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『すべて、至るところにある』(2023)、或いは、「ない」?

書き下ろしです。

マレーシア出身で大阪を拠点に活動するリム・カーワイ監督の最新作『すべて、至るところにある』を、渋谷のイメージフォーラムで観た。

バルカン半島で出会った女性エヴァ(アデラ・ソー)と男性映画監督ジェイ(尚玄)。ふたりは意気投合し、ジェイはエヴァをヒロインに映画を撮影する。やがてジェイは姿を消し、エヴァは完成した映画も観ないまま、彼の行方を追ってバルカン半島の国々を巡る…。

物語には大きく3つの流れがある。1、エヴァとジェイの出会いと映画作り。2、エヴァと別れたジェイの旅。3、エヴァのジェイを探す旅。
-これらがときには前後し、ときには並行して描かれる中、別の要素もある。随所でバルカン半島で取材した人々のナマのインタビュー(というより、カメラの前での語り)が挿入されるのだ。戦争の体験を語る彼らはドキュメンタリーの取材対象でありながら、エヴァとジェイの物語の登場人物にもなる。
フィクションとドキュメンタリーを独自の手つきでミックスした作りだ。

エヴァとジェイの最初の出会いに注目したい。
ジェイは-橋の上だったか-高い、かなり離れた場所からエヴァの小さな姿を見下ろす。それからすぐ、エヴァがジェイに-目と鼻の先にいたが如く-近よるカットになる。実際は時間をかけてやってくるのが省略されてるわけで、そのこと自体は映画として珍しくはない。むしろそういうのがない映画は、かなり「たるい」。
にもかかわらずここで印象に残るのは、作り手の距離に対する鋭い感覚もあるだろうし。前もって-このシーンから時系列的には後になる-離れてしまったエヴァとジェイを見ているからかも知れない。

そのように本作では登場人物間の空間的(または時間的な)距離が描かれ、同時にそれが「映画である」ことで消えさる予感をも漂わせ続ける。
それは例えばこういうことだ。別々になったエヴァとジェイだが、映画の作り方として、片方が見つめるカットの次にもうひとりをつなげれば、一気に近くの相手を見ていることになる。ふたりが再会しないのは、たまたまそのようにカットがつながってないからではないのか-という気にさせられる。

あるいは逆に、ある場所をジェイが訪れ、しばらくしてから同じ場所をエヴァが訪れるとき、結局ここで感じられる時間的な(または空間的な)距離は映画が捏造したものではないか-という気にもなる。
ふたりは同じ場所にいたのに、映画の作り方として、別のシーンにしたから距離が生まれたのではないか。カメラが回ってないとき、エヴァとジェイ-というより-アデラ・ソーと尚玄は、一緒にその場にいたのではないか。だとしたら、役になることが距離を引き寄せたのか?

こうして観客の俺は、距離があること、無くなることを、「それが映画だから」として捉え、しかも実在する距離に縛られたドキュメンタリーと共存してることに、心地よい混乱を覚える。

その混乱を通じて共有できる「映画の旅」の不定形の魅力が頂点に達するのは、エヴァとジェイの再会と言えるかも知れないシーンだ。
美しく捉えられた川にいるエヴァ(と、もうひとりの女性)を橋の上から見下ろすジェイ。
それはエヴァの感じた幻かも知れないし、実はジェイは生きていて見ていたのかも知れないし。さらにいえば、時制的には過去にそこにいたジェイの見ている姿といまのエヴァが、映画として、たまたま「つながってしまった」のかも知れない。

そのどこにも結論づけられないまま、その後の映画が上映されるシーンでエヴァが「ジェイは私たちを見ている」というようなことを-不気味にではなく-あっさりと語ってしまうのを見ると、「映画」における距離の捏造も無効化も、人間の「心」とつながってくるような気がして、「すべて、至るところにある」と呟きたくなってしまうのだが。
いや、逆に「ない」からこそ、ひとは映画を、映画はひとを、追いかけたくなるんじゃないか。そういうことに気づかせてくれる映画なんじゃないか…とも、つけ足したくなってしまう。

SF的なモニュメントが散在する風景を取り込みつつ、自らのリズムで消化していく監督の語り口は、人間臭い息遣いを感じさせて魅力的だし。まずはそこに「在ろう」とする役者たちもよき共犯者となっている。
あと一歩、例えば、歌か、歌に匹敵する美しいモノローグがあればもっと凄かった-と思うのは、俺の趣味なのかな。もちろん今のままでも充分に刺激的で、世界を見る目が少しだけ変わるような得難い体験をした。