鑑賞録やその他の記事

スター発見

Facebook に 2013/ 6/ 6 に投稿した記事に手を加えたものです。

ウィル・スミスって大好きなんですけど。
ワイルドバンチ』(1969)のリメイクに出るという噂を聞いて「お!」と思ったら、現代劇版って話じゃないですか。ならゴダールにでも撮らせろよ…と、暴言(?)も吐きたくなりますが。まあ原作付きであれリメイクであれ、それは新たな映画のための企画に過ぎないですよね…。

そう言えば、西部劇の現代劇版リメイクってあまり聞かないですね。逆なら『ハイ・シェラ』(41)→『死の谷』(49)っていう物凄い例がありますけど。
パッと思い出すのは、むしろSF化のほう。
真昼の決闘』(52)→『アウトランド』(81)、『荒野の七人』(60)→『宇宙の七人』(80)ですね。リメイクってわけじゃないですが『スター・ウォーズ』の第一作(77)には『捜索者』(56)を模したシーンがありましたし。ハン・ソロなんかは完全に西部劇的キャラクターじゃないですか。
また『バック・トゥ・ザ・フューチャー PART3』(90)『ワイルド・ワイルド・ウエスト』(99)みたいなSF西部劇もあります。そういや、後者はウィル・スミス主演ですね。
要は同じファンタジーってことで相性がいいわけですよ。

ならばですね、先の暴言(?)とつなげて、ゴダールが『アルファヴィル』(65)でやった現代のパリを惑星都市に見立てるようなことをしちゃえば。低予算の自主映画で、西部劇も時代劇も、歌舞伎狂言も自由にSFとしてリメイクできる可能性があるわけです。
西山洋市が提唱している "髷のない時代劇" なんてのもそれに近い世界でしょうが。SFとして風景を発見する精神を持てば、映画で物語る自由は一気に拡大します。

ただそこでもう一度『アルファヴィル』のことを考えれば。あの場合、風景をフィクション的に色づかせたのはエディ・コンスタンティーヌ(=レミー・コーション)というスターの存在で。彼をハードボイルドそのものとして再発見する行為が、フィクションとしての物語の誕生となるわけです。
いや、それが再発見であろうが発見であろうが、撮りながら映画の中にスターを見出す。これがうまくいけば、世間的にどの程度のスターかなんて関係なく、あなたは映画という祭典の主祭となり得るわけです。
商業映画ではなく、俺の身内か、それに近い人々の映画でも、フィクショナルな映画の成功例はスター発見と共にあります。
旧支配者のキャロル』(2011)の中原翔子、『Playback』(12)の村上淳、『INAZUMA稲妻』(05)の宮田亜紀。この人たちにはキャリアや実力の違いはありましょうが、その都度スターとして発見され、映画の物語を色づかせたことでは同じです。宮田亜紀に関しては『先生を流産させる会』(11)のクライマックスで、突然時代劇のスターとして発見される瞬間がありました。
逆に良い役者を得ながら今ひとつ発見し損ねた映画も幾らでもありますが、ここでは具体名は挙げません。

現代をSFの舞台のように捉えて西部劇でも時代劇でも自由に語るには、まずスターの発見と物語の発見を同時に行うこと。
その "まず" が難しく、クリアするためには喜びと共に何らかのヤヴァさを受け入れる必要があるかも知れません。