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『ペコロスの母に会いに行く』(2013)

Facebook に 2013/12/ 3 に投稿した記事に手を加えたものです。

森﨑東監督、待望の新作『ペコロスの母に会いに行く』をようやく観ることができた。原作は未読なので、実話を基にした認知症の母とその子を扱ったものとしか知らない。

始まってすぐに、いわゆる「森﨑映画」のイメージである群像劇ではないことに気づく。
不思議な関係の疑似家族も出てこないし、複数の人物があちこちにダイナミックに移動することもない。どこにでもある普通の日常を扱った映画として、家にいて、仕事に出かけて、飲み屋に寄ったりするばかりだ。

だがやがて、今回の映画では空間的・人物的な広がりにかわって、時間的な広がりがあることに気づく。通常の映画に回想が挟まれるスタイルを超えて、過去と現在が交錯して描かれるのだ。

もちろん、そのようなスタイルの映画も別に珍しいわけではない。
だが、ほとんどの映画で過去は失われたもの、現在はいまここに在るものとして描かれるのに対し。この作品では、現在もまた失われつつあるものとして、過去と同様の意味をもって描かれるのだ。

赤木春恵の母親は明らかに映画の進行と共にその表情から何かを失いはじめ。岩松了の息子もまた、母親と別居し、母親に忘れられることで大事なものを失っていく。
この "失う" ということで過去と現在は等価となり、観客の俺もいま観ている一瞬一瞬を失うことを惜しみつつ。スクリーンに目を凝らし、貴重な時間を追おうとする。

そして橋の上で、失われたはずの過去と、現在の逆転が起きるとき。
俺が涙するのは、その逆転を認知症の母のみならず、息子も孫も共有するからだ。
つまりこれは一種の奇跡であり、奇跡を呼び寄せる剛腕こそが森﨑映画であり、やはりこれは "強い" 映画なのだ。

森﨑東監督が昔から実話ネタにこだわり続けているのは、実話から派生する "噺" を通して、現実に奇跡を呼び寄せたいからだと思う。
その "呼び寄せること" が甘っちょろいものにならないために、充分に現実の "苦さ" を踏まえるべきだと訴える。
母親の人生は苦かったし、いま起きつつあることは苦い。それを描いた上で、どうしても映画のかたちとして奇跡につなげていきたいという想い。その想いを実現するために、赤木春恵の "顔" に賭けていることが、この映画に力を与えている。

その顔が、何かを見つけるときは、祭りの夜でなくてはならない。
それは何故かということを理屈で考える前に、奇跡は始まる。

東西の有名作家は、"失う" ことについて、それぞれ名言を残した。
「サヨナラだけが人生だ」「サヨナラは少しの間、死ぬことだ」
かたや "生"、かたや "死" という言葉を使っているが、このふたつはそう離れた言葉でもない。生きているから死を感じ、この映画に沿って言うなら、生きているから死人に出会えるのだ。

やはり我々は、生きていた方がいい。
そう思うための何かを、森﨑監督はこの映画で描ききったのである。

pecoross.jp