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山﨑樹一郎『やまぶき』(2022)

書き下ろしです。

岡山県真庭市で農業しながら映画作りをしているという山﨑樹一郎監督の『やまぶき』を観る。長編三作目というが、自分はこの監督の作はお初。これがかなり密度の濃い映画体験となった。
真庭市らしき地方都市を舞台に、カン・ユンス演じる韓国から来た労働者 "チャンス" と、祷キララ演じる女子高生 "やまぶき" の歩みが平行的に描かれる。幼い娘を抱えた女性(和田光沙)と同棲するチャンスの生活は貧しいが、昔は名のある馬術競技の選手だったらしい。一方やまぶきは、社会に向けた声をプラカードにして街角に立ついわゆる "サイレント・スタンディング" に参加し、ときにはひとりで立ったりもする。それを刑事の父(川瀬陽太)に見かけられ、咎められる…。
いずれの登場人物も影を持ち、何らかの錘を抱えているのだが、映画は決して説明を急がない。観客は息を潜めて人物と付き合いながら、「こういうことか」と見出していく。その過程で描写されていくあれこれに言葉にできる以上のものを感じさせようとするのだが、決して "オフビート" だったり "ニュアンス" に逃げたりはしない。正面からナマの人物を捉えようとする潔い演出ぶりで、撮るそばから映画を発見しようという志が、手応えのある緊張感を持続させている。
そんな中でも確かに-才気というより-才能のある映画作家の証があちこちに感じられる。例えば刑事の父が山で "山吹" の花を採ろうとするところ。ここは直後に悲惨な展開につながるのだが、凶兆が彼を見つめる後輩刑事(三浦誠己)の顔に無言のうちに示されてしまう。この後輩の顔の使い方は、誰にでもできるものではない。チャンスの住む女性の家の玄関先のカットは印象的だし、その女性の職場の窓の向こうに別居している夫の車がやってくるところもいい。チャンスが脚の骨を折ってから松葉杖で歩く様子は、どの場面でも心をざわつかせる。映画をよく知ってるひとが撮っているからだ。
何よりずっと別々だったチャンスとやまぶきが言葉をかわす交差点の広場のシーンは、そこまで引っ張っただけの甲斐があるみごとな充実ぶりだ。ここでのチャンスの言葉は、資本主義と貧困の問題を正面から告発するようなもので、生々し過ぎる。だがそれがいい。今こそこの言葉を語らせなければならないという作り手の気持ちが、映画のシーンとしての充実度とシンクロしている。社会派だからこそ、映画として充実したのだ。これができてない "社会派" 映画の-敢えてタイトルは挙げないが-何と多いことか。
さて、自分がこの映画を観た大きな動機に、祷キララが出てるってのがある。『Dressing UP』(2012)『さりゆくもの』(20)でみごとな存在感を示した彼女は、ここでも出てくるだけで映画の世界を染め上げる力がある。真っ直ぐな目でしっかりと語るだけで、セリフが生きて、説得力を持つのだ。今後も追ってみたいと思う女優さんだ。