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歌舞伎狂言の向こう側『木挽町のあだ討ち』(2026)

書き下ろしです。

源孝志監督作『木挽町のあだ討ち』(2026)をイオンシネマ板橋で。
少年剣士が大男を討ち取って江戸の話題をさらった仇討ち事件の隠れた真相を探るミステリー時代劇で、世間でも自分の周囲でもえらく評判がいいのだが、なるほど、なかなか面白い。

ふたつポイントを絞ると、まず役者が良い。
主演の柄本佑は素晴らしく、ある種の超越的存在でありながらも輪郭と厚みを備えて、しっかり映画を支えている。今までも優れた成果をあげてきたひとだが、これは代表作になったと言っていいのでは。
渡辺謙も『国宝』(25)以上に良く、沢口靖子との絡みは映画後半の丁度いい場所で「スター同士の芝居を観る醍醐味」を提供してくれる。他の役者も、それぞれに演じ甲斐をもって芝居しているのが強く伝わってきた。

もうひとつは、これは原作(未読)がそうなのかも知れないが、芝居小屋を舞台とした上で、歌舞伎狂言的な設定をうまく消化し、更にその先に行こうとしていること。
武家社会の上層部での事件や謀略があって、優れた配下の者が武士ならではの立場から、自分なり身内なりの命を犠牲にしてしまう悲劇。これは歌舞伎で散々描かれてきた題材で、本作で出てくる「仮名手本忠臣蔵」などにもその要素があるが、首実検のある「菅原伝授手習鑑」の「寺子屋の段」あたりの知識があると、より分かりやすいかと思う。
その上で、そうした「歌舞伎狂言的な武士の悲劇」の「向こう側」を切り拓くトリックを、(町人社会の中でも蔑まれる出自だったり、或いは逆に武家をドロップアウトしたりした)芝居小屋の連中が作り出しているところに痛快さと反逆精神がある。

というわけで充分に楽しめたのだが、全く文句のつけようがない-というわけでもない。個人的にいちばん引っかかるのは、真相が分かってからの段取りが、少々長く感じられてしまったことだ。これは作り手の方々も厄介な問題と自覚されていたと思う。計略が成功するのは、分かってしまっているからね。
「いや、映画ってうまくいくと思っててもハラハラするもんじゃん」と仰る方もいるだろうし、それはよく分かる。でもやっぱり、物語としてハッキリ判明していると、その上で面白く見せるためのハードルは二段も三段も上がってしまうのだ。その味付けがとある重要な「小道具」を巡るウッカリに次ぐウッカリだけじゃ、少々足りない。
例えば「こいつに見つかっちゃいけない」という具体的な相手を、幕府の役人でも、石橋蓮司の手の者でもいいから用意した方が、切羽詰まって良かったんじゃないかなあ…などと思ってしまうが、どうだろうか。まあ、長くも感じないほど登場人物たちに肩入れされた観客の方には、「そっちの方が余計で『長く』なるじゃん!」と、怒られてしまうかも知れないが。
あと、スッキリした幕切れと楽しいカーテンコールの後に流れる自己主張強げな歌は、聴かなかったことにしたい(※注)。

とはいえメイン・タイトル後まもなく柄本が登場し、瀬戸康史と出会って話し込む場面で、江戸っ子たちが何人も何人も何人も目の前を通過するのに、撮影所映画の活気と豊かさが感じられて、嬉しくなってしまった。ここだけですぐに「観てよかった」と思ったものだ。

注:言うまでもなく「自己主張強げ」というのは、歌ってる彼女が自分の芸風に忠実にやってるだけなので、彼女のせいではない。