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『合衆国最後の日』(1977)

Facebook に 2012/11/11 に投稿した記事に手を加えたものです。

渋谷シアターNでロバート・アルドリッチ監督のポリティカル・アクションの傑作『合衆国最後の日』を観てきました。1977年の日本公開以来ですから実に35年を経ての再見ですが、何ごとも新鮮だった高校生当時に劣らぬ実に強烈な映画体験でした。
内容は核ミサイル基地をジャックした脱獄犯一味と合衆国政府の手に汗握る駆け引きを描いたもの。バート・ランカスター扮する一味のリーダー、デルは、元空軍の要職にいた人物で、ミサイル基地の設計にも関わったという設定です。

始まって間もなく基地の交代要員を襲う場面から実に切れ味のよい演出で、アクションを楽しませつつ、デルのリーダー性も、一味の中にどうしようもないヤクザがいることも、瞬時に分からせてしまう巧みさに舌を巻きます。
襲撃に成功して核ミサイルの鍵を握ったデルはやがてチャールズ・ダーニング扮する大統領と直に電話で交渉することになるのですが、要求は金と海外脱出に加え、合衆国のある機密文書を国民に公表すること。その文書こそがデルを冤罪に追い込んだ原因であり、これは彼と国との戦いなのです。
大統領にとっても文書の件は初耳でしたが、いったんは軍が提案した一味壊滅の "ゴールド作戦" にゴーサインを出します。それは小型の「きれいな原爆」を基地内に運び込んで、吹き飛ばしてしまおうというもの。これを聞いた大統領が死の灰と近隣住民への影響を懸念するあたりに、当時のアメリカ映画としてはなかなか進歩的な姿勢が感じられます(ちなみに本作にはサリンも登場します)。

作戦が一味に発覚し、激高したデルが核ミサイル発射に踏み切ろうとするあたりのサスペンスは強烈で、むかし観たときもでしたが、今回もアドレナリンが噴出しました。この物凄い盛り上がりこそがアルドリッチ監督の持ち味で、サイレントの巨匠グリフィスに匹敵するものがあります。

そのギリギリのサスペンスが一段落した後、大統領は目が覚めたように機密文書への怒りを露わにし始めます。文書の内容はベトナム戦争に関するもので、合衆国は正義のための勝利などは目指さず、ただ "威信" を示すためだけに兵士を犠牲にし続けたことを明らかにしているようです。
このときの大統領の言葉で興味深いのは、核兵器による抑止力は局地戦を抑えるどころか助長するという指摘です。つまり、ベトナム戦争などを通じて「本気になれば核ミサイルのボタンを押す国家」だということを "威信" を以て主張し続けなければならないことの恐ろしさです。この恐ろしさから抜け出すために、大統領は国民に真実を伝えた方が良いのではと判断するに至ります。

しかし、考えてみれば「本気になれば核ミサイルのボタンを押す」というのは、直前にデルがやったことでもあるのです。ここにアルドリッチのテロへの考察が見られます。つまりテロとは、国家に対抗して国家になろうとした小集団の戦いであり、デルはアメリカにとって最高の切り札である核を手中に収めることで、自ら小国家となって戦いを挑むわけです。すなわち、戦争です。

そしてこの映画は、駆け引きや基地への侵入など、戦争映画の醍醐味に満ちています。国家とテロを考察する社会派アルドリッチと、『特攻大作戦』(1967)のような上質の娯楽戦争映画監督アルドリッチが共存しています。そこが凄い。
社会派か娯楽派かは二者択一ではなく、より社会派であることによって娯楽が充実する道があることをアルドリッチは示しています。社会派の情熱が生んだ面白さは、社会派をも超えうるのです。なぜなら、ガチガチの米政府支持者にさえ、この映画は「面白い」でしょうから。そう言えば、わが国で最も社会派的な監督のひとりだった森崎東は「面白い」と言われることが本意だと言ってました。

ラストでこの映画は、強烈な社会派的問題提起を残しつつ、古代ギリシャ悲劇を思わせる英雄悲劇の域に到達します。その悲劇を目の当たりにするのは、政府要人ばかりでなく、その場に居合わせた無名のアメリカ国民もです。このときアルドリッチがひとりひとりの表情をどんなに丁寧に捉えているか、見逃してはなりません。彼らはギリシャ悲劇のコロスのようであり、合唱の代わりに流れるのはビリー・プレストンの歌声なのです。