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正しい映画『ラッシュ/プライドと友情』(2013)

Facebook の 2014/ 2/24 の投稿に手を加えたものです。

ようやく観て参りました、ロン・ハワード監督作『ラッシュ/プライドと友情』。観て、参りました。
物語は実在のF1レーサーで、派手なスター・タイプのジェームズ・ハントクリス・ヘムズワース)と、冷徹な研究家タイプのニキ・ラウダダニエル・ブリュール)の熾烈な戦いと友情を描いたもの。本題の部分もたいへん素晴らしいのだが、脇の展開で「さすがハワード」と唸らされるところがあった。
人付き合いが悪く孤独になりがちなニキを、レーサー仲間が自家用車で田園地帯にある友人邸のパーティに連れて行く。ニキの交友を広げてやろうという心遣いだったが、車内で二人は(どう考えてもニキが悪いのだが)喧嘩して。レーサー仲間は邸宅前で車を停めながらも「お前なんか紹介してやらねえ」とばかり、ひとりで玄関に向かう。迎え入れられた仲間。ニキの視線の先でドアが閉まる。
観ていてここで、「あ、ニキ、外で誰かと会うな」と思ってしまうわけだ。
案の定、(のちにニキの妻となる)美しい女性(アレクサンドラ・マリア・ララ)が、白いシンプルなドレスを着て出てくる。この衣装の選択が素晴らしいのだが、それはもう理屈抜きに「ここはこの衣装がイイネ」と思わせるもので、それこそが映画のツボなのだ。また、彼女もパーティから "ひとりで" 帰ることで、ニキと同類の "社交苦手" であることも感じさせる。
友人の車で来たニキは、車で最寄りの駅まで送ってくれないかと頼み、彼女も承諾する。助手席でニキは車の音や乗っている感覚から、整備不良であることを指摘する。ここがまた、実にいい。ニキの車の整備へのこだわりが感じられ、それを彼が "尻で" (つまり、座っていて振動を感知することで)分かるというのが良いのだ。ついでに言えば音を聞くために(彼女がゴキゲンで聴いている)ラジオを止める無礼さも、いい。
ニキがケチをつけたことに対し、彼女は「まさか」と。「高いお金を出して整備点検したばかりなのよ」とはねのけるが。"そんなこと言ってると案の定" という山中貞雄的な展開が待っていて、それが美しいロングショットで提示されるのがまさに映画の醍醐味である。まあ、このあたりは、実際に観て、堪能して頂きたい。
その後のヒッチハイクから、彼女がニキの素性を知る展開。それに沿ったドライビング・テクニックの発揮等々は、本当に面白い。脚本・演出ともに最高の充実度を見せていて、こういう "男の友情" 映画の中でラブロマンスの見本のような展開が出てくるのは嬉しい驚きだ。
そして、こうした脇での充実を経て本題の面白さが跳ね上がるのが、作劇の良さである。
実際、前述の展開の直後に、ジェームズとニキの迫真の争いが、二人を愛する女性の反応によって描かれることになるのだが。そのことで、グッと観客に身近なものとなる。だって、何かが起きていることの意味は、それに対する人の反応を通じて描いた方が、説得力を増すものね。
そのことは、クライマックスのジェームズの戦いを、今までの主要人物が見守ることで盛り上がる-という手法につながっていく。映画好きなら嬉しくなる「さあ、ここでみんなが、出そろいました」というパターンだ。
その後の "漁夫の辞" を思わせるラストのジェームズとニキの会話を含め(分からない人は高校漢文を思い出して下さい)、ロン・ハワードは見事に映画的に "正しい" ことばかりを、やってのける。その "正しさ" が優等生的なお行儀の良さを超えて、大胆な主観ショットや接写などで "はっちゃけている" 点も含めて "正しい"。つまり「正しいだけじゃないか」以上のものを見せていることも含めて、見事に "正しい" のだ。
そこにはイーストウッドの不気味さも、スピルバーグの浮遊感も、コッポラの狂人ぶりもないかも知れないが。まともな人間として、映画作りで最も正しくあるための情熱の発揮のしかたが示されている。
そういう意味で、観て、参りました。

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ラッシュ/プライドと友情(字幕版)


ラッシュ/プライドと友情(吹替版)