鑑賞録やその他の記事

エルンスト・ルビッチ✕ジェニファー・ジョーンズ『小間使』(1946)

書き下ろしです。

シネマヴェーラ渋谷エルンスト・ルビッチ監督特集で、単独監督としては最後の作となる『小間使』(1946)を観る。
1938年のイギリスを舞台に、貧しい娘が小間使として雇われた上流階級の家で常識外れの行動で疎まれながらも、幸せを掴んでいく話。階級社会への風刺の効いたコメディで、ヒロインの得意技が配管修理というのが趣向になっている。

注目はルビッチと主役ジェニファー・ジョーンズの組合せ。
個性的な美人さんだがシリアス系の役柄が多く、ルビッチ的コメディエンヌにしてはしっとり系過ぎるかな…とも思っていたが。基本、巧いひとだけあって、世間知らずで天真爛漫な少女の魅力を存分にみせる。何かにつけワクワクしてるように見えるのだが、やり過ぎギリギリのところで空回りさせず映画全体の面白さに昇華していく演出はやはり超絶。
役者を扱うさじ加減が魔法のようだ。

男主人公の方のシャルル・ボワイエも素晴らしいのだが、ふたりが出会う冒頭の手応え十分のコメディ・シーン、ここではもうひとりの主人公に思えるエイムズ氏(レジナルド・ガーディナー)がその後は全く出てこなくなる潔さ、贅沢さ。これはヒロインが汽車で出会うおじいちゃん大佐(チャールズ・オーブリー・スミス)の使い方にも共通。
ことさら絢爛豪華を装わなくても、作っている気持ちが贅沢なのだ

ジェニファー以外のサブ・ヒロインとしては、モテモテの金持ちのお嬢さんが登場。知的で世慣れた感じは、『生きるべきか死ぬべきか』(42)『生活の設計』(33)等のヒロインの雰囲気に通じて、ジェニファーとは好対照。
んで、このヘレン・ウォーカーが凄く良いのだ。
部屋に入ってきたボワイエを追い出すために、ベッドで本を手にしたまま無表情で叫び声をあげてみせるところなど、最高。このひと、ジョセフ・H・ルイス監督の『暴力団(ビッグ・コンボ)』(55)ぐらいしか観てないけど(しかもメインのヒロインじゃなかったので覚えてないんだけど)、こんなに良かったんだ。精神分析医が当たり役という『悪魔の往く町』(47)や我が贔屓エラ・レインズと共演した『狂った殺人計画』(49)も観なくては。
んで、しばらくウォーカーのエピソードで引っ張って、ジェニファーの影が薄くなりそうなところから一気に巻き返す呼吸が、また心憎いのよ。

ラストは『昼下りの情事』(57)みたいになるのかな、と思ったけど、よりさりげなく展開しつつ、おとぎ話みたいに終わって幸せな気分。
そこに至るまで、各シーンにサスペンスが効いてるのは、流石と唸るコメディ作りのみごとな手本。ボワイエの(今で言うところの)ピンポン・ダッシュみたいな小ネタも、楽しい味付けだ。

現代の戦争映画『ランド・オブ・バッド』(2024)

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ウィリアム・ユーバンク監督作『ランド・オブ・バッド』(2024)を観る。久々にハードなアメリカ製戦争映画で、手応え充分だ。

テーマはアメリカ軍特殊部隊デルタフォースの4人組による、南アジアの過激派ゲリラの巣食う島に捕らえられた諜報員の侵入救出作戦。これが思わぬ展開から、4人組の中の最も若い新米兵キニー(リアム・ヘムズワース)の救出劇に転じる。
そこで活躍するのが、アメリカ本土の空軍基地からの通称 "リーパー" 大尉(ラッセル・クロウ)による通信システムを駆使した情報交換と無人爆撃機の遠隔操作だ。ここに現代の戦争映画ならではの妙味がある。

始まってすぐの4人で飛行機で島に向かうところからキニーの緊張が的確に伝わり、島にパラシュート降下する頃には観ているこちらも「いよいよだな!」と思ってしまう(ちなみに機内で今どき珍しいベタな死亡フラグがあり、「これは大変なことになるぞ」という予感はさせられる)。
そして降り立った海の夜明け前ギリギリのシルエット撮影の美しさ、密林をカメラが上からパンダウンすると4人が行軍する後ろ姿になる戦争映画らしいショットに、まんまと乗せられてしまうのだ。

それからの展開は常に距離によるサスペンスがキープされ続ける。その徹底ぶりがいい。
空軍基地と島との距離、4人が敵アジト近くに到着してからの(双眼鏡で覗く)アジトまでの距離、無人爆撃機と4人の距離…特に最後のでは、4人が敵交戦中に爆撃を要請しても撃ったミサイルが届くまで20秒なり30秒なりがかかる。そのわずかな時間が長く感じるのが、迫真さを生む。距離から時間のサスペンスになるのがみごとなのだ。
そうかと思えば孤立無援になったキニーが水場のくぼみに身を隠し、ゲリラの連れてきた犬が迫る場面などの昔ながらの「眼の前の敵との距離」のドキドキ感もいい。川の滝坪に飛び降りて見上げれば水しぶき越しにゲリラがいるショットの鮮やかさ!

当然ながらこうしたサスペンス演出と迫力たっぷりの戦闘アクションがダイナミックに両立していているところに、戦争映画ならではの興奮がある。銃声や爆音のリアルさは、なかなか凄い。ゲリラたちが発射するRPG(ロケットランチャー)の恐ろしさ!

後半は-ネタバレにならないようボカして書くが-キニーは「もうこれ助からんのでは?」という大ピンチに陥り、リーパーは兵隊の労働規約(?)の関係だかで通信/爆撃機操作係を離れてしまう。キニーはどうなるか? リーパーはいかにして戻るか?
ここで、絶体絶命のキニーとお買い物中のリーパーを長々とカットバックするのは、実はちょっと引っ張り過ぎの感じがしないでもない。
しかし、キニーの危機脱出の(脚本上の)アイデアはなかなか面白いし、リーパーも実にギリギリの一点突破で活躍を見せる。そのあたりの結末に向かってまとまっていくところは、よくできたプロのアメリカ映画の妙味だ。

それにしても、現代の戦争はテクノロジーを駆使するから現場の人的消耗や肉体的苦難は減るなんていう言い草がたまにあるけど、大嘘だと思う。いや、もう、大変ですよ。

オリヴィア・デ・ハヴィランドの凄み

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オリヴィア・デ・ハヴィランドといえば、最初の印象は、自分も多くのひと同様『風と共に去りぬ』(1939)のメラニーだった。
主人公スカーレットの義理の姉で、献身的・良心的でありながらも自分を持った女性をみごとに演じきり、ハティ・マクダニエルと共にアカデミー助演女優賞候補になった(※注1)。観たひとのほとんどが-たとえスカーレットに共感できなくても-このひとのメラニーには好感を持ったのではないだろうか。

それだけに、その後で『ふるえて眠れ』(64)を観たときは衝撃だった。ロバート・アルドリッチ監督が62年の『何がジェーンに起ったか?』に続いて、往年の美人女優ベティ・デイヴィスに老いを強調するグロテスクなメイクを施して作り上げた恐怖サスペンスだ。
ここでのハヴィランドは後半で恐ろしい本性を露わにして、デイヴィスを暴力的に脅しつける。そのさまはほとんど男のギャングのようにも思え、メラニーとのあまりの違いに驚くとともに、一気にハヴィランドへの興味が高まった。

それで調べてみると、『レベッカ』(40)『断崖』(41)のジョーン・フォンテインの姉だとか(※注2)、姉妹ともに日本で生まれたとか、兄弟姉妹がそれぞれアカデミー主演女優賞を受賞した唯一の例だとか、それでいてめちゃくちゃ仲が悪かったとか、ベティ・デイヴィスとは私生活で親友だったとか、映画会社が俳優を縛る不当な契約について提訴して勝ち取った判例は「デ・ハヴィランド法」と呼ばれているとか、それは俳優だけでなくミュージシャンにまで恩恵をもたらしているとか、当時は約100歳で存命だったとか(2020年に104歳で死去)興味深い事実が次々と分かったのだった。
その多くは日本版 Wikipedia にも出典を明記して書かれているので、御一読をお勧めする。

こうしてオリヴィア・デ・ハヴィランドは、自分が古い映画を観るときに注目する名前のひとつになった。
デビュー作の『真夏の夜の夢』(35)は、同名のシェークスピア戯曲のマックス・ラインハルトとウィリアム・ディターレの共同監督による映画化作品だが、ここでのハヴィランドは出演時18歳。はつらつとした美少女だがどこか怒ると怖そうな感じもあり、ただのお嬢さんではない可能性を感じさせる。

その後、エロール・フリンとのいくつかのコンビ作などを経て、『風と共に去りぬ』で高評価を得てからは、意欲的に多様な役柄に挑戦するようになっていったようだ。
そのうちメラニー女優として違和感のない愛すべきヒロインを演じて忘れがたいのは、何と言ってもラオール・ウォルシュいちごブロンド』(41)だろう(※注3)。主人公ジェームズ・キャグニーに「つき合おう」と言われたときの表情の素晴らしいこと!

さて『風と共に去りぬ』『いちごブロンド』に加え、まだ美人女優だった頃のベティ・デイヴィスと共演した『追憶の女』(42)などにも見られるように、ハヴィランドのひとつの特徴に、もうひとりのヒロインとは対照的なタイプとして映画に深みをもたらす-というのがある。
その点で物凄いのが『暗い鏡』(46)で、二種類のヒロインを-双子という設定で-一人二役で演じてしまっているのだ。しかも、たまに特撮で二人に見せるとかじゃなく、ガッツリ絡む。
善意のメラニーも演じれば『ふるえて眠れ』の暴力女も演じる女優ハヴィランドの二面が映画の中で分裂したようで、しかもその境界が観ているうちに実に際どく思えてくる。いまそこにいるのがどちらの女か、設定上は分かっていても曖昧さが心をかき乱す。
綱渡りのように成立するスリル満点のドラマで、凄絶のひと言。ロバート・シオドマク監督のサスペンスとしても『幻の女』(44)『らせん階段』(45)に並ぶ一級品だ。

そして49年にはウィリアム・ワイラーの『女相続人』がある。これこそ今回のブログ記事を書くきっかけになった作品で、今年のシネマヴェーラ渋谷のワイラー特集で、スクリーンで堪能した。
ここでハヴィランドが演じるのは、資産はあるが魅力はない世間知らずのオールド(になりかけの)ミスで、がっちり固めた髪に浅黒いメイクで「冴えない女」になりきってるのが、まず凄い。それでもオリヴィア・デ・ハヴィランドなんだから、ちゃんと映画を支える主役の格を感じさせるのが、さらに凄い。そんな女が二枚目青年モンゴメリー・クリフト口説きを信じてしまったがゆえの「お嬢様残酷物語」なのだが、不器用で引っ込み思案の性格から怒りと恨みの塊に変貌するのが、究極に凄い。

変貌してから「気高く」なってしまう表情演技にも魅せられるが、前半、クリフトのアタックに文字通り及び腰になりながら惹かれていく感じはみごとで、二人の動かし方はワイラーの室内演出の極みだ。
そうかと思えば公園のベンチに座ったまま、危篤の父親に会うことを拒否する場面は、全く動かず、セリフも一言程度なのに、ひしひしと心の暗黒が伝わる。ここで真横からのカメラの方向を変えないワイラー演出の肝の据わり方にも感嘆させられる。

邸宅の階段の使い方の巧みさにも注目しておきたい。映画が始まってすぐ少女のようにときめいて階段を駆け下りる娘は、変貌の末、幽霊屋敷の女主人のような冷厳さでゆっくりと昇っていってしまうのだ。
ざっくり言えば階段を降りて外に出るつもりが昇って戻る女の悲劇であり、またヒッチコックの『サイコ』やキム・ギヨンの『下女』(60)のように「階段が怖い映画」の一本として位置づけることも可能だろう。

父親役のラルフ・リチャードソンも強烈で映画に出てくる最悪の父親ベストテンの上位入賞だし、ミリアム・ホプキンスも信頼の巧さ。
この映画でハヴィランドはアカデミー主演女優賞を獲得したが(※注4)、『暗い鏡』を踏まえ、のちには『ふるえて眠れ』があることを考えれば、もはや怪優と言ってしまっていい怖さを感じる。

実のところ、自分にはハヴィランドの重要作と思えるので未見の作はまだまだ多い。これから更にこのひとを「発見」していくのが、楽しみである。

注1:受賞したのはハティ・マクダニエル

注2:『風と共に去りぬ』の当初の監督だったジョージ・キューカーメラニーに考えていたのは、むしろジョーン・フォンテインだった。キューカーが『風と共に去りぬ』の監督解任直後に撮った『女たち』(39)で脇役ながら突然輝くシーンがあるフォンテインを見ると、それも頷ける。自分も容貌だけならフォインテインの方がメラニー役に向いている気がする。なお、フォンテインはスカーレット役に興味を持っていたため、メラニーは辞退して姉のハヴィランドを推薦したという話もあるようだ。

注3:『いちごブロンド』と同年に、ウォルシュとハヴィランドは傑作『壮烈第七騎兵隊』でも組んでいる。

注4:ハヴィランドにとって二度目の受賞。一度目は、『遥かなる我が子』(46)である。3年後に再度受賞というのはハードルが高いはずで、いかに高評価だったかが分かる。

Amazon Prime で観る


女相続人(字幕版)

大人の娯楽映画『国宝』(2025)

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李相日監督作『国宝』(2025)、題材的にも興味があり、周囲の映画好きの話題にもなったので、公開してすぐに観に行ったのだが。まさか二ヶ月半を経ても国内映画ランキングの上位にあるばかりか、興収100億突破がニュースになるとは、予想しなかった。
まさに今年の邦画界の台風の目ともいえる話題作で、遠からず河崎実監督あたりが『重文』を作ってしまいそうな勢いだ。

何と言っても吉沢亮横浜流星の主役ふたりをはじめとする役者陣が、手間ひまかけて全力で歌舞伎の世界を「映画として」成立させてしまっているのがポイントで、大人の鑑賞に耐える贅沢な娯楽映画に仕上がっているのがいい。中高年夫婦がちょっと早めの晩御飯を外食で済ませてから、午後7時半過ぎの回を楽しんで、「良かったね、良い一日だったね」と満足顔で帰路につけるような貴重な映画だ。

役者でいえば先のふたり以外で観たひと全ての印象に残るのは、六代目歌右衛門を思わせる女形の大物を演じた田中泯だろう。現在の邦画界で「怪物」を演じさせれば柄本明かこのひとかと言える貴重な存在だが、ここでは舞台の上から死の近い床まで、全身全霊で「歌舞伎の化身」を演じてみせる。
ハイパーダンスという革新的な芸能に生きてきたひとが映画を通じて伝統芸能に立ち向かうさまに、個人的には-表現の質は違うが-状況劇場唐十郎が『修羅』(71)で南北歌舞伎とみごとに戦ったのを思い出した。田中泯という稀代の怪物役者をして、エポックとなる役柄だったと思う。

他の役者もそれぞれしどころが与えられている上、しっかりと演じて見せてくれる。多くの役者の持ち味・魅力が味わえるという点でも、まさに「歌舞伎的」な映画となっている。
自分の印象で言えば、主役のふたりの子供時代の黒川想矢と越山敬達、ひねくれ者の興行会社社員を演じた三浦貴大が特によく、また、これははっきり言って好みもあるのだが、最近の若い女優の中でも際立った雰囲気を備えている見上愛が重要な役で出ているのも嬉しかった。

ドラマ的には、長い年月を扱いながらも、ほどほどに心得た語り口で分かりよく見せてくれている。その上で一貫して作り手たちの熱意が伝わってくるのが、満足感にもつながっている。
先述の「役者を活かす手腕」といい、プロの仕事だ。

その一方で、個人的には全く引っかかるところがなかったわけではない。
例えば、主人公がヤクザの大親分の遺児という大ネタは、生かしきれていたと言えるだろうか。

確かに主人公のキャラクターの色付けという意味では、単純に「面白い趣向だね」と言うことはできる。モンモンを背負った歌舞伎役者という物珍しさは、ひとを惹きつける要素にはなるだろう。
だがそれだけで終わるには、設定として重すぎる。スキャンダルのネタに扱われるのも、そりゃそうですよね-ぐらいの印象だ。

ドラマとしての造りを考えてみると、この設定で最も大事なのは、父親が雪の中で殺されるのを目撃したことだろう。それがラストの『鷺娘』の舞台の雪とつながってくるというわけだろう。そして言うなれば「死」の無惨が、芸能の世界では美として昇華されるということになるだろう。

だがそれはあくまで(自分の「感覚」で語らせてもらうと)「考えてみると」であって。観ているこちらの「肉体的感覚」に訴えかけるような生々しさで、ふたつの雪が重なることはなかった(と、感じられた)。
『鷺娘』の舞台に舞い散る膨大な紙の雪が、「考えるまでもなく」父親の死の雪と詩的につながっていくことは-少なくとも自分には-無かったのである(※注1)。

それはひょっとしたら自分の感性の貧しさゆえかも知れず、そのつながりに痺れてしまうような(鋭い感性を持った)方もいるのかも知れないけれど。
それでもさらに言えば、その殺される父親がヤクザの武闘派の幹部とかではなく「大親分」である必要はあったのかと思う。大親分というのは言わば王様であり、主人公もまた「血筋の子」なのだ。
となると、一種の貴種流離譚として、何か(『スター・ウォーズ』(77)ならフォース)を受け継いだ(もしくは「受け継げなかった」)意味を、もっと感じさせて欲しかった気がする。

これが例えば、映画内で演じられるのがヤクザっぽい歌舞伎狂言なら分かりやすいかも知れない。
例えば黙阿弥の白浪物とかで、この主人公が弁天小僧を演じたらどうなるのか。周囲はどう反応するのか。それを実際にこの映画でやってしまうとあまりにもストレートすぎて逆によろしくないかも知れないが、想像してみることで、少しは(自分にとっての)物足りなさを補えるような気もする。

でも、黙阿弥だったら江戸歌舞伎の方がふさわしいだろうし、ここで扱われているのは上方歌舞伎だし…と、考えるうちに。また、新たな引っかかりに気づいてしまう。
どうも観ていて、「上方であること」の説得力が薄いのだ。

上方の(出演もしている)中村鴈治郎丈が原作成立から深く関わってるという「事情」は、後からひとに教えてもらった。ひとつの盛り上がりを見せる演目が上方の『曽根崎心中』だという「設定」は、分かる。
しかし、映画を支える「世界」としての上方の匂いとか肌触りのようなものは、自分には感じられなかった。例えば渡辺謙は素晴らしい役者だし演技も圧倒的(※注2)だが、容貌は江戸歌舞伎の荒事こそがふさわしかろう。そういう男前だろう。

これもひょっとしたら、自分が上方だの江戸だの-そもそも歌舞伎を「分かってない」から納得できないのかも-と、不安はあった。
しかし後日、自分よりずっと歌舞伎に詳しいであろう小説家の近藤史恵も「上方歌舞伎の匂いがまったくしない」と X に投稿(※注3)していて、素人の勝手な思い込みでもないのかも-と、少しは安心させられた。

とまあ、引っかかった部分に文字数をずいぶん使ってしまったけれど、基本は最初に書いた通り、見応えのある大人の娯楽映画である。
自分なりに言わせてもらえば、少し前に観た『ミッション:インポッシブル/ファイナル・レコニング』(25)と同じような種類の「映画の楽しさ」があった。トム・クルーズが常人離れしたスタントに挑むのを味わうように、吉沢亮横浜流星が困難な歌舞伎に挑むのを味わった。次々と見せ場をこなしていって長尺になるのも同じだった。トムでお腹いっぱいになるように、亮と流星でお腹いっぱいになった。
役者さんたちの努力と、それを結実させたスタッフに感謝。大ヒットして嬉しい。

注1:最近、シネマヴェーラ渋谷ウィリアム・ワイラー特集で過去の名作を何本か観た。ワイラーと言うとどちらかというと理詰めの監督だと思うのだが、それでも『月光の女』(40)でヒロインが重要な取引の場面でしていたショールがラストに残された刺繍に重なっていくのは、身にしみるような情感をかき立てられたし。『黄昏』(52)でヒロインが全く違う男と電車を共にする2つの場面で運命の一撃のように別の電車がすれ違うのが重なったときは、ドキッとして身体が固くなる思いがした。2つのシーンの言葉を超えた詩的なつながりの例である。

注2:血を吐くところの熱演だけではなく、例えば、主役たちの『二人道成寺』を厳しく見る様子などが良かった。役者の格を感じる。

注3:https://x.com/kondofumie/status/1935181844213023029

kokuhou-movie.com

53分の傑作『蜘蛛の国の女王』(2023)

書き下ろしです。

菊川の野心的な映画館 Stranger に、常本琢招(たくあき)監督の短編映画特集上映「ツネモト✖️4人のヒロイン」を観に行った。
常本監督および上映作品については、公式サイトを参照して頂ければと思うが。今回は自分が特に心動かされた一本『蜘蛛の国の女王』について、簡単に記したい。2009 年に撮影され、2023 年再編集された 53 分のモノクロ(パートカラー)作品である。

主人公の映子(久遠さやか)は、今でこそ強気で我を通す気鋭の建築家だが、かつてはひどい吃音で消極的で全く目立たぬ末端の存在だった。そんな彼女をいつも助けてくれたのが雇い主の建築家の美子(西山朱子(あかね))なのだが、ある日、仕事上の不正が発覚して、失踪してしまう。その日以来、映子は美子のメガネをかけ、服装も真似て、成り代わる形で出世街道に乗り、事務所を構えて、業界のスターにまでなった。そんなある日、映子は美子と再会。願いを聞き入れて自分の事務所に迎え入れるのだが…。

映子がじわじわと美子に追い詰められていくのがサスペンスたっぷりで、常本監督の丁寧な演出のもと、久遠と西山が素晴らしい。
ことに西山は、(自分はほとんどの映画関係者より以前から彼女を知っている古い知り合いなのだが)驚くほど声に、表情に、持ち味を完全に活かしきった名演と言っていい。役者としての代表作の一本であろう。

こうしたふたりの関係を、常本琢招は娯楽映画監督として「ちゃんと」面白く描き出して見せる。ならばその加虐/被虐のありようはひとつのゲームのように観客を楽しませるのだろうが、実はそれだけではない。
監督の作家としての意識の敏感な部分が、映子の被虐を作家の加虐に、また同時に(登場人物に「寄り添う」部分では)作家の被虐につなげることで、複雑なタペストリーが編まれていく。これは美子の加虐においては、そっくり逆転した形をとる。
その上でふたりの役者の絡みには、互いにパズルのように合わさり切らない魅力的な「ズレ」があり続けるので、作家にとっても観客にとっても、予想外の新たな発見が生まれてくるのだ。だから観ている間、息詰まる感じと新鮮さが同居しているような、不思議なときめきを得てしまう。

他にも、事務所の狭い空間がまるで映子を追い詰める迷路のように思えたり(そこでデザインされているのが「内部」を作るための「外面」としての建築というのがまたいい)、シナリオ的には映子に吃音が戻る瞬間を巧みに二段階で仕掛けたりして、実に観るべきところの多い傑作に仕上がっている。
常本監督の-というだけではなく、現代日本映画の達したひとつの魅惑的な毒物として、強く推薦したい。
自分が観たのは2025年5月22日だが、この後、5月31日と6月12日に同じくStrangerで、6月7日にはせんだいメディアテークで上映が予定されている。他の短編も魅力的なので可能ならば駆けつけて欲しい。というか、もっと上映すればいいのに。

「ツネモト✖️4人のヒロイン」公式サイト

アラン・ドワン監督の西部劇~『私刑される女』(1953)『逮捕命令』(54)

Facebook の投稿をベースに再編集し、加筆したものです。

シネマヴェーラ渋谷の特集「超西部劇」で、珍しくもアラン・ドワン監督の西部劇を2本、劇場で観る機会を得た。
無声映画時代の1911年にデビュー、50年代末まで(※注)アメリカ映画界で活躍した息の長い監督で、作品数は IMDb にリストアップされてるだけでも 415 本に及ぶ。現在でも比較的名が知られた作品というと、シャーリー・テンプル主演『農園の寵児』(38)ジョン・ウェイン主演『硫黄島の砂』(49)といったところか。
大ベテランではあったが世界的評価を得た巨匠というわけでもなく、自分もよく知らなかったので、「どんなものか」と『逮捕命令』(1954)を観に行ってみたのだが、これがもう滅茶苦茶に面白い。「ならば」と観た『私刑(リンチ)される女』(53)も手応え充分で、以下、鑑賞順に感想を記す。

『逮捕命令』は、とある西部の町を舞台にした冤罪サスペンス。
町に来てたった2年ながら人々の好意を集めるに至った好漢(ジョン・ペイン)のもとに、連邦保安官を名乗る男が殺人の逮捕命令を持って出現。2時間の猶予を願い出て何とか冤罪を晴らそうとするのだが…という話。
自分はペインの西部劇を観るのは初めてだが、鶴田浩二の真面目さにアメリカ男性の身軽さをまじえたような個性が良い感じだ。

最初は味方の多かった主人公がどんどん孤立無援の状況に追い込まれるのがシビアで、西部劇の "町民不信モノ" としては『真昼の決闘』(52)にも『大砂塵』(54)にも通じるところがある。調べてみると、脚本のカレン・デウルフは "赤狩り" の犠牲者だったらしく、最後に主人公が町民に恨みを吐く場面は、激しい怒りに満ちている。
一方で、「これでもか」という孤立無援状況が映画を面白くしているのも事実で、最後の最後まで手に汗握らせる。ドワンの演出も素晴らしい切れ味で、職人的な芝居の演出とテンポの良さだけではなく、誰もが目を瞠るあっと驚く横移動を見せたりしてくれる。

ペイン以上に素晴らしいのが悪役のダン・デュリエで、ほとんど彼の映画と言っていいほどの印象深さ。自分の非道までもペインのせいにしてどんどん事態を悪化させるのだが、狡猾に大衆を味方につけていくのが恐ろしい。簡単に人でなしになれる人間がそれゆえに巧みな扇動者となるのは、現代でも(というか、最近ますます)よく見ることではないか。
女性はヒロインのお嬢さん役リザベス・スコットよりも二番手の酒場女ドロレス・モランの方が断然良く、ドワン監督も一所懸命撮ってる感じがする。

『私刑される女』は南北戦争末期、両軍の中立地帯の町が舞台。
地域のボスが女市長だったり風変わりな趣向が盛り込まれている。また物語展開もあちこちに仕掛けがあって、楽しい仕上がりだ。

トップ・クレジットは『アパッチ峠の闘い』(52)などのジョン・ランドだが、実質的な主役は町に兄を訪ねてきたジョーン・レスリー
清楚なお嬢さんとして登場したかと思いきや酒場の女主人に変身、キャットファイトを演じたりみごとなガンさばきを見せたりして、大活躍だ。ランドとの恋愛も、しっかり描きこまれている。
タイトル "Woman They Almost Lynched" が意味するのも彼女だし、何より非常に魅力的なのに、女優としてのクレジットもオードリー・トッターに次ぐ二番手なのが解せない。ポスターも二丁拳銃のトッターの方が断然、目立っているし。
まあトッターはトッターで役柄的には逆に二番手ながら悪女をイキイキと演じていて、歌ったり、あっと驚く衣装替えを見せたりして、『逮捕命令』でも感じられたランド監督の「蓮っ葉好き」ぶりが伺える。中でも最初の歌のシーンの演出は、気合が入っている。

残虐な南軍ゲリラ団を率いて悪名高いカントレルを、このひとが出てきたら安心して観られる役者のひとりであるブライアン・ドンレヴィが余裕で好演。何でもカントレル役は二回目らしい。息巻くトッターを「もう引っ込め」とガンベルトを掴んで引っ張っていくのが、さりげなくも面白い。
またレスリーの仲間になる酒場女の三人組がいい味を出しているのだが、うち一人がエドガー・G・ウルマーの傑作B級映画『恐怖のまわり道』(45)の性悪女、アン・サヴェージだった。

始まってすぐのカントレル一味による駅馬車襲撃や、町の中での一味と北軍の衝突などのアクションはかなりの迫力。大回りのカーブを利用して追う側が二手に分かれたり、物凄い砂煙の中の正面衝突を見せたりして、演出も工夫に満ちている。
また南北戦争(あるいは戦後)ものといえば南部魂の歌「デキシー」の扱われ方がミソだったりするが、その点でもかなり面白い。

オープニング・タイトルからリッチな響きで酔わせる音楽は、スタンリー・ウィルソン。よく知らなかったのだが調べてみたら物凄い人で、この名前を知っただけでも観た価値はあったかも?
機会があれば本ブログで取り上げてみたい。

いずれもアラン・ドワン監督、60代後半になってからの作品だが、職人らしい早撮りでテキパキと仕事をこなしていったことが伺える。画面が停滞せず、思い切りがいい感じがするのだ。新しい要素を取り入れる感覚もあるし、他にも観てみたくなった。
なお 2025年 5月29日現在、『私刑される女』はアマプラで、『逮捕命令』は YouTube で観ることもできる。後者は "Silber Load 1954" で検索を。

注:最終作の "Most Dangerous Man Alive" は1961年度作品とされているが、58年には完成していた。その後ドワンは1981年に96歳で没した。

Amazon Prime で観る


私刑(リンチ)される女(字幕版)