鑑賞録やその他の記事

こういうことってあるよな

Facebook に 2013/ 1/21 に投稿した記事に手を加えたものです。

映画に於いて「こういうことってあるよな」「こういう人っているよな」と観客に思わせることは、非常に大切である。

例えば『カリフォルニア・ドールズ』(1981)のラストの決戦の前にピーター・フォークバート・ヤングが賭をし、誰が金を預かるかという話になったとき「お互いに持ってよう」になるところとか。『旧支配者のキャロル』(2011)の津田寛治が身体を売ろうとするヒロインに対して、「じゃあ俺が買うよ!」と言ってしまうところとか。観ていて「ああ、こういうの分かる、こういう人いる」という感じになる。そして観客は「分かる」と同時に「嗅ぎ取る」こともできる。
ピーター・フォークは絶対に金を大事に持ってないことを嗅ぎ取るし、津田寛治は決定的な大失敗をしたことを嗅ぎ取るのだ。
つまり、良き映画のリアリティは、観客に押しつけられるものではなく、開かれたものであり、映画に参加させ、観客の見知っている現実への風通しになるものである。

さらにリアリティは、押し進めるとシュールへの門戸にもなりうる。
ブニュエルの映画で描かれる偶然の再会など、「こういうことあるでしょ?ねえ、あるでしょ?」と繰り返されているうちに、ついには「ねえよ!」になる。その瞬間に世界はぐにゃりと歪むのだが、これはリアリティあってこそなのだ。

だからあなたが作り手側でも観客側でも、映画とよりよく付き合うには、現実に於いて大人の目を持つことは不可欠といえる。その目指すところがリアルでもシュールでも。