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生きる場を繋ぐ『夜明けのすべて』(2024)

書き下ろしです。

三宅唱監督の新作『夜明けのすべて』(2024)を観る。

PMS(月経前症候群)を患い、月に一度自分がコントロールできなくなってしまう藤沢美紗(上白石萌音)は、仕事に大失敗して失職。病気に理解ある新たな就職先で、パニック障害を抱えた青年、山添孝俊(松村北斗)に出会う。当初は美紗が病気ゆえの癇癪をぶつけてしまったこともあってギクシャクするふたりだったが、やがて性別の垣根をこえた同志のような関係を築くに至る…。

職場で発症して壊れてしまった美紗がベンチで大雨に打たれている冒頭から、病ゆえの生きづらさが説得力をもって描かれ、母親とともにコートを雨よけにして警察署から出てくるみごとなフルショットに心震える頃には、早くも乗せられてしまっている。
以降、カットごとに的確に捉えられた場所の雰囲気の中、登場人物の言葉にし難い心の動きが声高にならずにじみ出してくる感じで、しっかり見せていく。うまくて、品位がある。

上白石は三宅監督の前作『ケイコ目を澄ませて』(22)の岸井ゆきのにも通じる「質量ある小動物的存在感」を漂わせつつ、病気の厄介さとそれゆえの悩み深さをしっかりした輪郭で演じている。
その上で、ちょっとズレた人柄がユーモラスに表出しているのが、非常にいい。甘くないお菓子としてしば漬け(だったっけ?)を差し出したり、素人床屋として一発目のハサミで大胆に切っちゃうところなど、声を出して笑ってしまった。
その関係性の中ではどちらかというと受けにまわる松村のちょうどいい抑制も気持ち良くて、孝俊が癇癪を起こしそうな美紗に車を洗わせるところなど、芝居で見せる映画の楽しさを堪能した。

タイトルにある「夜明け」は、単純に「新たなる希望」なだけではなく、人間が生きる「時」のシークエンスをつなぐ曖昧な(オーバーラップ的な)区切りとして、意識させられる。それは「夜」という豊かな時との別れでもあり、また新たに時間をつないでいくことで、ひとは生きることを充実させたり苦しんだりする。
そんな「夜明け」を語る言葉が、映画の中ではすでに生きてないひとから生きる美紗に繋がれるのが味わい深い。

死者をも宇宙をも-決して断ち切った関係にはない-外部に置いたところで、うつろいゆく場から場へ生きる登場人物たちを見て、無意識下にでも、何らかの「発見」があったのかも知れないと感じる。そんな充実が得られるから、この映画を観たことも、我らの貴重な人生体験になるだろう。
本作はシーンごとに(他の映画に比べて)、人物どうしが「それじゃまたね」と言い合うまでを描き切る。物語を調子良く進めるため、末尾を省略するようなことが比較的少なめだ。それゆえ、人間が生活の中で、ひとつの「場」をやり終えて次の「場」に移っていく-いわば-「生き続けること」の実感が出てくる。こういう作り方もいいじゃないか。

あとは余談。作中で美紗が、「宇宙ネタ映画」として挙げる選択が面白い。
もしリアルで「映画に限らずそれなりに知識のある大人」なら、まず「『2001年』は観た?」になるよね? それは避けて、「この人物が『映画ファン』になっちゃってもいいからあの2本にしよう」という作り手の意思を感じる。
それらをタイトルを直接言わせずにボカすあたりが、「ちょうどいい感じの通俗」なのかな? 村上春樹の小説で『ザ・ミュージング・オブ・マイルス』ってアルバムを、「『ギャル・イン・キャリコ』の入ったマイルス・デイビス」と書くみたいな…ね。

追記:職場の時間経過を固定カメラでオーバーラップで重ねていくところは、もしもそこだけ独立した作品であっても感動するぐらい、とても美しかった。もちろん、この映画の中でこその深い意義があるわけだが。