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大人の娯楽映画『国宝』(2025)

書き下ろしです。

李相日監督作『国宝』(2025)、題材的にも興味があり、周囲の映画好きの話題にもなったので、公開してすぐに観に行ったのだが。まさか二ヶ月半を経ても国内映画ランキングの上位にあるばかりか、興収100億突破がニュースになるとは、予想しなかった。
まさに今年の邦画界の台風の目ともいえる話題作で、遠からず河崎実監督あたりが『重文』を作ってしまいそうな勢いだ。

何と言っても吉沢亮横浜流星の主役ふたりをはじめとする役者陣が、手間ひまかけて全力で歌舞伎の世界を「映画として」成立させてしまっているのがポイントで、大人の鑑賞に耐える贅沢な娯楽映画に仕上がっているのがいい。中高年夫婦がちょっと早めの晩御飯を外食で済ませてから、午後7時半過ぎの回を楽しんで、「良かったね、良い一日だったね」と満足顔で帰路につけるような貴重な映画だ。

役者でいえば先のふたり以外で観たひと全ての印象に残るのは、六代目歌右衛門を思わせる女形の大物を演じた田中泯だろう。現在の邦画界で「怪物」を演じさせれば柄本明かこのひとかと言える貴重な存在だが、ここでは舞台の上から死の近い床まで、全身全霊で「歌舞伎の化身」を演じてみせる。
ハイパーダンスという革新的な芸能に生きてきたひとが映画を通じて伝統芸能に立ち向かうさまに、個人的には-表現の質は違うが-状況劇場唐十郎が『修羅』(71)で南北歌舞伎とみごとに戦ったのを思い出した。田中泯という稀代の怪物役者をして、エポックとなる役柄だったと思う。

他の役者もそれぞれしどころが与えられている上、しっかりと演じて見せてくれる。多くの役者の持ち味・魅力が味わえるという点でも、まさに「歌舞伎的」な映画となっている。
自分の印象で言えば、主役のふたりの子供時代の黒川想矢と越山敬達、ひねくれ者の興行会社社員を演じた三浦貴大が特によく、また、これははっきり言って好みもあるのだが、最近の若い女優の中でも際立った雰囲気を備えている見上愛が重要な役で出ているのも嬉しかった。

ドラマ的には、長い年月を扱いながらも、ほどほどに心得た語り口で分かりよく見せてくれている。その上で一貫して作り手たちの熱意が伝わってくるのが、満足感にもつながっている。
先述の「役者を活かす手腕」といい、プロの仕事だ。

その一方で、個人的には全く引っかかるところがなかったわけではない。
例えば、主人公がヤクザの大親分の遺児という大ネタは、生かしきれていたと言えるだろうか。

確かに主人公のキャラクターの色付けという意味では、単純に「面白い趣向だね」と言うことはできる。モンモンを背負った歌舞伎役者という物珍しさは、ひとを惹きつける要素にはなるだろう。
だがそれだけで終わるには、設定として重すぎる。スキャンダルのネタに扱われるのも、そりゃそうですよね-ぐらいの印象だ。

ドラマとしての造りを考えてみると、この設定で最も大事なのは、父親が雪の中で殺されるのを目撃したことだろう。それがラストの『鷺娘』の舞台の雪とつながってくるというわけだろう。そして言うなれば「死」の無惨が、芸能の世界では美として昇華されるということになるだろう。

だがそれはあくまで(自分の「感覚」で語らせてもらうと)「考えてみると」であって。観ているこちらの「肉体的感覚」に訴えかけるような生々しさで、ふたつの雪が重なることはなかった(と、感じられた)。
『鷺娘』の舞台に舞い散る膨大な紙の雪が、「考えるまでもなく」父親の死の雪と詩的につながっていくことは-少なくとも自分には-無かったのである(※注1)。

それはひょっとしたら自分の感性の貧しさゆえかも知れず、そのつながりに痺れてしまうような(鋭い感性を持った)方もいるのかも知れないけれど。
それでもさらに言えば、その殺される父親がヤクザの武闘派の幹部とかではなく「大親分」である必要はあったのかと思う。大親分というのは言わば王様であり、主人公もまた「血筋の子」なのだ。
となると、一種の貴種流離譚として、何か(『スター・ウォーズ』(77)ならフォース)を受け継いだ(もしくは「受け継げなかった」)意味を、もっと感じさせて欲しかった気がする。

これが例えば、映画内で演じられるのがヤクザっぽい歌舞伎狂言なら分かりやすいかも知れない。
例えば黙阿弥の白浪物とかで、この主人公が弁天小僧を演じたらどうなるのか。周囲はどう反応するのか。それを実際にこの映画でやってしまうとあまりにもストレートすぎて逆によろしくないかも知れないが、想像してみることで、少しは(自分にとっての)物足りなさを補えるような気もする。

でも、黙阿弥だったら江戸歌舞伎の方がふさわしいだろうし、ここで扱われているのは上方歌舞伎だし…と、考えるうちに。また、新たな引っかかりに気づいてしまう。
どうも観ていて、「上方であること」の説得力が薄いのだ。

上方の(出演もしている)中村鴈治郎丈が原作成立から深く関わってるという「事情」は、後からひとに教えてもらった。ひとつの盛り上がりを見せる演目が上方の『曽根崎心中』だという「設定」は、分かる。
しかし、映画を支える「世界」としての上方の匂いとか肌触りのようなものは、自分には感じられなかった。例えば渡辺謙は素晴らしい役者だし演技も圧倒的(※注2)だが、容貌は江戸歌舞伎の荒事こそがふさわしかろう。そういう男前だろう。

これもひょっとしたら、自分が上方だの江戸だの-そもそも歌舞伎を「分かってない」から納得できないのかも-と、不安はあった。
しかし後日、自分よりずっと歌舞伎に詳しいであろう小説家の近藤史恵も「上方歌舞伎の匂いがまったくしない」と X に投稿(※注3)していて、素人の勝手な思い込みでもないのかも-と、少しは安心させられた。

とまあ、引っかかった部分に文字数をずいぶん使ってしまったけれど、基本は最初に書いた通り、見応えのある大人の娯楽映画である。
自分なりに言わせてもらえば、少し前に観た『ミッション:インポッシブル/ファイナル・レコニング』(25)と同じような種類の「映画の楽しさ」があった。トム・クルーズが常人離れしたスタントに挑むのを味わうように、吉沢亮横浜流星が困難な歌舞伎に挑むのを味わった。次々と見せ場をこなしていって長尺になるのも同じだった。トムでお腹いっぱいになるように、亮と流星でお腹いっぱいになった。
役者さんたちの努力と、それを結実させたスタッフに感謝。大ヒットして嬉しい。

注1:最近、シネマヴェーラ渋谷ウィリアム・ワイラー特集で過去の名作を何本か観た。ワイラーと言うとどちらかというと理詰めの監督だと思うのだが、それでも『月光の女』(40)でヒロインが重要な取引の場面でしていたショールがラストに残された刺繍に重なっていくのは、身にしみるような情感をかき立てられたし。『黄昏』(52)でヒロインが全く違う男と電車を共にする2つの場面で運命の一撃のように別の電車がすれ違うのが重なったときは、ドキッとして身体が固くなる思いがした。2つのシーンの言葉を超えた詩的なつながりの例である。

注2:血を吐くところの熱演だけではなく、例えば、主役たちの『二人道成寺』を厳しく見る様子などが良かった。役者の格を感じる。

注3:https://x.com/kondofumie/status/1935181844213023029

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