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クリント・イーストウッド『運び屋』(2018)

Facebook に 2019/ 3/31 に投稿した記事に手を加えたものです。

クリント・イーストウッドを "最後のアメリ映画作家" みたいに言うのは、いやいや変人過ぎるだろ、他にもいるだろ-と抵抗したくなるが、久々に主演を兼ねた監督作『運び屋』を観ると「うわわ、大好きなんだけど最近滅多に観られないアメリカ映画そのものじゃん」と、そうした物言いに乗っちゃいそうになる。

クリント演じる麻薬の運び屋が彼を追う捜査官とカフェレストランで会話するシーン、このたまらないような映画の味は、忘れかけていたものじゃないか、他のひとにはなかなかやれないものじゃないかと、感激したその次、外に出た彼を捜査官が呼び止めるのが正に西部劇の呼吸なんだから震えてしまう。
他にも、初めて荷の受け渡し場所に行くところ、軍人会の廃墟を訪れるところ、運び屋の見張り役の二人が警官に呼び止められるところ、病床の妻との会話、花壇前の娘との和解…等々、「そうそう、これが俺の知ってるアメリカ映画のドラマ演出」というシーンは枚挙にいとまがないが、やはり主眼は大平原を車で走る場面の数々だろう。

運ぶために走るだけのことがこれほどまでに魅惑的なのは、撃たれるだけ(『ガントレット』(1977))、歩くだけ(『ファイヤーフォックス』(82)の前半)を見せきったイーストウッドならではだが、彼の映画としてもこのシンプルさは久々で、ただ撮ってるだけのように見えて陶酔させる自然さも、またアメリカ映画の味そのものなのだ。もちろん実際は細心の注意を払って撮っているのだが、映画に似合う風土が飾らずにさらされていることに、観る側も完全に身を任せてしまう。これぞロードムービーだ。
その風土の仕上げとしてラジオからは歌が流れ、老運び屋は呑気に口ずさむ。その音が仕掛けられた盗聴マイクを通じて、背後を走る見張り役二人の車内に響き、「老運び屋の旅」が彼らにも伝染してしまうみごとな趣向。

やがて映画はクライマックスともなるラストに至るのだが。そこでは思わぬ大掛かりな状況が運び屋を囲み、世界の中の無力な個人としての老クリントの肉体が路上に降り立つ。ここに近年ずっと「現実世界の中の個人の話」たる実話モノに取り組んできた経験が生かされている気もしたが、同時にスターとしてのイーストウッドが求め続けていた自己回復の物語が、今回は自身の無力を認めるという決着を見ることに深く胸を打たれてしまう。なんという映画だろうか。
娘役のアリソン・イーストウッドはいい役者になった。父親を嫌う感じが、よく出ていた。

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運び屋(字幕版)