたのではないか。だとしたら、役になることが距離を引き寄せたのか?

こうして観客の俺は、距離があること、無くなることを、「それが映画だから」として捉え、しかも実在する距離に縛られたドキュメンタリーと共存してることに、心地よい混乱を覚える。

その混乱を通じて共有できる「映画の旅」の不定形の魅力が頂点に達するのは、エヴァとジェイの再会と言えるかも知れないシーンだ。
美しく捉えられた川にいるエヴァ(と、もうひとりの女性)を橋の上から見下ろすジェイ。
それはエヴァの感じた幻かも知れないし、実はジェイは生きていて見ていたのかも知れないし。さらにいえば、時制的には過去にそこにいたジェイの見ている姿といまのエヴァが、映画として、たまたま「つながってしまった」のかも知れない。

そのどこにも結論づけられないまま、その後の映画が上映されるシーンでエヴァが「ジェイは私たちを見ている」というようなことを-不気味にではなく-あっさりと語ってしまうのを見ると、「映画」における距離の捏造も無効化も、人間の「心」とつながってくるような気がして、「すべて、至るところにある」と呟きたくなってしまうのだが。
いや、逆に「ない」からこそ、ひとは映画を、映画はひとを、追いかけたくなるんじゃないか。そういうことに気づかせてくれる映画なんじゃないか…とも、つけ足したくなってしまう。

SF的なモニュメントが散在する風景を取り込みつつ、自らのリズムで消化していく監督の語り口は、人間臭い息遣いを感じさせて魅力的だし。まずはそこに「在ろう」とする役者たちもよき共犯者となっている。
あと一歩、例えば、歌か、歌に匹敵する美しいモノローグがあればもっと凄かった-と思うのは、俺の趣味なのかな。もちろん今のままでも充分に刺激的で、世界を見る目が少しだけ変わるような得難い体験をした。

芸術的珍品『あるじ』(1925)

書き下ろしです。

2022年末に好評だったカール・テオドア・ドライヤー監督特集が、再び開催されている。
今回新たに加えられた3作のうち『あるじ』を観た。初見。1925年、ドライヤーが30代半ばのときに母国デンマークで撮ったもので、フランスなどで大ヒットし、映画史に名を残す傑作『裁かるるジャンヌ』(28)制作につながったという。

失業中のヴィクトルは家庭では暴君のように振る舞い、特に献身的な若妻イダに辛く当たる。その有様を見かねたヴィクトルの乳母マッスは、一計を案じる。イダを病気療養の名目で実家に帰らせ、彼女のいない生活の不自由を思い知らせようというのだ…。

マッスを演じるマチルド・ニールセンが貫禄たっぷりの肝っ玉おばさんぶりで、まずはこのひとの芝居を楽しむ映画と言えるだろう。
当時すでにデビュー40年のベテランで、この後も多くの映画に主演。42年には本作のリメイクで同じマッス役を演じた。彼女に肩入れして見れば、ワガママ男を凹ませて可愛そうな女性を救う痛快コメディに見えるわけだし、実際、そういうのが本作の "売り" なんだろうと思う。

しかし、どうもそれだけの印象ではない。
もちろん、ドライヤーらしいある種の徹底性を感じさせる美的な魅力はある。当時のデンマークの家庭を再現したセットは、リアルでありながらも、役者の動きとともに見事な映像を形作っていく。ストーブ、やかん、鳥かご、ネクタイ、机の脚などの細部が的確に役割を演じ、映画全体のテンポも着実。高度に完成された無声映画を観るときのしっかりした手応えを得ることができる。

しかし自分が強く揺さぶられたのは、この映画のヤバさというか、倒錯的なところだ。

まず前半のヴィクトルの横暴ぶりは、暴力的なサディズムを感じさせる。
ストーリー上この男が酷ければ酷いほど後半に効果が上がるんだから仕方ないじゃないか…という意見もあるだろうし、それはその通りなのだが。演じるヨハンネス・マイヤーの病的に凝り固まったような表情が、必要以上の悪魔性を感じさせてはいないだろうか。単に「荒れてる」のではなく、神経症的な怖さと一触即発の加虐性を漂わせている。
彼の家族への虐待の中で-デンマークではよくあるのかは知らないが-息子を壁に向かって立たせて手を後ろに組ませるというのがあり、その印象はとりわけ陰惨だ。その後のシーンで息子の後ろ姿が、さりげなく「道具」のように映り込んでるのに、何とも言えないものがある。

そして後半、ヴィクトルは思い知らされ、徐々に反省していくのだが。そんな彼はあたかもマッスに「調教」されているように見えてくる。マッスはマッスで支配下に置いた者を観察する「主人」となり、ふたりの関係はSM色濃厚に見える。
その関係の中でヴィクトルは「罰せられるべき者」としての自分に目覚め、子どもの立場に追いやられる…いや、自らを追いやるのである! 成熟した子どもという倒錯!
そして遂には-自分が息子に強いたような-鞭打ちをも受け入れる体勢で、壁に向かって立つことになる。それは、「調教を受け入れる者」としての、マゾヒスティックな「奴隷完成形」に見える。後手を組むことは、縛られることを受け入れるための決定的な仕草だ。

映画はそこまでやっておきながらヴィクトルとイダの再会(それも「主人」たるマッスの思惑通りなのだが)で、穏やかなハッピーエンドを迎えるのだが。倒錯性の印象は鑑賞後も澱みのように残る。
それが美しさへの感銘と共にあるのだから、これはかなり厄介な、一言では言い難い魅力ある映画だと言えよう。もしもクリント・イーストウッドが観たら、自分がヴィクトル役でリメイクしたいと思うのではないだろうか。

傑作である-と言うには、そんな明快な結論は似合わないような気がする。あくまでもコメディであることも踏まえて、異常に魅力的な珍品と呼びたい。ドライヤーらしい芸術性に満ちた珍品として、こわごわ、愛でていきたい映画なのだ。

力作『窓ぎわのトットちゃん』(2023)

書き下ろしです。

八鍬新之介監督作『窓ぎわのトットちゃん』(23)を観る。
言わずとしれた黒柳徹子の大ベストセラーの映画化で、黒柳は製作にも名を連ね、ナレーションも務めている(※注)。

勉強不足なことに自分はこの原作、読んでないのだ。ただしそんな自分でも、"トットちゃん" と呼ばれる幼い頃の黒柳が、問題児扱いされて転校し、新たな学校のユニークな教育方針のもと、のびのびと育つ話らしい-ということは知っているし、映画を観てもそういう部分が大きかった。…というのは、それだけではない部分も充分にあったということなのだが。

アニメの絵柄はちょっと癖のある感じの個性的なもので、予告を観たとき「苦手かな」と思ったのだが、本篇でも馴染めなかった。
逆にピッタリ来るひとならば、最初からずっと「ノッて」観ることができるだろう。それ自体は-自分の嗜好に合わなかったのは残念としても-良いことなんだろうと思う。

では、そうした "タッチ" 以外のドラマ演出的な面はどうだったかというと、これはかなりしっかりと作ってある。
登校の際に通る改札のオジサンとの交流とか、新しい学校での教育内容の描写など、丁寧に押さえていくことで、気持ちよく主人公のトットちゃんに寄り添って観られるようになっている。もちろん、トットちゃんの個性というか言動の特徴もよく伝わってくる。

一方で、「これはどうかな?」と思ってしまう箇所もある。
ここからはネタバレ全開になるが。例えば、(電車の車両が校舎になっている)学校に新しい車両が来ると知った子どもたちが、「どういう方法で来るか」を話題にした後で、未明に来るのを見るシーン。
ぼんやりとしたモヤの向こうから、いよいよ車両がやってくる。うっすら影が見えてきた。さあ、どういう風に!?…というところで、あっさりカットを割って、方法が分かる画面になってしまうのは、物足りなかった。近づくにつれ影から実体になる描写がアニメ技術的に難しかったにしても、ここはもう少し子どもたちの見た目で「うわぁぁぁ…」と徐々に真相が目の当たりになる感じが出なかったものか。『フェリーニのアマルコルド』(1974)のドドーン!と船が出てくるのとは、違うのだから。
また、仲良しの "泰明ちゃん" と木の上に登る(というかトットちゃんが登らせてあげる)ところは本作の重要シーンのひとつだと思うが。最初のうち失敗して落ちるふたりを直接描かない(別のものをカットインする)のは、どうかと思った。
ここはしっかり子どもたちのアクションや痛みを描くところで、カットインは美的に逃げてる感じが-少なくとも自分には-してしまったのだ。

しかしそうした細かな不満も、後半、トットちゃんと泰明ちゃんの美しい夜の雨のシーンから、お父さんが家でヴァイオリンを弾くのを経て、悲劇が訪れ、トットちゃんの走りになるまでの流れの凄みで吹き飛んでしまう。
この次から次への展開に、作り手たちの「これだ! これを見せたいんだ!」という気持ちが濃縮されているのが素晴らしい。そこでは幼いトットちゃんの個人的体験が、生きた時代と離れがたいものとして、アニメーションという表現に昇華されているのだ。
その熱気に打たれ、感情を掻き立てられる手応え。自分には、尊重すべき "力作" という表現がピッタリ来るように思えた。
決して甘い映画ではないのだ。

ただ、ラストでもうひとつ、ちょっと見過ごせない疑問点があった。
赤ちゃんを抱えたまま走行中の汽車のドアを開けるというのは、いかがなものだろうか。いや、あのシーンは半分幻想で、ドアを開けたのも「つもり」だったのかも知れないけど。絵面では、はっきりそういう危ないことをしてるわけで、自分にはしっくり来なかったな。皆さんはどうだろうか。

それにしても、ここんところ続けて本作、『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』(2023)、『劇場版 SPY×FAMILY CODE: White』(23)と観て、改めて日本のアニメは凄いと痛感させられた。
評判の良い "ゲ謎" だけじゃなく、そこまででもない "スパファミ" もキレイだし、しっかりエンタテインメントしようという気概が伝わってくる。去年全体を振り返ると宮崎駿新作だけじゃなく "スラダン" もジャズのやつもあったし。映画の中ではアニメと縁遠かった自分だったけど、しっかり観ていかなきゃなあ。

注:最初と最後に出てくるだけで、全篇に流れるわけではない。

見事な綺麗事『PERFECT DAYS』(2023)

書き下ろしです。

ヴィム・ヴェンダース監督が日本で撮影し、役所広司がカンヌで最優秀男優賞に輝いた『PERFECT DAYS』(2023)を観た。

役所演じるひとり暮しの男、平山が、朝起きて車で出発し、渋谷各地の公園のトイレを清掃してまわる繰り返しの日々と、その中にささやかな変化をもたらす出来事の数々、そして平山自身の寡黙な賢者のような人間像を描く。

冒頭、朝日に染まる街の俯瞰にタイトルが重なり、滲んだような色合いの早朝の住宅街で箒をかける人物のローアングルのショットから、「シャ、シャ…」と音が繰り返される中、アパートの部屋に眠っていた平山のアップとなる。
ここでもう、みごとな "タッチ" を感じさせ「ヴェンダース、調子良さそうだぞ!」と思う。

そして始まるテキパキした段取りの出発の "儀式"、車でトイレを巡って清掃、神社の境内で昼食、仕事後の浅草地下街の店で一杯…といった一日の決まりごとを、繰り返し、繰り返し見せる。
通常の映画では一度描いたら充分なところを-合間合間の省略はあるとはいえ-律儀に繰り返すのだ。

だから退屈かというと、そうでもない。描写に魅力があるし、何より繰り返し自体に、何度も同じ旋律に戻ってくる音楽のような味わいがある。
かつてエンケン遠藤賢司)さんは「みんな純音楽家なんだ」と言ったが、まさにこの主人公こそ、生活という純音楽の演奏家な気がしてくる。
一日の終わりになると訪れるまどろみを実験的に表現した白黒映像も、よい区切りになっていると思う。

こんなふうに書いていくと慎ましやかな、禁欲的な映画かと思われそうだが-主人公の人間性はそうであるにしても-そんなことはない。
作り手側は過剰なぐらいやりたいことやってる感じで、趣味的な趣向も、「ちょっといいでしょ?」と言いたげな細部も満載である。割と自己主張の強い自主映画みたいなところはある。
だからまあ、芸のない作り手が真似すると大失敗しそうな感じは、物凄くある。

そして先に言った "出来事の数々" の中に比較的目立つ事件が3つあるのだが、それぞれについて、一歩間違えば観ていて気恥ずかしくなってしまいそうなポイントがある。
ひとつ、ネタバレをお許しいただいて、具体的に書いてみよう。

ある夜、平山のもとに高校生ぐらいの姪が転がり込んでくる。母親(平山の妹)と喧嘩して家出したのだ。翌日、いつものように早起きした平山についていき、トイレ巡りし、慣れぬ手つきで仕事も手伝う。一日の終りのお決まりの銭湯タイムも、それぞれの湯に入り、休憩所で落ち合ったりする。
橋の上、隅田川の流れを見下ろすふたり。
「この先、どこに続いているの?」と姪(ここから、セリフは不正確)。「海だよ」「行きたい」「今度ね」「今、行きたい」「今度は今度。今じゃない」「今度は今度…」「今は今!」
そしてふたりはそれぞれ自転車に乗り、「こんどはこんどー!」「いまはいまー!」と、明るく叫びながら、その場を立ち去るのだった…。

どうっすか? 文字面だと、相当、気恥ずかしくないっすか? 自分はおぼろげな記憶で書き起こしてて、「ヴェンダース、よくやるよ」と-あんまりよくない意味で-思っちゃいましたよ。

ところがこれが、そんなでもなく、見れちゃうのだ。他の "恥ずかしポイント" も、「これはこういうもの」という感じで、見れちゃうのである。
なんというか、この映画ならではの "タッチ" の良さ、全体の音楽的構成の中で成立しちゃってるのだ。ヴェンダースがその個性を極めた筆致で仕上げた絵本のような世界の中の出来事だから、オッケーなのだ。
その意味でこの映画は-ドキュメンタリー風にも見え、即興性をとりいれた演出にも拘わらず-よくできたツクリモノといえよう。

ツクリモノ…いや、もっというとキレイゴトと言えるかも知れない。平山の存在を含め、語られている内容の中核は、ヴェンダースがスタッフ・キャストと総力をかけて作り出したキレイゴト。
だから-この映画にしばしば指摘される行政や資本との絡みという意味ではなく-「こんなの、観てられないっすよ!」と言うひとが出てきても仕方ないし、何なら、気持ちは分からんでもない。俺だって映画でしばしば「キレイゴト過ぎてついていけないよ…」と思うこと、あるからだ。

しかし、それでもこの "作家性" に裏付けられた見事な綺麗事には、気持ちよくさせられてしまう。やはり多少の気恥ずかしさはあるものの、甘やかな語り口に解きほぐされたようになり、ニーナ・シモンの鳴り響く-もし他の監督が撮ったら-「うーん、ちょっとコレ、どうかなァ」と言いたくなりかねないラストも受け入れてしまう。
ただし「真似るな危険」という警告を自分に発しつつ-だ。

役者はみな見もので、特に女優陣が魅力的に撮られている。姪役の中野有紗なんて、デビュー作でこんなに美しく撮られて幸せだねえ…と感じ入ってしまった。

芸能の真髄『キャビン・イン・ザ・スカイ』(1943)

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ヴィンセント・ミネリの公式な監督デビュー作(※注1)『キャビン・イン・ザ・スカイ』(1943)を観る。ブロードウェイのヒット・ミュージカルの映画化で、アメリカ南部を舞台に登場人物は全員黒人という趣向だ。

お人好しのリトル・ジョーは、しっかり者の妻ペチュニアの支えがあるにも拘らず、悪い仲間に引き込まれてギャンブル三昧の日々。改心しようと教会に行ったのに仲間に呼び出されてイカサマ勝負に手を出した挙句、撃たれてしまう。息を引き取り、悪魔の使いが地獄に呼びに来たところで神の使いも現れ、どちらの世界に行くかで揉める。結局、生き返って6ヶ月の猶予期間を与えられ、その間の生き方で決まることに。悪魔の手下はジョーを堕落させようと競馬で大当たりさせ、大金を掴ませる…。

主人公夫婦のタイプやオチなど、ものすごく落語っぽくて、すんなりと話に乗っていける。
ミネリの演出も堂に入ったもので、悪魔の使いが最初に現れるときのランプと影の演出、猶予期間中のジョーを巡って悪魔および神の使いがいさかい合う面白さ、クライマックスの大竜巻(※注2)で悲劇的な銃撃の直後に天井が崩れるドラマチックさなど、確かなうまさを感じさせる。前回取り上げた『二日間の出会い』(45)ほどの冴えはないにしても、職人監督としてかなり信頼できる腕を見せたと言っていいだろう。

しかしやはり本作の見ものは、往年の黒人エンタティナーたちの宝のような芸の数々だ。
まずペチュニア役は、舞台版と同じエセル・ウォーターズ。デビュー時のスリムさからややふっくらし始めてきて、油の乗った歌声を聴かせる。
悪魔側の娼婦役がリナ・ホーンで、初期黒人女性ポピュラー・ヴォーカルの最高峰の共演というわけだ。ちなみにふたりとも-本作では歌われないが-名曲『ストーミー・ウェザー』に縁が深い。エセルは1933年に初録音し、リナはその10年後に同名映画で歌った。
もうひとりの主役、リトル・ジョー役のエディ・"ロチェスター"・アンダーソンは、ラジオで全米的な人気を博したコメディアン。音楽的な功績に特筆すべきものはないが、美声じゃない歌に味がある。歌手ではなく、芸人の歌の良さ。
歌手でいうと、神の使いを演じたケネス・スペンサーはクラシックの声楽で鍛えた名歌手。本作でも二役の牧師で、クワイア(合唱隊)と共にみごとにゴスペルを歌いあげてみせる。後年ドイツに移住し、各国の民謡を原語で歌うなど多彩な活躍をみせた。
ジョーを銃撃するギャンブラー、ドミノ・ジョンソン役のジョン・バブルスは、リズム・タップの父と呼ばれた伝説的ダンサー。フレッド・アステアのタップの先生でもある。彼が戦前の有名曲『シャイン』を歌い踊るシーンは、実に華がある(※注3)。
ダンサーといえば、本作オリジナルの名曲『恋のチャンスを』をエセルが歌うシーンで踊るビル・ベイリーも名手で、後にマイケル・ジャックソンのトレードマークとなる "ムーンウォーク" の初期型を見せてくれる。また、このシーンでアンダーソンが見せるすり足ダンスは、ジェームス・ブラウンっぽい。マイケルにせよJBにせよ、そのスタイルはひとりで生んだものではなく、黒人エンタテインメントの伝統の上にあるのだ。
そして大物中の大物が、デューク・エリントン。オーケストラを率いて十八番の『昔はよかったね』のテーマを響かせてから『ゴーイング・アップ』に繋いでいく。映像はオーケストラよりダンサーたち中心だが、エリントンで黒人たちが踊るというのは、それはそれでグッと来る。
もうひとりの超大物、サッチモことルイ・アームストロングも悪魔の使いの手下で出ているが、セリフ劇の最中にちょっとトランペットを吹くだけ。フィーチャーされたナンバーはカットされてしまったそうだ(※注4)。

というわけで、溢れるエンタテインメント精神とバイタリティに圧倒され、幸せな気分になる一本。天国を暗示する題名ながらもここにあるのは生きる大切さで、物語的にも-他愛ないながら-それに相応しいエンディングが用意されている。
こんな映画を楽しめる精神を持った上で、暴力や不正や悪にも怒ろうじゃないですか。あけましておめでとうございます。

注1:本作以前に1941年の "Panama Hattie" を部分的に監督しているが、クレジットされてない。

注2:竜巻のシーンには『オズの魔法使』(39)のために作られた映像が使われてるとのこと。

注3:このシーンはバズビー・バークレーが演出しているとの記載が、英語版 Wikpedia(と、恐らくそれをベースにしてる日本語版)にある。

注4:とはいえサッチモがちょこっと吹くのは、とてもカッコイイ。また、カットされた "Ain't It The Truth" は、サウンドトラック盤では聴くことができる。

驚くべき傑作『二日間の出会い』(1945)

書き下ろしです。

シネマヴェーラ渋谷で『二日間の出会い』(1945)。
ジュディ・ガーランドが歌わない映画で、監督はこの年、ジュディと結婚することになるヴィンセント・ミネリ
実は自分、ミネリの有名作は『巴里のアメリカ人』(51)も『バンド・ワゴン』(53)も世間でいわれるほど評価しないのだが。正直、これは参った。ノッてるときのミネリの力量をとことん、思い知らされた。

ストーリーは、ロバート・ウォーカー扮する田舎者の兵士が休暇でニューヨークを訪れ、OLのジュディと出会って、タイトル通り二日の間に熱烈な恋に陥るというもの。
こうした "兵士の休暇もの" は往年のアメリカ映画によくあり、『青空に踊る』(43)『踊る大紐育』(49) 『よろめき休暇』(57)などが思い浮かぶ。ひとつのパターンと言えるもので、その意味で斬新さはない。主なストーリーも、いま書いたことで言い切っている。

だが、ありがちでシンプルな物語を語り切るのに、作り手の才能と精力を尽くしたときのハリウッド黄金時代の映画がどんなに凄いか。
本作はひとつの見本となるものだ。シンプルだからこそ凄い、美しい-と思い知らされるのは、映画の根源的な魅力に引き込まれてしまう奇跡のような体験なのだ

二日間の出来事を面白く見せるには、主人公たちにどのような人物を絡ませ、どのように展開すればいいのか。これにふたりの脚本家、ジョセフ・シュランクとロバート・ネイサンは知恵を注いだ。
シュランクはブロードウェイの劇作家出身で、ミネリとは監督デビュー作でも付き合っている。そしてネイサンは『ジェニーの肖像』などで知られる有名な小説家。そのへんの人間が頭を絞るのとは、最初っから違うのだ。

主人公たちの間でいよいよロマンチックなムードが高まるのは、夜の都市公園の緑の中。ロバートは、ここは自分の田舎のようだと言う。ジュディは、そんなことはない、耳をすませば(都会らしく)いろんな音が聞こえると言う。ここから無言の芝居。たしかに聞こえる、街の音-だが、次第にふたりには、ロマンチックなメロディが響いてくる。街の効果音が、美しい映画音楽に取って代わる。見つめ合い、初めてのキスをする。いけないわ、帰ります-と、ジュディ。ではふたりでバス停まで。行ってみれば、何ということだ、終バスは行った後。そこにコトコト馬車のようにやってくる小さな、変わった形の運送自動車。ハンドルを握る人の良さそうなオジサン(ジェームズ・グリーソン)が、乗せてくれる。オジサンは牛乳配達夫。これからひと仕事終えたら、家まで送ってあげる。倉庫で牛乳を積む。出発進行、すぐにパンク。スペアタイヤはないが、カー・サーヴィスに連絡して換えてもらう-と、のんびりしたもの。その間、深夜営業のカフェで過ごしてると、タチの悪い酔っ払いが絡んでくる。なんやかんやで配達夫のオジサン、ひっくり返って怪我をする。タイヤ交換は完了。でもオジサン、車に運んでもまだまだ気分が悪そう。それじゃ仕方ない-と、ジュディとロバートは、ふたりで朝まで懸命に牛乳配達をするのだ!

凄くないですか?
みごとに状況が進んで、ふたりの忘れがたき夜の体験が、牛乳配達! 深夜作業の労務者がトラックの上から、OLと兵士が牛乳の入ったカゴをさげてビルに入って行くのを珍しそうに見るカットのユーモア!
しかもその後、配達夫の家で幸せな初老夫婦の人生哲学に触れ、いよいよこの短い期間で結ばれる決意を固めるのだから、完璧な展開ですよ。

ミネリの演出はいま書いた流れの中でも、キスをするときのたっぷりとした切り返し、カフェのシーンの長回しなど、技術を尽くしながらも自然なタッチで凄いんだけど。
そもそもファースト・シーンの駅の人混みから次第にロバートに焦点を当てるのや、エスカレーター降り口でのジュディとの出会いからして、魔術的なみごとさで引きずり込まれてしまう。

後半も凄い展開・演出があるのだが、具体的に書くのはこのあたりまでにしておこう。
映画全体を通してやはり強調しておきたいのは、ジュディの素晴らしさ。ただ可愛いだけではなく、ちょっとキョドってる自信なさげなOLにも見えるからこそ、性急な恋の物語を成立させるリアリティがある。変な子が決意したときには、強いのだ。