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人工の情感『アステロイド・シティ』(2023)

書き下ろしです。

ウェス・アンダーソン監督『アステロイド・シティ』(23)を観る。

50年代のアメリカ南西部の荒野の町の数日間を描いたものだが、全体が一本の戯曲ということになっていて、さらにその-劇作家の執筆に始まる-成り立ちを伝えるテレビのドキュメンタリー番組から映画は始まる。
こうした二重三重の構造があること自体は、ふつうのSFアクションでも-マルチバースとかで-ややこしくなりがちな現代映画の世界では、驚くようなことではない。アンダーソン監督もそれが「ウリ」になると思ってるほどピュアなわけがなく、「狙いすぎ」と思われる危険性があるのもじゅうぶん承知のはずだ。
それでもこのような入り組んだ構造にするのは、手つきを見せながら箱庭を組み立てるようなことが、アンダーソンが「必要」とした語り口だから-というしかない。

それが本当に身に染みついた作家性だと分かるのは、例えば少年少女の珍奇なカタログめいた研究発表会でもあるし、本作の-分かりやすい意味での-見せ場といえる宇宙人の登場だったりもする。特に後者については、「こういう『東スポ』的なのをヌケヌケと見せてくれるのがアンダーソンなんだよ」と、嬉しそうに言ってみるのも悪くはない。
だが自分としては、カメラマンの男と町の有名人たる女優が、向かい合った窓を通じて語り合うシーンに漂う情感に、「ウェス・アンダーソン、こういう人工世界でこそ気の入った演出ができる体質の『映画監督』なんだな…」と、感じ入ってしまった。
そこでの「相対する建物の距離を保ちつつ語り合う男女」という設定が、後半、(戯曲の)舞台裏での男優とその妻を演じるはずだった女優という形で変奏されるとき、「ああ、確かにこういう構造でしか生み出せない感動もあるのだな」と、深く納得してしまう。架空の戯曲に対する現実の女優という存在が、戯曲の世界側から見ると死んだ(ということになっている)妻であるため、あの世の幻のように感じられてしまうのが、実に切ない。

ところでアステロイド・シティという町のウリは、古代に隕石が落ちた跡の巨大なクレーターで、宇宙人も残された隕石のカケラを「借り」にやってくるのだが。モデルは言うまでもなく、アリゾナに実在する "メテオ・クレーター" だろう。この場所と宇宙人というと、ジョン・カーペンター監督の『スターマン / 愛・宇宙はるかに』(1984)のラスト・シーンを思い出す映画好きも多いと思う。
俺は実はそのことを知らずにツアーで訪れて、見たとたん驚いて(公園の)受付の女性に「ここ、『スターマン』の…」と言ったら、彼女は顔を輝かせて「そうよ! ジェフ・ブリッジスがそこの入口を通って行ったのよ!」と答えたのだった。してみると、俺もアステロイド・シティの住人と話したことがあるのではないか。戯曲の中ではなかったけれども。