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分裂した彼-『白鍵と黒鍵の間に』(2023)

書き下ろしです。

冨永昌敬監督作『白鍵と黒鍵の間に』(23)をイオンシネマ板橋で。

舞台は80年代の銀座。ある一夜に、夢抱える若きジャズ・ピアニストと、その3年後の姿が、すぐ近くの別の場所に同時に存在するような、不思議にねじれた物語。
池松壮亮が演じる分裂した「彼」を取り巻く人物たちは、各々の生々しさをもって「街」を構成し、映画全体が生き物のように呼吸するのに寄与する。中でも仲里依紗は、姉貴的役を気持ち良さげに、しなやかに演じつつ、鼻につくようなところがない。これはすごいなあ。

「若きピアニスト」が、キャバレーのバンドを辞める決意をサックス奏者の松丸契に語るシーン、狂気のヤクザの森田剛と二人三脚をさせられるシーンなど、舞台が路地裏/裏通りになると何とも言えぬ匂いが漂うのは、監督の特質がにじむところ。こういうのを持ってる作家は強い。

「3年後のピアニスト」が、クラブの「花瓶」的な飾りとして弾き続けるのを拒絶し、本当にやりたいジャズのセッションをする場面は、本作の音楽的なクライマックスだ。池松の弾きっぷりもさることながら、クラブの姉ちゃんたちのふんわりとした踊りや、吹き抜けの上階からのサックス奏者の参加など、演出的にやれることを全部やる勢いなのがいい。
見逃してはならないのが、その前哨戦として、路地裏のゴミ捨て場で、ボロいピアノとサックスのフリーなセッションがあったことだ。つまりクラブでのセッションは、路地裏の音楽としてのジャズを持ち込んだものともいえる。ならば路地裏のブギウギ・ピアニスト(だったであろう)ジミー・ヤンシーの名が出されるのにも納得する。

セッションは大いに盛り上がり、「3年後のピアニスト」の音楽学校留学用のデモテープとして無事録音されるかというと「そうはうまくいかない」のは、多くのひとが予想するところだろう。いかにも簡単にハッピーエンドにはならなさそうな、皮肉でオフビートな映画だからだ。
となると「うまくいかない」こと自体、ある種の予定調和になりかねない危険もある。それを打破するのが、洞口依子演じる母親と、もうひとりの(「3年後の彼」からさらに数年後?の)「彼」の登場だ。自分はここに、作り手の監督の-男としての-正直な心情を見るような気がした。主人公のダメさ(あるいは「ダメになってしまう」不安)を、心を込めて受入れてる気がしたのだ。

やがて映画は朝を迎え、ねじれた構造を完結させるエンディングに向かうのだが。ここで自分は「こうあればいい」というラストを期待しちゃっていたことを告白しよう。朝のひとけの無い銀座を、暴走族がクラクションで(本作での重要曲である)『ゴッドファーザー 愛のテーマ』を鳴らしながら疾走する-というのを、望んでしまったのだ(※注)。それはたぶん、同じように「街」をテーマとした『フェリーニのローマ』(72)が頭をよぎったからだろう。
この映画はそうはならないし、ならなくて構わないのだし、自分の予想にとりつかれちゃった俺は観客としてあまりよろしくなかったなあ…と反省もするのだが。『フェリーニのローマ』を思わせたこと自体、凄いことだと思う。実際はきちんと終わっているし、これだけねじれていても、観たあとの気分は清々しい。

そして今も不思議と印象に残るのは、ちょっとジンジャー・ルートを思わせるサックス奏者の姿なのだ。彼は上階ではなく、宙に浮いて吹いてたのではないか。背に羽根を生やして。

注:若いひとは御存知ないかも知れないが、この時代の暴走族のクラクションといえば、『ゴッドファーザー 愛のテーマ』だった。