鑑賞録やその他の記事

はじめてのクッチャー兄弟

書き下ろしです。

国立映画アーカイブの特集「アンソロジー・フィルムアーカイブス――アメリカ実験映画の地平へ」で、クッチャー兄弟作品集を観る。

ジョージ&マイク・クッチャーは、ニューヨークのブロンクス生まれの双生児兄弟で、12歳から8ミリで映画作りを開始。友だちを出演者に撮りたいように撮っていたところ、アヴァンギャルド映画の巨人ジョナス・メカスの人脈に加わるようになる。やがて今回も上映されたジョージ監督作『裸のまま抱きしめて』(1966)などはアンディ・ウォーホールにも評価され、その後もエネルギッシュな創作活動を継続(ジョージ監督作は200本にも及ぶ!)。ジョン・ウォーターズデヴィッド・リンチに影響を与える存在となった。なおマイクは健在だがジョージは2011年に亡くなっている。
自分が観に行こうと思ったのは Facebook での佐々木浩久監督の素晴らしい投稿を読んだからだが、そこでも指摘されている「とことん好きなものだけをどんなにチープでもやり遂げる」精神は、8ミリ自主映画出身の身としては他人事とは思えない。ましてやその「好きなもの」の正体が、自分が信じる「娯楽映画」だとしたら…。
会場に駆けつけて上映前に、同じ8ミリ・サークル(早稲田大学シネマ研究会)の後輩、七里圭監督に会ってしまった。「君もクッチャー兄弟って初めてなの?」と問うと、「ええ、面白いらしいですね、最初にダグラス・サークを『面白い』と言ったのは、このひとたちらしいんですよ」と答えて、各々の席にわかれた。

そしてまず始まった一本目の『裸のまま抱きしめて』は15分の短篇。いわゆる「映画制作モノ」だが、主役の監督をも演じるジョージが美人女優の裸を撮りたくて撮っているのが丸わかりで、それがゆえに女優に拒否され、何となく居直る。このあからさまなみっともなさの中に、ダメな自分の告白と、そして(そのことを作者自身は意識してなかったであろうことが素晴らしいのだが)優れた映画作家的資質がドバドバと「ダダ漏れ」してるのが、強烈な魅力になっている。
通常の商業映画の尺度からすれば、全く完成されてないのだ。というか、低予算やプロのスタッフの不在が「完成されること」の足を引っ張っているのだ。しかしそれゆえに、(時に物語の脈絡は後回しにしても)イメージに引っ張られる撮り方、手探りのフィルムつなぎなどに、作家が「映画を生きている」のが生々しく溢れ出る「ダダ漏れ」感に打たれてしまう。
この感じ、日本で言えば、藤原章監督の『ダンプねえちゃんとホルモン大王』(2009)などにもあった。映画史には-筆者の思いつきだが-「ダダ漏れ映画」としか言えないものが存在するのだ。しかも本作の場合は女の裸が、型板ガラスに隔てられたり、濡れた布を通して描かれることで、作者のあがきとエロチシズムの合体した表現になっている。「ダダ漏れ」なれど露骨というわけではないのだ。

二本目の『フレッシュアポイドの罪』(1965・45分)は、マイク・クッチャー監督作品。遥か未来の核戦争後の世界、労働はフレッシュアポイドなるアンドロイドに任せ、人類は快楽を貪るだけの存在となっていた。だがやがて、フレッシュアポイドにも意思が目覚め…という、SFものである。
話だけなら-そして作者の頭の中のイメージも-壮大なのだが、観客が目撃してしまうのは、どこかの風俗店の密室ででも撮ったような狭っ苦しい、安っぽいロケセット撮影である。そのギャップが、作り手の「映画に向かわんとする気分」を、生々しく表出する。展開されているのは精々、おとなの学芸会だが、大真面目なのだ。
そしてここでもまた、商業映画の規範にはまらぬ「思い込みで作られた映画」にしかない強さが、胸を打つ。映画を生きること、型破りな作家の資質が、「ダダ漏れ」してくるのだ。主人公の男フレッシュアポイドの顔と肉体と奮闘ぶり、女フレッシュアポイドとの交情は、強烈な映画の記憶として筆者の脳に刻まれてしまった。また、人間界の「王子」の死に様も低予算なりに涙ぐましく盛り上げられ、小野峻志監督『野球どアホウ未亡人』(2023)のヴィラン重野進の死も、このようであったら…という思いを抱いた。

最後の『私、女優』(1977・10分)は、ジョージ・クッチャーがサンフランシスコ美術学院の講師時代に制作した一篇で、女優志望の学生バーバラのスクリーン・テストを撮ったものだが、これがたいへんにおかしい。
椅子に座った人形(というほどのものではなく、棒を立てかけてカツラを乗せただけかも知れない)を男に見立てて、あらん限りの怒りをセリフに込めてまくしたてるシーンを演らせてみせるのだが。途中から画面に入って演技指導し始めるジョージの漫画的ともいえるオーバーアクトの指導と、我を忘れた熱の入れように、吹き出さざるを得なくなるのだ。実際、バーバラも言われた通りにしつつも、何度も笑ってしまっている。先の2本を観て「これは絶対おかしなひとたちが作っている」と確信していたのが、まざまざと証明されるのだ。
やがてジョージは、セリフを言いながら駄々っ子のように仰向けに寝転ぶことを要求し、その体制で男の顔を蹴飛ばせと言う。しかしそれは、体勢的に不可能なのだ。バーバラも無理だと言う。そして、座り込んでハイヒールで男の顔を殴るのではダメかという、極めて真っ当な提案をする。これはまあ、普通の監督なら「じゃあそれでやってみようか」と言うところである(それ以前に、そもそもそんな要求はしないだろうが)。しかしジョージはあきらめない。自分で寝転んで、「こうだ!」と無理なアクションをやってみせる。見ていて不自然だし、ジョージほど背丈がない(つまり、足の長さもない)バーバラにはできないのだが。
ここにこそ、クッチャー兄弟の映画の魅力の秘密があると思えた。
あれやこれや言って作り込んでいくうちに、イメージが暴走する。「女は仰向けに寝転んで、ついにはそのまま、男の顔を蹴り上げる!」という現実離れした観念のようなものに取り憑かれ、何としてでも実行させ、カメラに収めようとする。
ここには、映画作りの重要な秘密が潜んでいるのではないか。映画が不可能を可能にするとは、派手なスタントやSFXに限らずとも、こういうことではないか。クッチャー兄弟の場合は、不器用にチャレンジして「ダダ漏れ」を見せてくれるのだが、それをみごとにやり遂げる「プロの」監督もいるのではないか。その名は、例えば…

ダグラス・サーク
あのメロドラマの巨匠が、大げさな物語から導き出されたイメージを、役者たちにみごとにやらせて撮ってしまうのは、映画の魔法以外の何物でもない。逆に、サークの映画で起きる事件…例えば『天はすべて許し給う』(1955)でロック・ハドソンが転落するようなのをジョージ・クッチャーが撮れば、どんなになってしまうだろう!
上映が終わって、七里を捕まえて「分かったよ! そりゃあサークが好きだろう、彼らは!」と言いたかったのだが。まずは尿意が我慢できず、トイレを済ませてから探したら、もういなくなっていた。

クッチャー兄弟公式サイト

www.kucharbrothers.org