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『荒野の女たち』(1966)

Facebook に 2022/ 9/11 に投稿した記事に手を加えたものです。

シネマヴェーラ渋谷ジョン・フォード特集で、『荒野の女たち』を観る。この巨匠監督の滅多に劇場にかからない遺作で、念願の初見だ。絶賛するひともいる一方、批判的な意見も多いので、どんなものかとある種のスリルを感じながら観たが、これはかなり衝撃的に素晴らしかった。

戦前の中国大陸を舞台に馬賊の襲撃に怯えながら暮らすキリスト教伝道施設の女たちを描いている。
主人公はそこにやってきたアン・バンクロフトだが、女医でありながらも行儀のいいインテリ女性ではない。むしろ『駅馬車』(39)のクレア・トレヴァーや『肉体』(33)のカレン・モーリー、『モガンボ』(53)のエヴァ・ガードナー同様に、世間ずれした気の強い-しかしどこか哀しい "玄人" の女という、フォード的ヒロインのひとつの典型に見える。
しかし、それだけではない。ヒーロー不在のこのドラマにおいて、流れ者のジョン・ウェイン的な役割をも担ってみせるのだ。実際、ヘビースモーカーの彼女は、ウェインのように煙草に火をつけたマッチを振って消して捨てたりする。そしてウェイン-特に後期フォードの『捜索者』(56)『リバティ・バランスを射った男』(62)の彼-のように、諦念を漂わせながら黙って他者を見るあの独特の孤独な目つきをする。
こうしたバンクロフトの身振りはどこかオトコオンナ的に倒錯的で、施設の長のマーガレット・レイトンなどレズビアンとして嫉妬するほどだ。その上で、女ならではの悲劇に陥ってしまうのだから陰惨だ。
前後の詳しい事情は書かないが、女たちの中で唯一ズボン姿だったバンクロフトが決定的な衣装替えをしたとき、こんな悲劇があっていいのかという思いに襲われた。あえて言えば、コマンチ族に捕らえられて部族衣装を着せられた『捜索者』のナタリー・ウッドに共通するものを感じる。しかしナタリーの可憐さがない分、より救いようがない。ちなみに、ナタリー・ウッドアン・バンクロフトは顔が似ている!
そして『捜索者』でナタリーを殺すかに見えて最後に救うジョン・ウェインがおらず、すべての決断を自分でしなければいけないバンクロフトはどうするのか…。彼女に帰る道はない…。

いやほんと、ヒドイ話である。そのヒドさは何らかの妥協の産物ではなく、フォードが本来もっているペシミスティックな面から自然に出てきたものなので、遺作として恥じる要素はない。
しかし孫のダン・フォードのフォード伝(※注)によれば、フォードはこれを撮ったことを激しく後悔していたという。
実はそれも分かるのだ。ヒットしなかったこと以上に、なんで俺、こんな誰もが見たくないような、ヒドい話を撮っちゃったんだろうな…という自分自身への悔いがあったと思う。「なんで」の理由はフォードのペシミズムで、自分でそれに抗いたい気持ちもあったと想像する。
だが、結局は『荒野の女たち』を撮ってしまい、遺作にしてしまったのだった。作家の業である。恐ろしい映画である。

注:『ジョン・フォード伝 親父と呼ばれた映画監督』(ダン・フォード 著・高橋千尋 訳、文芸春秋

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