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『いれずみ半太郎』(1963)の最後の賭

書き下ろしです。

ラピュタ阿佐ヶ谷の脚本家野上龍雄特集で、マキノ雅弘監督作品『いれずみ半太郎』(63)を観る。自分は長谷川伸の原作戯曲『刺青奇偶(いれずみちょうはん)』(※注1)を、まだ勘九郎だった頃の十八代目勘三郎玉三郎の舞台で観ているが、素晴らしいものだった。ただし、映画のストーリーは原作とかなり違う。

主人公の半太郎(大川橋蔵)は博打の借金がかさんで江戸から逃げ出し、三年の旅生活の間にいっぱしの渡世人となった。その間に借金分の十両を貯め、晴れて母の待つ江戸へ帰ろうと決意するのだが。世をはかなんだ女郎、お仲(丘さとみ)の入水自殺を止めたところから話が狂ってくる。
なりゆきでお仲を匿った半太郎は、女衒と土地の親分に咎められて彼女の身請けを賭けて十両を元手に親分と丁半勝負。半に賭けて負け、いったんはお仲を引き渡したものの、彼女は逃げて半太郎にすがってくる。やがて二人は心から愛し合い、夫婦の契りを交わすのだが…。

マキノ演出の情感を濃縮して原液のように酔わせる作品で、特にその指導を受けた丘さとみ渾身の "哀しい女" の芝居は強く印象に残る。
先ごろ亡くなった山根貞男氏は、著書『マキノ雅弘-映画という祭り』(※注2)で、中盤のクライマックスといえる竹藪の道の一連のシークエンスを詳細に綴っていて、もちろんそこでの彼女は絶品なのだが。他にも、半太郎の小田原の仮住まいの戸口で背を向けて泣くところや、街道で半太郎に追いついてほつれた髪が風になびく様子など、「あそこがよかった、ここがよかった」と観たひとどうしで "丘さとみを語る酒席" を楽しめそうな芝居場に満ちている。

ひとつ言わせてもらえば、お仲の癖である親指を咥える仕草が、悔しい思いをし続けてきた人間らしさと同時に子供っぽさを感じさせて印象的なだけじゃなく、主人公の半太郎にとって母親と通じるのに注目したい。
開巻まもない江戸のシーンでヤクザに追われた半太郎が自宅に逃げ込んだとき、繕い物をしていた母が驚いて親指を刺してしまい、口に咥えるのだ。しかもその指を、半太郎も咥えてやる。これがあるからこそ、半太郎がお仲と出会うときに彼女が親指を咥えているのが意味を持つのだ。
こうした "仕草のつながり" は-たとえ観客が気づかなくとも-自然な感情の流れを映画にもたらす。その後もお仲はこの仕草をたびたび見せるのだが、半太郎もやってみせるときがある。そのタイミングに注目されたい。母から、旅先で出会った女郎へ、その女郎が運命の女になったときに半太郎自身へ、"親指を咥える仕草" がつながっていく。マキノ演出は映画のキモとなる部分で、非常に繊細な一貫性を織り込んでみせるのだ。

さて本作は「博打の映画」としては、半太郎の運命の大勝負が二回、描かれる。一度目は先述したお仲の身請けを賭けた土地の親分との勝負、二度目は先行き短い病身のお仲を江戸に連れて行くための賭場の胴元との勝負である。それぞれを少し詳しく見ていきたい。

まず、一度目は正々堂々と勝負して負ける。サイコロが振られた後、半か丁かを勝負相手の親分に言わせ、半太郎はその反対に賭ける(選択肢はふたつしかないから、最初に賭けたほうが実質、互いが賭ける目を決定する)。親分が丁だから半太郎は半に賭けて負ける。半太郎は江戸に帰るための十両を失い、お仲はもとどおり強欲な女衒の手に渡るのだが、運を天に賭けた勝負の結果だから仕方がない。
一方、二度目では、半太郎は異なる段取りを経て、勝利をおさめる。勝負に入る前に-大金を賭けるのだから-仕掛けがないかとサイコロを手にとって確認する。そして振られた直後に先に賭けようとする胴元を制して、自分に決めさせろと丁に賭ける(もともと胴元も丁に賭けようとしたのだから横取りしたのである)。胴元は押し切られて半に賭け、出目は壱のゾロ目の丁で半太郎が勝つ。ついでに半太郎は「記念に」とサイコロを頂く。

なぜこれだけの段取りの違いがあるのかと言えば、二度目は半太郎、イカサマで勝つからである。映画はそのことを明確には示さず、いわば "状況証拠" で観客に知らせる。箇条書すると-

  • もともと半太郎は自分のサイコロ二個一組を持っていて、振ると壱のゾロ目が出る描写が二回ある。どうやらその目が出やすい仕掛けがありそうである。
  • 半太郎が(一度目の大勝負ではやらなかった)サイコロの確認をすることで、仕掛けサイコロとすり替えるチャンスがある。
  • 胴元を制してでも強引に丁に賭け、その結果、案の定、「壱のゾロ目」で勝つ。
  • 勝負後、わざわざ半太郎はサイコロを持ち帰り、更には、家の前の井戸に何かを捨てる描写がある。もちろんサイコロだろう。

これだけあってイカサマでないわけがないし、調べるとずばりイカサマだと粗筋で書いてるサイトもある(※注3)のだが、それでも自分には「イカサマだったのかも」という描写に留まっているように思える。
半太郎のすり替えがハッキリ描かれているか、彼自身が白状するセリフがない限りは、賽の目が偶然だった可能性は最後まで否定しきれないし、井戸に捨てるのも「二度と博打はしない」という意味にもとれる。しかもその場面は夜の引き絵で分かりにくい。
ひょっとしたら、東映が、大スターの大川橋蔵イカサマをしたという印象を薄めたかったのかも知れない。あるいは橋蔵が嫌がって、「ほな、そこはボカそか」とマキノが配慮したのかも知れない。いずれにせよ、こうした重要部分を観客の判断に委ねることが、映画に-言うならば-"大人っぽさ" と余韻を付け加えていることは指摘しておきたい。

何よりもイカサマは、渡世に生きる「男」としちゃ、やっちゃいけないことなのだ。主人公がやるのを、露骨に描くわけにはいかない-という(映画の作り手側の)考えもあったのだろう。逆に言えば半太郎は最後、(渡世人の生き様を描いているという意味での)ヤクザ映画の主人公として、明確に描くのを憚られるようなことをした-と、言うこともできる。
半太郎は一度目の大勝負で負けたときに、お仲に「自分のやれることは全部やった」という意味のことを言う。その「やれること」の中にはイカサマは含まれていない。「男」である半太郎には、やれないからである。それを二度目の大勝負でやったというのは、「男」を捨てているのだ。何のために。お仲を江戸に連れていき、「女房として」母親に会わせるために。

ヤクザ映画の美学としては、主人公がどんな状況でも最後まで捨てないのは「男」としての筋道であり、意地であるべきだろう。本作での一度目の大勝負のように。しかし二度目の-最後の-大勝負では、女と育んだ大切な愛のためにそれらを捨て去って、勝ってしまう。
なぜならばこの映画は、ヤクザ映画である以上に情の作家、マキノ雅弘の映画だからだ。

ついでに言うと、最後のイカサマまでは、半太郎は徹底して「半に賭ける男」として描かれていたことにも注目したい。
ひとつは、半太郎という名前ゆえだ。自分の名に賭けるという単純さは、まっすぐな江戸っ子らしさでもある。もうひとつは、丁半博打は丁の方が出やすいという俗説(※注4)があり、それなのに敢えて半に賭けるというところに「男」らしさ、勝負師らしさがあるのだ。だから最後の大勝負で(胴元の賭け目を横取りしてでも)丁に賭けるのは、それだけでも半太郎らしさを捨てていることになるのだ(※注5)。
「半か丁か」というおなじみの言葉は、本作においては「男を貫くか、女のために捨てるか」を意味している。そして誰にもバレずにうまく捨て去ることができるかが、半太郎の最後の賭だったのだ。

注1:「ちょうはん」とは賭場の丁半勝負、壺の中で振った二個のサイコロの目の合計が「偶数=丁」か「奇数=半」かを当てる賭け事を意味しているのだが。ならば「奇偶」で「ちょうはん」と読むのは順番が逆さまなのだ。これについて村上元三は「長谷川伸先生独特の字をひっくり返すというやりかた」であり、昭和七年(1932)の初演以来ずっとこの読み方だと書いている(歌舞伎座平成三年十二月大歌舞伎パンフレット)。

注2:2008年10月1日新潮社発行(新潮選書)。

注3:MOVIE WALKER東映チャンネルなどの紹介記事。

注4:"丁 出やすい" などのキーワードで検索したら、このような俗説が語られる理由を紹介したサイトがいくつかヒットする。それらではほぼ例外なく、そんな説は間違いだと指摘している。確かに数学的に考えれば丁半の確率は同じだ。しかし、自分が思うに、それはサイコロが正確に6分の1でそれぞれの目を出す場合であり、実際は違うのではないか。単純な話、彫られてる目が少ないほど重くなるわけで、ならば、最も出やすいのは(壱を下にした)六のゾロ目の丁であり、全体的にも丁の出る確率を押し上げるのではないだろうか…。まあ真相はともかく、大事なのは「丁の方が出やすいと言われているのに半にばかり賭ける」という半太郎の心意気である。

注5:ちなみに原作戯曲では、最後にイカサマなしで大勝負をした半太郎は、半に賭けて勝つ。男として勝つわけで、映画ではここを意識的にひっくり返したのだ。

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いれずみ半太郎

www.shochiku.co.jp