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映画する人、奧山順市

書き下ろしです。

奧山順市の『我が映画旋律』(1980)を最初に観た衝撃は忘れられない。

ハイコントラストな白黒の7分間のフィルムで、メインのイメージは、黒地に素早く伸び縮みする白い横縞。伸びて画面端を過ぎるたびに不思議な音を立てる。突如、耳を聾するノイズとともに網目・木目・デコボコ模様などが現れ、そしてまた白い横縞のイメージに戻る。そんな構成の中で、ノイズとともに現れる模様は変化し、音も変化する…。

言葉にしてみればこんな具合だから、うまく伝わるとは思えない。しかし当時、大学に入ったばかりで、実験映画ってナンジャラホイ、今まで知らなかったから好奇心で観てみるかと、その手のフェスティバル的な上映会に行った自分が、案の定「ナンジャラホイ、でもあんま面白くねえなあ」と生意気に思っていたとき。あまりにも唐突に、強烈な豪雨のように降りかかってきた未知の体験だった。
それまで見せられていたのに比べ、圧倒的に「断固たる」映像がそこにはあった。芸術家ぶった「イメージの世界」とか「ポエム」とかではない、フィルムという物質の生のまま姿で可能な表現をギリギリまで絞り込んだものを見せつけられたような衝撃。

後で知ったのだが、本作はX線で撮影され、伸び縮みする横縞は機織りの筬(おさ※注1)だという。そしてさらに重要なのは、印象的な「音」は、撮られた映像がフィルムのサウンドトラック部分にまで焼き付けられて発していたものだという。
一般に光学アナログ方式の映画フィルムの音声は、画面外に焼きつけられた音声波形の模様-レコードで言えば溝みたいなもの-を、映写機が読み取って再生するのだが。ここに映像そのものの端を焼き込んで異常な音にしているのだ。だから例えば筬の横模様ならば、画面端を過ぎてサウンドトラック領域に達するたびに、音が鳴るわけである。伸び縮みせずにフィルム全面を覆う模様ならば、轟音のようなノイズが出てくるわけである。
ただ、そういう「タネ」を知らぬまま観ても、映像自体が音に直結してることは体感できるし。実験室から出てきたばかりの即物的な-その名の通りの-「実験映画」に触れてしまった驚きが身体を貫いた。いや、ある意味、映画=フィルムそのものに触れてしまったと驚き、打ちのめされたというべきかも。もちろん、知って観てても、それはそれで感動したと思うが。

以来、奧山順市の名は意識するようにして、実験映画の上映会には熱心でない自分でも、『Le Cinema』(75)『映画の原点』(78)『E & B』(81 "B" は左右反転で表記)『写真を刻む』(83)『INGA の世界』(96)などの作品を観た。そして観れば必ず、フィルムそのもの、映画の仕組みそのものにこだわった作品づくりに感銘を受け、徹底した表現に触れたとき特有の充実感を得た。
同時に、優れた映画作品にしばしばある「これ絶対、変なひとが作ってるぞ!」という手応えに嬉しくなった。このような「変さ」を、自分は尊敬する。このようなひとを芸術家と呼ぶ必要はないと思う。研究家であり実験者であり探求者であり、そうした生き方が奧山順市の芸であり、映画なのだ。

そんな奧山順市の上映会「映画する人-奧山順市レトロスペクティブ2024」が渋谷のイメージフォーラムの3Fで開催され(実は今までにもこの優れた作家の特集は何度かあったのだが、実験映画情報に疎い自分は逃し続けていたのだ)、4つあるプログラムのうち、A「映画解体計画」・B「映画組成計画」の2つを観てきた。
やはり期待通り、奇妙な映画研究者の実験室に迷い込んだような素晴らしい体験で、その中でフィルムは、一コマずつ手動でシャッターを押した旅の記録を描き出したり(『BANG VOYAGE』(1967))、ちぎれたり(『切断』(1969))溶けたり(『No Perforations』(1971))焦げたり(『紙映画』(1972))して物質性を生々しく曝け出し、作り方としては、同じ1秒分の24コマのフィルムを再構成し続けたり(『Le Cinema』)コマどうしの変わり目ではないところで繋いだり(『MOVIE WATCHING』(82))裏返してつなぐことで動きを生み出したり(『写真を刻む』)縦に切断されたのを縫いつけたり(『映画する人』(86~87))して、原初的な映画の仕組みへの-容赦ないとも言いたくなる-こだわりを見せつけてくる(※注2)。

もちろんこれらは多数の観客に向けた娯楽映画とは対極のもので、観るひとによってはどう味わっていいのか全くわからぬ、意味不明で退屈なだけのものになるのだろうし。そういうひとがダメだというわけでは、決して無い(その中には、別種のキレイな映像詩然とした「実験映画」を気に入るひともいるかも知れない)。
しかしこれらの-とても舌触りがいいとはいえない-映画の原液を飲み干す魅力を「たまたま」知ってしまった場合には、他では得難い貴重な体験となる。そして、かつて黒澤明が長尺映画『白痴』(51)のカットを要求されて「これ以上、切るならフィルムを縦に切れ」と怒鳴ったとき、「いいんでしょうか?」とハサミを手に現れる奧山順市の姿を想像したりして、愉しくなってしまうのだ(もちろん実際は監督の意思を尊重されるだろうから、あまり真面目に受け取らないでね)。

各プログラムには奧山順市氏本人が同席されて、最後には質疑応答の時間が設けられた。
そのとき自分は、「初期のフィルムは繰り返しの上映の中でゴミや傷が加わっていきますが、これらの無かった出来たばかりの上映時のものを見せたいとお思いですか?」と問うてみたのだが。奥山氏は映画作家によってさまざまな考えがあるでしょうが-という前置きをされてから、自分としては、作家も年を取るように映画も年を取って変わっていっていいのではないかと考えているという旨のお答えをされた。
それでこそ映画する人、奧山順市だと思う。逆にいえば、年を取ってしまってボロボロの傷とホコリだらけになったフィルムでも、前とは決して同じ形ではない最新版なのだ。
フィルムは上映されたとき、その場限りの新作の姿をあらわす。そんなことを強く感じさせてくれる映画作家の作品群を目にすることができたのは、とても幸せだった。

注1:以下、日本竹筬技術保存研究会のサイトにある筬(おさ)の説明を引用する。
> 筬(おさ・オサ)とはハタオリを行う際に、経糸に通された緯糸の目を詰める作業に使用する櫛状の道具のことです。
> 筬には、経糸が絡まないようにすること、経糸の間に杼によって通された緯糸を強く織り込むこと、また櫛の歯にあたる筬羽の間に経糸を通すことで織幅を一定に保つこと、といった役割があります。

注2:この上映会では『我が映画旋律』もかけられた。もちろん素晴らしい作品ではあったが、上映されたのは16ミリ版だった。最初に観たのは35ミリ版で、作品の作り方からして出てくる音が異なってしまうのだ。そして記憶では35ミリの方がより音が刺激的で、白黒のコントラストも強烈だった。また35ミリ版が観られる機会があれば、ぜひとも駆けつけたい。

奧山順市公式サイト https://www.ne.jp/asahi/okuyama/junichi/