鑑賞録やその他の記事

53分の傑作『蜘蛛の国の女王』(2023)

書き下ろしです。

菊川の野心的な映画館 Stranger に、常本琢招(たくあき)監督の短編映画特集上映「ツネモト✖️4人のヒロイン」を観に行った。
常本監督および上映作品については、公式サイトを参照して頂ければと思うが。今回は自分が特に心動かされた一本『蜘蛛の国の女王』について、簡単に記したい。2009 年に撮影され、2023 年再編集された 53 分のモノクロ(パートカラー)作品である。

主人公の映子(久遠さやか)は、今でこそ強気で我を通す気鋭の建築家だが、かつてはひどい吃音で消極的で全く目立たぬ末端の存在だった。そんな彼女をいつも助けてくれたのが雇い主の建築家の美子(西山朱子(あかね))なのだが、ある日、仕事上の不正が発覚して、失踪してしまう。その日以来、映子は美子のメガネをかけ、服装も真似て、成り代わる形で出世街道に乗り、事務所を構えて、業界のスターにまでなった。そんなある日、映子は美子と再会。願いを聞き入れて自分の事務所に迎え入れるのだが…。

映子がじわじわと美子に追い詰められていくのがサスペンスたっぷりで、常本監督の丁寧な演出のもと、久遠と西山が素晴らしい。
ことに西山は、(自分はほとんどの映画関係者より以前から彼女を知っている古い知り合いなのだが)驚くほど声に、表情に、持ち味を完全に活かしきった名演と言っていい。役者としての代表作の一本であろう。

こうしたふたりの関係を、常本琢招は娯楽映画監督として「ちゃんと」面白く描き出して見せる。ならばその加虐/被虐のありようはひとつのゲームのように観客を楽しませるのだろうが、実はそれだけではない。
監督の作家としての意識の敏感な部分が、映子の被虐を作家の加虐に、また同時に(登場人物に「寄り添う」部分では)作家の被虐につなげることで、複雑なタペストリーが編まれていく。これは美子の加虐においては、そっくり逆転した形をとる。
その上でふたりの役者の絡みには、互いにパズルのように合わさり切らない魅力的な「ズレ」があり続けるので、作家にとっても観客にとっても、予想外の新たな発見が生まれてくるのだ。だから観ている間、息詰まる感じと新鮮さが同居しているような、不思議なときめきを得てしまう。

他にも、事務所の狭い空間がまるで映子を追い詰める迷路のように思えたり(そこでデザインされているのが「内部」を作るための「外面」としての建築というのがまたいい)、シナリオ的には映子に吃音が戻る瞬間を巧みに二段階で仕掛けたりして、実に観るべきところの多い傑作に仕上がっている。
常本監督の-というだけではなく、現代日本映画の達したひとつの魅惑的な毒物として、強く推薦したい。
自分が観たのは2025年5月22日だが、この後、5月31日と6月12日に同じくStrangerで、6月7日にはせんだいメディアテークで上映が予定されている。他の短編も魅力的なので可能ならば駆けつけて欲しい。というか、もっと上映すればいいのに。

「ツネモト✖️4人のヒロイン」公式サイト

アラン・ドワン監督の西部劇~『私刑される女』(1953)『逮捕命令』(54)

Facebook の投稿をベースに再編集し、加筆したものです。

シネマヴェーラ渋谷の特集「超西部劇」で、珍しくもアラン・ドワン監督の西部劇を2本、劇場で観る機会を得た。
無声映画時代の1911年にデビュー、50年代末まで(※注)アメリカ映画界で活躍した息の長い監督で、作品数は IMDb にリストアップされてるだけでも 415 本に及ぶ。現在でも比較的名が知られた作品というと、シャーリー・テンプル主演『農園の寵児』(38)ジョン・ウェイン主演『硫黄島の砂』(49)といったところか。
大ベテランではあったが世界的評価を得た巨匠というわけでもなく、自分もよく知らなかったので、「どんなものか」と『逮捕命令』(1954)を観に行ってみたのだが、これがもう滅茶苦茶に面白い。「ならば」と観た『私刑(リンチ)される女』(53)も手応え充分で、以下、鑑賞順に感想を記す。

『逮捕命令』は、とある西部の町を舞台にした冤罪サスペンス。
町に来てたった2年ながら人々の好意を集めるに至った好漢(ジョン・ペイン)のもとに、連邦保安官を名乗る男が殺人の逮捕命令を持って出現。2時間の猶予を願い出て何とか冤罪を晴らそうとするのだが…という話。
自分はペインの西部劇を観るのは初めてだが、鶴田浩二の真面目さにアメリカ男性の身軽さをまじえたような個性が良い感じだ。

最初は味方の多かった主人公がどんどん孤立無援の状況に追い込まれるのがシビアで、西部劇の "町民不信モノ" としては『真昼の決闘』(52)にも『大砂塵』(54)にも通じるところがある。調べてみると、脚本のカレン・デウルフは "赤狩り" の犠牲者だったらしく、最後に主人公が町民に恨みを吐く場面は、激しい怒りに満ちている。
一方で、「これでもか」という孤立無援状況が映画を面白くしているのも事実で、最後の最後まで手に汗握らせる。ドワンの演出も素晴らしい切れ味で、職人的な芝居の演出とテンポの良さだけではなく、誰もが目を瞠るあっと驚く横移動を見せたりしてくれる。

ペイン以上に素晴らしいのが悪役のダン・デュリエで、ほとんど彼の映画と言っていいほどの印象深さ。自分の非道までもペインのせいにしてどんどん事態を悪化させるのだが、狡猾に大衆を味方につけていくのが恐ろしい。簡単に人でなしになれる人間がそれゆえに巧みな扇動者となるのは、現代でも(というか、最近ますます)よく見ることではないか。
女性はヒロインのお嬢さん役リザベス・スコットよりも二番手の酒場女ドロレス・モランの方が断然良く、ドワン監督も一所懸命撮ってる感じがする。

『私刑される女』は南北戦争末期、両軍の中立地帯の町が舞台。
地域のボスが女市長だったり風変わりな趣向が盛り込まれている。また物語展開もあちこちに仕掛けがあって、楽しい仕上がりだ。

トップ・クレジットは『アパッチ峠の闘い』(52)などのジョン・ランドだが、実質的な主役は町に兄を訪ねてきたジョーン・レスリー
清楚なお嬢さんとして登場したかと思いきや酒場の女主人に変身、キャットファイトを演じたりみごとなガンさばきを見せたりして、大活躍だ。ランドとの恋愛も、しっかり描きこまれている。
タイトル "Woman They Almost Lynched" が意味するのも彼女だし、何より非常に魅力的なのに、女優としてのクレジットもオードリー・トッターに次ぐ二番手なのが解せない。ポスターも二丁拳銃のトッターの方が断然、目立っているし。
まあトッターはトッターで役柄的には逆に二番手ながら悪女をイキイキと演じていて、歌ったり、あっと驚く衣装替えを見せたりして、『逮捕命令』でも感じられたランド監督の「蓮っ葉好き」ぶりが伺える。中でも最初の歌のシーンの演出は、気合が入っている。

残虐な南軍ゲリラ団を率いて悪名高いカントレルを、このひとが出てきたら安心して観られる役者のひとりであるブライアン・ドンレヴィが余裕で好演。何でもカントレル役は二回目らしい。息巻くトッターを「もう引っ込め」とガンベルトを掴んで引っ張っていくのが、さりげなくも面白い。
またレスリーの仲間になる酒場女の三人組がいい味を出しているのだが、うち一人がエドガー・G・ウルマーの傑作B級映画『恐怖のまわり道』(45)の性悪女、アン・サヴェージだった。

始まってすぐのカントレル一味による駅馬車襲撃や、町の中での一味と北軍の衝突などのアクションはかなりの迫力。大回りのカーブを利用して追う側が二手に分かれたり、物凄い砂煙の中の正面衝突を見せたりして、演出も工夫に満ちている。
また南北戦争(あるいは戦後)ものといえば南部魂の歌「デキシー」の扱われ方がミソだったりするが、その点でもかなり面白い。

オープニング・タイトルからリッチな響きで酔わせる音楽は、スタンリー・ウィルソン。よく知らなかったのだが調べてみたら物凄い人で、この名前を知っただけでも観た価値はあったかも?
機会があれば本ブログで取り上げてみたい。

いずれもアラン・ドワン監督、60代後半になってからの作品だが、職人らしい早撮りでテキパキと仕事をこなしていったことが伺える。画面が停滞せず、思い切りがいい感じがするのだ。新しい要素を取り入れる感覚もあるし、他にも観てみたくなった。
なお 2025年 5月29日現在、『私刑される女』はアマプラで、『逮捕命令』は YouTube で観ることもできる。後者は "Silber Load 1954" で検索を。

注:最終作の "Most Dangerous Man Alive" は1961年度作品とされているが、58年には完成していた。その後ドワンは1981年に96歳で没した。

Amazon Prime で観る


私刑(リンチ)される女(字幕版)

25年ぶりの現在『少年』(2024)

書き下ろしです。

新宿のケイズシネマで旦雄二監督作品『少年』(24)を観る。この映画の特殊な完成までの道のりについては、公式サイトの下記の文章にある通りだ。

1999 年、国旗国歌法強行採決抗議デモの実景ショットにてクランクインした映画『少年』。2003年まで断続的に5年間撮影が行われ、さらに編集に3年を要し2006 年にようやく仮編集版がアップ。すでに業界内で話題となっていた本作は、未完成にも関わらず2007年にドイツとスペインの映画祭から正式招待され、痛烈な社会派青春映画として高く評価されたが、完成への道は難航し誰もがその存在を忘れていった。ところが、クランクインから実に25年が経過した2024年、監督の執念により制作が続いていた『少年』が、追加シーンを加え3時間の大作となり、ついに完成したのだ。

25年かけて完成された映画。
…しかし観てみると「25年間完成されなかった映画」としての姿の方が強く印象に残った。
(4Kどころかハイビジョンでさえない)SD画面で現在の新宿ケイズシネマに「新作」として上映され、その題材も、風土も、「一昔前の日本映画」を思わせる。
そして25年間を背負って3時間の長さを生真面目に映画自体が抱え込んでいるさまは、タイトルとは裏腹に老年の映画のようにも感じさせる。

だがしかし、それは決して否定されるようなものではないのだ。

先に「一昔前の日本映画」という曖昧な言い方をしたが、具体的に言えば、まず頭に浮かぶのはズバリ、長谷川和彦監督の2作だ。親殺しの映画『青春の殺人者』(1976)と国家殺し(未遂)の映画『太陽を盗んだ男』(79)。

特に前者を連想したひとは多いのではないかと思う。
主人公を中心に家庭が崩れさるのはある意味親殺しであり、2作のカップルはどこか似た影を背負っている。また、本作が仮に『青春の殺人者』というタイトルだとしても、そんなに違和感はない。

また本作が『太陽を盗んだ男』同様(あるいは「違うやり方」で)、個人と国家の軋轢、国を殺そうにも殺せぬ姿を強く感じさせる映画であることは、観ていくうちに明らかになっていく。
主人公が「君が代」斉唱で不起立だった理由が全く政治的でない故に、政治が彼に襲いかかってくる不条理。でも、それが政治というものであり、国に生まれてしまった者の宿命なのだ。
自分には『太陽を盗んだ男』と『少年』の両主人公のラストの姿が重なって思えてしまうのだが、分かってくれる方はいるだろうか…?

1952年生まれの旦監督にとって46年生まれの長谷川監督は、強く意識する少し上の世代であろう。若き日に渡辺護監督らの助監督として働き、CM業界に入っていったときにその2作が公開されたのは、強い刺激だったのではないかと思う。

だが『太陽を盗んだ男』から20年を経っても長谷川監督は撮らずに、旦監督は『少年』をクランクインし、それから25年経ってもまだ長谷川監督は撮ってない。
してみると『少年』の公開は、「長谷川和彦監督が撮らない」ということさえも引き受けての、(自らも老年に入ってしまった)後発世代としての決着のつけ方のような気がしてならないのだ。

そんな中で、小林且弥演じる主人公の黒目がちの瞳、ひょろりとした上背のある姿は、幻のように美しく脳裏に残る。
ここが大事なところだ。クランクイン時でさえ中年、今や老年の旦監督は、映画を公開することで何かのシンボルになるような美しい主人公像を作り上げた。

それによって、例えば自分は、こういう情景を想像することができる。

昨年、旦監督とは対象的に若い世代の監督が若いままに「少女」の映画たる『ナミビアの砂漠』を撮り、公開したのだが。
自分には、『少年』と『ナミビアの砂漠』の主人公が何処とも言えない場所ですれ違い、それを『青春の殺人者』と『太陽を盗んだ男』の主人公たちが遠くで見ているような場面を想像することができる。それは自分の脳内の「日本映画」のひとつの情景だ。
それだけの主人公像を作り上げているのだ。『少年』という映画は。

そして、主人公以外では、特に織本順吉演じる主人公の祖父が印象に残る。
このキャラクター造型は主人公の家庭の歪が国というものに(あるいは「国と個人」に)根ざしていることを端的に示していて秀逸なのだが、ここにきちんとしたベテラン俳優を配しているのは、旦監督の「間違いなさ」のひとつである。

そして自分は、その祖父のように、公開にこぎつけた現在の旦監督にお尋ねしたい。
「戦況は、どうか」-と。

ディランの目『名もなき者/A COMPLETE UNKNOWN』(2024)

書き下ろしです。

ジェームズ・マンゴールド監督作『名もなき者/A COMPLETE UNKNOWN』(2024)を観る。

無名のボブ・ディランがフォーク界のトップ・スターとなり、ロックに突入して波乱を巻き起こすまでを描いた実録映画で、演じるのはティモシー・シャラメ。彼を含め登場する歌手役の役者たちは皆、自分で演奏して歌う。

マンゴールド監督としては、ホアキン・フェニックスジョニー・キャッシュを演じた『ウォーク・ザ・ライン/君につづく道』(05)と同様の方法で、実写劇映画とは本質的に俳優の芝居のドキュメンタリーと考える自分には、非常に興味深いものに思える。ちなみに本作にもキャッシュは登場するが、今回はボイド・ホルブルックが演じている。

シャラメは若きディランの掴みどころのなさと才気と野心とカリスマ性を存分に表現し、パフォーマンスもなかなかの出来栄え。
そして歌唱の面で彼以上に驚かせてくれるのが、ジョーン・バエズのモニカ・バルバロ。美声で万人に「歌が上手い」と思わしめるバエズを、俳優が吹き替えなしで演り切ってしまうのは、驚異的だ。

さて、本作で最初にゾクゾクっとさせられるのは、ニューヨークに出てきたばかりのディランが、入院中の(憧れの歌手である)ウディ・ガスリースクート・マクネイリー)に会いに行き、自作曲『ウディに捧げる歌』を披露するシーンだ。
ここで観客たる我々は初めてシャラメの歌いぶりに触れるわけだが、「ディランらしく歌えてる」ということ以上に衝撃を受けるのは、歌いながらガスリーを見る「目」の何とも言えぬ良さである。

この瞬間、この映画では「歌う/聴く」という関係と同じぐらい-いや、もしかするとそれ以上に-「見る/見られる」が重要であることが了解される。そのことは、ラストで誰が誰を見ているかを思い出すだけでも十分だろう(ちなみに現実のディランはこのラストから間もなくバイク事故に遭い、休養に入ることになる)。

そして歌うディランを見る(見られる)場面で印象的なのは、多くの観客や業界の人々以上にエル・ファニング演じる(破局する)恋人シルヴィが見るところだ。
それは2度にわたって演じられ、その場のディランのパフォーマンスは観客たちには大いに受けるにもかかわらず、1度目は「私たちダメかも知れない」2度目は「もうダメだわ」という悲しい思いに満ちたものとなる。

そして特に2度目に於いて、ディランの方は彼女を「見ない」ことが切なさをかきたてる。ここで複雑なのは、もしも見たなら、より事態は悲惨であっただろうということだ。よりを戻しかけてる男が「君が求める男は俺じゃない」という意味の歌(It Ain't Me Babe)を他の女(バエズ)と歌いながら、こっちを見たとしたら!
…直後の金網越しの別れの場面は、地味ながら本作屈指の名シーン。マンゴールドのドラマ演出のうまさが際立つところだ。

他の場面の他の人物との関係においても、ディランは「見る/見られる」ことによって常に「何かが起きている」ことを感じさせ続ける存在であり、彼が歌うことでその「何か」は言葉で表される意味を超えた映画の興奮を生み続ける。
つまりこれは、「歌う」というアクションで見せる活劇。
だとしたら、彼がロックに向かうのは当然のようにも思えるし、そのことが(活劇における)「対決」ともいえる事態を生み出すのも、またふさわしいことなのだ。

フォーク・フェスティバルでの大騒動の挙げ句、ディランは生ギター1本でステージを締めくくる。それがディランの敗北にはならず、むしろ敗者へのレクイエムに思えるのは、歌の内容もさることながら、彼が(歌いながら)観客を「見ない」ことによってだ。
最初にガスリーを「見る」ことと、いかにも対照的である。

アネット・ウォーレンとハリウッドの影武者歌手たち

書き下ろしです。

シネマヴェーラ渋谷ダグラス・サーク監督特集で観た『誘拐魔』(1947)。
ナイトクラブで歌われる "All For Love" って曲が、主人公のルシル・ボールとジョージ・サンダースの恋の駆け引きを効果的に彩っている(※注1)。

歌手役はエセルレダ・レオポルドってひとで、べっぴんさんではあるのだが本作を含めクレジット無しの役ばかりで、役者として大成したとは言い難い。しかしこのシーンではかなり印象に残り、それは幾分けだるさを含んで漂うような歌声によるところが大きい。
だがそれは、アネット・ウォーレンというひとの吹き替えなのだ。

ちょっと興味を持って調べてみると、アルバム "Annette Warren Sings...There's A Man In My Life! Plus Selected Rarities" を各サブスクで聴くことができる。"All For Love" こそ入ってないが、CD2枚分、2時間半に渡って、映画と同じちょっとスモーキーな色気こぼれる歌を楽しめる。


Apple Music
Annette Warren Sings… "There's a Man in My Life!" Plus Selected Rarities (Remastered) - Album by Annette Warren - Apple Music
Spotify
Annette Warren Sings… "There's a Man in My Life!" Plus Selected Rarities (Remastered) ‑「Album」by Annette Warren | Spotify
YouTube
Annette Warren Sings… "There's a Man in My Life!" Plus Selected Rarities - YouTube

アネットは『誘拐魔』を皮切りに映画の Playback Singer、つまり吹き替え歌手の役割を果たしていくのだが。面白いことに、『腰抜け顔役』(49)『腰抜け千両役者』(50) といった2本のボブ・ホープ映画で、今度はルシル・ボールの歌を吹き替えているのだ。
これらの歌唱シーンは本記事執筆当時 YouTube で観ることができるので、アネットの歌声を覚えてからだと「ああ、確かに!」と思えて、とても面白い(『千両役者』の方はややくだけた感じで歌っているが、それでも声質は同じである)。

『腰抜け顔役』https://www.youtube.com/watch?v=jlCFoU8HOxg
『腰抜け千両役者』https://www.youtube.com/watch?v=1n2mClperz4

その他にアネット・ウォーレンの歌声が楽しめる映画の代表的なものとしては『ショウ・ボート』(51)があり、このミュージカル作品ではエヴァ・ガードナーを吹き替えている。
実は最初はエヴァ自身の歌声で作られたが、試写で不評だったのでアネットが吹き替えたのだ。こうした事情からかサウンドトラック・アルバムはもとのエヴァの歌声のままでリリースされた。
一方、同作のナンバー "Can't Help Lovin' That Man" はアネット自身の重要なレパートリーにもなっている。

いま挙げた例は、役者からすると酷な話であろう。
同じように自らの歌で撮影を進めながらも吹き替えにされた『ウエスト・サイド物語』(61)のナタリー・ウッドは激怒したというし、『マイ・フェア・レディ』(64)のオードリー・ヘプバーンは天を仰いでスタジオを立ち去ってしまったという。

以上の2作で吹き替えたのはアネットではなくマーニ・ニクソン
歌の実力と影武者になる能力で抜きん出ていたマーニは『王様と私』(56)のデボラ・カーの吹き替えでも有名で、しばしばハリウッドの Playback Singer の代表とされ、ネット上に記事も多い。一例としてニューヨーク・タイムズの記事を挙げておこう。

Marni Nixon - My Fair Lady - Theater - The New York Times

他にもハリウッドの Play Back Singer について調べ始めると、それだけで大事業になってしまうが。女性歌手のみながら、あくまでも自分の関心の中で一端を挙げてみたい。

アネットが同じ仲間としてステージで共演したひとだけでも、インディア・アダムス(『バンド・ワゴン』(53)のシド・チャリシーの吹き替え)、ベティ・ワンド(『恋の手ほどき』(58)のレスリー・キャロン、『ウエスト・サイド物語』のリタ・モレノの吹き替え)、ジョー・アン・グリア(『夜の豹』(57)などのリタ・ヘイワースの吹き替え)がいる。

また、本業の歌手としてもかなり有名だったひととしては、ベニー・グッドマン楽団でヒットを飛ばし、本人名義でもスクリーンで活躍したマーサ・ティルトンを忘れたくない。
このひとの吹き替えで印象深いのは、何と言っても『教授と美女』(41)のミッシーことバーバラ・スタンウィックジーン・クルーパ楽団と共演した "Drum Boogie"。蓮っ葉な色気のある歌いぶりがミッシーにピッタリだが、もし吹き替えと気づかれても構わない、夢のような名シーンだ。

https://www.youtube.com/watch?v=FUqd6-11lsQ

そろそろアネットに話を戻すそう。
このひとは影武者以外にも、レコーディングやステージを数多くこなし、音楽教師として後輩歌手を育て上げ、変わったところではジャズ・ピアニストである夫のポール・スミスと共にピアノのみのアルバムを出したり、実に多彩な活躍をした。

そしてなんと現在も102歳で健在。YouTube では昨年ステージに上げられて "Can't Help Lovin' That Man" を披露する姿も公開されている。
もちろんお歳なりの歌声ではあるのだが、長い人生、音楽一筋に生きてきて未だに歌える喜びが伝わってきて、感動してしまう。この姿を見たから記事を書いてみようと思った次第だ。

www.youtube.com

注1:このシーン、二人のスターの芝居をしっかり見せながらも、フロアに面したテーブル席や楽団のいるステージとの高低差を活かしたサークの演出も素晴らしい。

本田・円谷コンビの海洋ロマン『海底軍艦』(1963)『緯度0大作戦』(69)

書き下ろしです。

本多猪四郎監督・円谷英二特技監督の黄金コンビによる海洋SF『海底軍艦』(1963)『緯度0大作戦』(69)を、録画で続けて観た。後者は子供の頃に観たはずなのにほとんど覚えてないので、どちらも初見のようなものだ。

まず『海底軍艦』は、海底奥深くから地上侵略を狙う古代文明ムウ大陸と、戦時下の日本軍が開発した秘密兵器たる海底軍艦轟天号」及び乗組員たちの戦いを描く。
後者の中心となるのが太平洋戦争中より南の島に潜んで未だ戦闘態勢にある海軍兵たちという趣向で、グアム島の生き残り日本兵たる横井庄一の帰還が72年(小野田寛郎は74年)だから、ずいぶん先取りした設定だ。

海軍兵リーダーの神宮司大佐(田崎潤)が、かつての上官で今は平和ニッポンの住人たる楠見(上原謙)に「世界のためにムウと戦うこと」を求められて、あくまで大日本帝國再興に拘って対立するところなど、設定の荒唐無稽さを超えた骨太なドラマ性がある。戦中派たる本田監督が精神的なリアルさを感じながら演出しているのが、自然と映画に表れてしまうのだ。
一方でより観客に近い庶民の立場から冒険に巻き込まれていくのは、主人公たる広告カメラマンの旗中(高島忠夫)とその助手の西部(藤木悠)。高島らしく根は生真面目ながら軽妙な人物像が、いい具合に映画をほぐしている。開巻間もない写真撮影シーンでモデルの女(北あけみ)が夜の港でいきなりビキニになるのも、高島を介するからこそ楽しく見ることができる。

こうして硬軟使い分けて描写される人間世界に対し、ムウの世界はハリウッド映画の古代エジプトなどにありがちなエキゾチック・ミュージカルの趣。リーダー格の長老が天本英世で、皇帝役は小林哲子。ふたりとも舞台的な作り物の世界にハマっている。
このムウの地熱を操った人工地震攻撃が強力で、丸の内のビル街が一瞬にして地割れに飲み込まれる場面など凄まじい。

とはいえやはり最大の見ものは轟天号で、まず半身を赤く塗った胴体の先端にドリルをつけたデザインからして実に個性的だ。
初登場時に威容を強調すべくゆったり横移動で撮られるのには息を呑むし、発進時(そしてドリルによる粉砕時)のワクワク感はたまらないものがある。潜航時のリアル感、ゆったり浮上する重々しさも素晴らしく、こうした巨大潜水艦としての描写の手応えが、後の円谷英二円谷プロに伝説的な潜水艦のテレビ・シリーズ『マイティジャック』『戦え!マイティジャック』(68)を作らせたのだ。
そしてまた轟天号は宙も飛ぶのだが、重々しさを保ったまま静かに上昇するので、「これはこういうものだ」と納得してしまう説得力がある。誠に円谷特撮が生んだ最も魅力的な乗物兵器のひとつである。

だがこの轟天号が水中深くムウの本拠地に迫ってから、迫真の戦いを繰り広げるかと言えばそうでもなく、門番的な龍の怪物を割とあっさり片付けてからは、ムウ基地内に忍び込んだ海軍兵たちと(捕虜の身から脱走した)旗中たちが協力し合っての-言わば-「歩兵戦」が主軸となり、轟天号の魅力は一歩後退した印象を受ける。海中戦への期待を膨らませていると、肩透かしと言えるかも知れない。
それでも最後のムウの派手な爆発と、滅ぶ帝国と運命をともにする皇帝の悲愴美に、そこそこ盛り上がって終わってくれるので、あるていどの満足感は得られる。

一方『緯度0大作戦』は全く異なる設定で、明るい夢物語の印象が強い。
それでも英語圏では『海底軍艦』の英題 "Atragon" の続編のような "Atragon II" の題で公開されたこともあるというから、全く別の映画を続編に見せかけて公開してしまうのは、(日本でも『荒野の用心棒』(64)と別の映画を『続・荒野の用心棒』(66)とした例などがあるように)洋の東西を問わないようだ。

事故で流された海底調査船の乗組員三人が、謎の潜水艦「アルファー号」に救助され、艦長のマッケンジーに緯度0地点の海底基地に案内される。そこは人工太陽に照らされた都市として繁栄する一種のユートピアだった。一方、マッケンジーの仇敵で悪の怪人マリクは、地上世界から緯度0基地に招かれた天才科学者とその娘を誘拐する。マッケンジーと三人はチームを組んで救出に向かうのだが…。

本作は日米合作で、海底調査船乗組員役の宝田明岡田真澄のほか、かなり充実したアメリカ人俳優がキャスティングされている。
まずもうひとりの乗組員に、ロバート・アルドリッチ監督作品などでおなじみの憎めない脇役俳優リチャード・ジャッケル。終わってみると彼こそ主役であったように思える役柄だ。
大物の風格が必要なマッケンジー艦長には、オーソン・ウェルズ関係の諸作や『ジェニイの肖像』(48)などの大スター、ジョゼフ(本作での表記は "ジョセフ")・コットン。
そして何と言っても素晴らしいのが、マリク役のシーザー・ロメロ。多数の映画出演作があり、テレビの『バットマン(怪鳥人間バットマン)』(66~68)で伝説的な悪役 "ジョーカー" を最初に演じたことでも、有名な役者だ。本作でも悪くて、卑劣で、好色で、尊大で、しかしながら天才的な頭脳と行動力を持つワルの中のワルを、ユーモラスに演じきって見せてくれる。東宝特撮映画史に残る大ヴィランと言えよう。

今回、メインの乗物となるアルファー号は轟天号ほどの異様さはないスマートな潜水艦で、マニアックな人気という面では劣るかも知れないが、普通に格好いい造型。
何より嬉しいのは、始まってすぐに『海底軍艦』に欠けていた魅力ある海中戦を、マリク側の潜水艦と繰り広げてくれることだ。円谷特技監督の絵作り/カット割りも冴え、実写のセット撮影によるそれぞれの艦内とのつながりもいい感じだ。やはり同じタイプの乗物どうしの戦いは見応えがある。

前述のように本作の後半では、科学者救出作戦が主筋となり、マリクの本拠地である島と中心基地への潜入と戦いが描かれる。
マリクはマッド・サイエンティストとして人造の獣たちを従えており、H.G.ウエルズの有名小説「モロー博士の島」を思わせる。もともとの設定がジュール・ヴェルヌ海底二万哩」っぽいのと合わせて、古典冒険SFの世界をつなげた感じだ。その明快なおとぎ話的世界観を着ぐるみの怪物たちとともに、マリク役のロメロが実によく支えてくれているのだ。

クライマックスの脱出劇では、アルファー号と敵潜水艦の、今度は洋上での戦いを見せてくれる。
アルファー号が(轟天号と同じく)空を飛ぶ趣向にしても、危機脱出のために新機能を発揮するということになっているのがいい。いかにも自業自得なマリクの死に方も、邪悪なマッド・サイエンティストにふさわしい。
人を食ったような謎を残したオチも印象的で、大人も楽しめる冒険ファンタジーとして、かなりの満足感が得られる出来栄えだと思う。

大空や宇宙を舞台に空想世界を手づくりで具現化してくれた円谷特撮だが、この2作のように海を舞台にしたものも格別で、SF的な潜水艦が深海を行く幻想的な味わいには他に代えがたいものがある。
また伊福部昭の音楽が海によく似合うんだな。プラモデルが欲しくなってしまうよ。