鑑賞録やその他の記事

塩田監督渾身のエロコメ『春画先生』(2023)

書き下ろしです。

塩田明彦監督最新作『春画先生』(2023)を観る。

江戸の浮世絵の中で「春画」といわれるジャンルは、性の悦楽の世界を赤裸々に描き出したもの。春信・歌麿北斎など多くの巨匠が手がけており、性器そのものの描写を含め、観るひとに強烈な印象を与える。
本作では内野聖陽扮する春画研究の第一人者「春画先生」の興味深い人間像と、彼の弟子となる若き女性、弓子(北香那)の先生との付き合いを通じた心身の変化を描く。

性的な題材を主題に据えた映画は、それだけで色眼鏡で見られがちだ。本作も、観る前から「お下劣ではないか」という先入観を持つひとがいそうな気がする。そうした偏見のもとでは、春画は題材面での性的趣向のみがいたずらに誇張され、芸術性は置き去りにされかねない。
だがしかし、作中の春画先生は芸術鑑賞・研究のプロとして語り、振る舞う。弓子への最初の「授業」では、歌麿春画の肌と円山応挙の雪を並べることで、美術的な「技法論」を通じた-単なる性的興味に留まらぬ-芸術鑑賞の対象としての春画観を提示する。
だから本作は、軽々しい性的好奇心から離れて観られるべきなのだ。真面目に日本美術の一ジャンルとして春画を捉えんとするひとにこそ、響いてほしい映画だ。

…な~~~~~んてね!

そんな人畜無害な映画になるわけないでしょうが。塩田監督が春画の絡む師弟関係を取り扱うからには。もう、どうしようもないエロエロの危なっかしいコメディになっちゃってるわけですよ。

エロコメつっても「ボッキ~ン」とか「ぷりんぷり~ん」みたいな健康的なあけすけさはない。先生と弓子は最初っからずっと発情しっぱなしのくせに、美術研究という枠の中にあることで、より淫靡でおかしな言動に及ぶ。例えば先述の最初の授業は、セリフが美術論であることが、身のこなしのエロさを逆に際立たせる。そして観客をほくそ笑ませる。
また、先生が弓子を-助手としてのお披露目のように-連れて行く春画鑑賞会のシークエンスは、ルイス・ブニュエルから小沼勝までスキモノ監督が大好きな「ハイソのいかがわしいエロさ」が充満していて「やってる、やってる!」と嬉しくなってしまう。ここで先生が思い出話を開陳するくだりは、前半の大きな見せ場だ。
そうかと思えば、後半の回転ベッドのシーンで、弓子が「やります! すぐにでもセックスさせて頂きます!」みたいにやる気満々なのも、楽しい。さあ、ここからは「枠」をもぶち壊しますよ-という点火状態を見せて、決着になだれ込んでいくのだ。

そして本作では、みごとな発情演技でワクワクさせてくれる内野と北に加え、柄本佑の編集者がシェークスピア真夏の夜の夢』のパックのような道化-というか「性の悪戯者」としての適切な役割を演じてくれる。彼が最も春画-つまりは江戸時代の浮世絵-から抜け出てたような顔つきをしているのにも注目したい。鍵となる脇役は風土を背負う者なのだ。
これだけの三人を並べて巧妙に「おかしなおかしな春画の世界」を作っていった上で、塩田監督は「今の安達祐実にピッタリの役を堂々と演じてもらう」という最良のカードを嬉しそうに切ってみせる。
実は自分は途中まで本作を女版『月光の囁き』(1999)かと思ってたのだが、クライマックスに至って「それどころか…」という真相が晒される。そのときの安達がやはり本当に素敵で、ファン必見と言ってしまおう(※注)。

というわけでこのエロコメ・エンタテインメントは塩田明彦監督のベストといえる一本になった。

余談だが、最近の邦画で、「男先生と女生徒の一見品がありそうな映画でその実エロコメ」といえば、濱口竜介監督の『偶然と想像』(2021)の第二話があるのだが。そこでの先生役の渋川清彦と本作の内野は佇まいが似ていて、嗜好も共通するものがある。これは偶然だろうか。

注:本作の安達祐実は写真出演の段階で既に素晴らしい。みごとに生きている写真なのだ。

第一作の継承『ゴジラ-1.0』(2023)

書き下ろしです。

ゴジラ-1.0』(2023)を観た。
実写映画監督としての山崎貴を近年の『アルキメデスの大戦』(19)『ゴーストブック おばけずかん』(22)で高評価してる身としては、いやでも期待が高まる。

事前情報で戦後間もない日本をゴジラが襲うというのは知っていたが、冒頭、主役の神木隆之介が戦争末期に特攻から脱落して戦闘機を整備基地のある島に不時着させるところから、「なるほど、こう来るか」と思った(以降、けっこうネタバレします)。
この島での一連は、往年の特撮ドラマ『ウルトラQ』(1966)の『東京氷河期』的な(首都を襲う怪獣に戦争で生き残った戦闘機乗りが戦う)展開を予感させつつ、まだそこまで大きくないゴジラが局地戦で人間を次々と殺す恐ろしさを見せつけて、戦慄させられる。必死に逃げる人間をどんどん踏むのがえげつない。

ただ、その後、主人公が焼け野原となった実家(東京)に帰ってくるあたりは、あまり良くない。特にヒロインの浜辺美波から(預かって!)と赤ん坊を押し付けられるシーンは、「あれ? 最近の山崎監督って、もうちょっと巧くなかったっけ?」と心配になった。ゴジラという大ネタを預かって、演出が硬直してないか-と。
結局、神木と浜辺の関係の描き方に関しては今ひとつというか、悲劇が訪れる前にもう少し観ていて「分かるなあ、これ」と思わせる要素があっても良かったように思える。ただし、赤ん坊が喋れるぐらいには成長してからの子役とその使い方が物凄いので、かなりカバーはできているが。
あと、焼け跡から始まる戦後の描写に、昔なつかしな風俗的な要素を、安直に強調しないのも良かった。

その後、本題のゴジラに戻ってからは、期待通り大いに見せてくれる。
海で再登場するまでのサスペンスは手応えあるし、巨大化した禍々しい姿を見せてから(神木と仕事仲間たちの)粗末な木船を一直線に追ってくるのは、さながら(『悪魔のいけにえ』(1974)の)レザーフェイスのでっかいのにチェーンソーが触れんばかりに追走されるみたいに怖くて嫌だ。
そしていよいよ東京上陸。銀座の大破壊に至って思い知らされるのが、本作が何よりも1954年のゴジラ第一作への深い思い入れに満ちたものだということだ。電車襲撃・ラジオ実況班の悲劇といった具体的な部分だけでなく、テーマ的に大きな一点を引き継ごうとしている。
それは、ゴジラとは戦争の亡霊であり、その亡霊が実体化して戦争のような大破壊をもたらすということだ。

「戦争の亡霊」としての怪獣を描くことは(第一作を踏まえた)ゴジラ映画として重要だったのはもちろん、山崎貴というひとりの映画作家にとっても、意味のあることだったろう。
ちょうど10年前の『永遠の0』(2013)で、既に戦争の亡霊らしきものを映像化していたからだ。現代日本の空を飛び去る特攻機がそれである。
単独にあのカット自体は力が入ってたとは思う。だが過度に感傷的なあの映画の中では、戦争を感傷的に捉えた甘い幻にしかなり得なかったのではないか。映画自体も『市民ケーン』(41)的構成を巧みとはいえない手つきで操りつつ、謎の真相を「宮部の本当の心情は誰にも分かり得なかった…」なんて感じで曖昧に片づけるものでしかなかった(※注)。
だが今回は、もっと非情で恐ろしく暴力的な亡霊であるがゆえに、表現としての手応えが段違いだ。それはもちろん、破壊神ゴジラという映画史上の大発明を使い得たからではあるが、山崎監督自身の意識も変わってきているように思える。
我々が目にできるのは『アルキメデスの大戦』のラストに滅亡が運命づけられた戦艦の姿を描いてみせた監督による戦争の亡霊としてのゴジラなのだ。島で死んだ整備兵たちの写真が、(神木を責める小道具という)物語上の意味を超えた陰惨さを帯びていたことを見逃さないで欲しい。

そしてさらに第一作の継承として重要なのは、そのように呪わしく禍々しい戦争の亡霊としての怪獣の破壊と人間たちの戦いを、大人の鑑賞に耐えうるエンタテインメントとして成立させる精神である。
そこでまず自らVFX作家でもある山崎貴が、渋谷紀世子VFXディレクターらとともに作り上げた特撮映像だが。それ自体非常に迫力あるもので、陸上においては前述のように「踏む」えげつなさ、その想像を絶する重みが体感的に伝わってくるのには恐れ入った。
そして最後の海戦ではゴジラによって大きく波立つことにより、海自体もみごとに怪物となった。待ちに待ったあのテーマ曲が流れるタイミングを見よ、これが娯楽映画というものだ。
その上で空中からの攻撃に至るのだから、観ているこちらも力が入る。パイロット神木隆之介の運命については、またしても『永遠の0』との比較で何かが言えそうだが、そこまでのネタバレは避けようか(まあ割と分かりやすい「これはひとひねりあるな」という描写があるけど)。自分は素直に、これでいいんだ-と感動した。
また、艦船を使った「わだつみ作戦」は「ヤシオリ作戦」よりは説得力を感じた。

役者では腕利きの整備兵をやった青木崇高が良かった。
病院の浜辺美波の姿は、『シン・ゴジラ』(2016)の庵野秀明に敬意を表したんだろうか。まあ、エヴァ以前から怪我で片目の女の子というのは、萌え要素ではあるのだが。

注:自分はネットなどで見られる『永遠の0』の原作者の政治的姿勢や発言に全く同意しない者だが、そのことが映画の低評価につながってるわけではない。何なら、主人公がもっと歴然と帝国軍人としての使命に(彼なりに)目覚めて特攻を志したことが露骨に描かれていて(困ったことに-ではあるが)感動させられた方が、評価したと思う。例えばの話だが、夕日をバックに飛び立つ特攻機群を見て日の丸を連想して決意するとか。あの映画はそんな風に「危険」でさえない。いろんな意味で中途半端で、しかも、面白くなかったのである。

清水宏監督のレア作2本『桃の花の咲く下で』(1951)『明日は日本晴れ』(48)

Facebook への複数の投稿を組み合わせ、手を加えたものです。

清水宏監督の比較的レアな作品を、別の映画館で続けて観ることができた。

まずは神保町シアター笠置シヅ子特集で『桃の花の咲く下で』(51)。
終戦後の貧しさ濃い都会で、歌入りの紙芝居屋として働く笠置。もとは夜の女だったが、産んだ男の子は育てる余裕がなく、父たる男とその妻の家庭の養子に出していた…。
黙っていても笑っているような顔の笠置が元気に哀しい女を演じるのがミソで、独特の胸つかむ叙情がある。河原で去りゆく息子とその友だちを見送るカットなど素晴らしく、全身がジンと来る。温泉地の川にかかる粗末な橋の使い方など、この監督らしい細部も魅力的。安直にも思われかねない「簡単なマスクで正体を隠す」といった設定も、紙芝居の荒唐無稽が実生活にまで及んでいると考えれば、映画らしくて面白い。
だが笠置の歌うシーンで子どもたちがいまひとつ楽しそうに見えないなどの疑問点があり、傑作とは言い難い。特に冒頭、歌いながら子供たちを引き連れるのを長回しの斜め後退移動で撮るという魅力的になりそうな場面で、子供のみならずすれ違う大人までもが生気のない表情をしているのには(悪い意味で)動揺してしまった。いまひとつピリッとしたところのないストーリーといい、清水宏監督としては力の入り切らなかった仕事と言えるかも。リアリズムとミュージカルを融合する道が見いだせなかったのか。
それでも前述のような魅力的な要素で見せきってしまうのはたいしたもので、これが初仕事となる鳥居塚誠一の美術も見応えがある。

続いてシネマヴェーラ渋谷で『明日は日本晴れ』(48)。
『桃の…』と比べてもレア度は圧倒的で、公開後長らく観られず幻となっていたのが、昨年の国立映画アーカイブ「発掘された映画たち2022」(※注)でお目見えしたものだ。
清水宏監督で題材は田舎の路線バス-といえばただちに戦前の傑作『有りがたうさん』(36)を思い出すひとも多いだろうが、決定的に違うのは本作では峠越えの最中に故障し、止まってしまうことである。要は「動けないバス」の映画で、陽光の下の開放感ある停滞感が独特だ。
乗合車両なので、『駅馬車』(39)のように個性的な人物が入れ混じって社会の縮図を形作るわけだが、皆が戦争の影を負っているのが重要だ。片足の傷痍軍人が上官クラスの男に怒りをぶつける場面の鮮烈さは、多くのひとに語られるところだろう。戦災孤児と思われる子どもを登場させてすぐに(タダ乗りだから追い出して)退場させるのだが、ラスト間際に再登場させて題名にふさわしい希望ある行動をさせるあたりも、心憎い。
東京から帰省したワケアリ女の国友和歌子の描き方も素晴らしく、二度にわたりアップになる脚の美しさ、サングラスを外すタイミングなど、ため息がでる。彼女が草むらに埋もれるようにしゃがんで勘のいい按摩と話す場面は、情感溢れる名シーンだ。
スターといえるのは運転手の水島道太郎だけ。オールロケーションで手早く撮られた低予算の独立プロ作品ながら、観るひとの数だけ異なる感想を導きそうな豊かさに満ち、時代に翻弄された人々への作家のまなざしが深い余韻を残す傑作中の傑作。国立映画アーカイブによって作られたプリントが、映画館で鑑賞できるようになった意義は大きい。

注:国立映画アーカイブ公式YouTubeチャンネルによる上映企画「発掘された映画たち2022」記者発表会での解説

人工の情感『アステロイド・シティ』(2023)

書き下ろしです。

ウェス・アンダーソン監督『アステロイド・シティ』(23)を観る。

50年代のアメリカ南西部の荒野の町の数日間を描いたものだが、全体が一本の戯曲ということになっていて、さらにその-劇作家の執筆に始まる-成り立ちを伝えるテレビのドキュメンタリー番組から映画は始まる。
こうした二重三重の構造があること自体は、ふつうのSFアクションでも-マルチバースとかで-ややこしくなりがちな現代映画の世界では、驚くようなことではない。アンダーソン監督もそれが「ウリ」になると思ってるほどピュアなわけがなく、「狙いすぎ」と思われる危険性があるのもじゅうぶん承知のはずだ。
それでもこのような入り組んだ構造にするのは、手つきを見せながら箱庭を組み立てるようなことが、アンダーソンが「必要」とした語り口だから-というしかない。

それが本当に身に染みついた作家性だと分かるのは、例えば少年少女の珍奇なカタログめいた研究発表会でもあるし、本作の-分かりやすい意味での-見せ場といえる宇宙人の登場だったりもする。特に後者については、「こういう『東スポ』的なのをヌケヌケと見せてくれるのがアンダーソンなんだよ」と、嬉しそうに言ってみるのも悪くはない。
だが自分としては、カメラマンの男と町の有名人たる女優が、向かい合った窓を通じて語り合うシーンに漂う情感に、「ウェス・アンダーソン、こういう人工世界でこそ気の入った演出ができる体質の『映画監督』なんだな…」と、感じ入ってしまった。
そこでの「相対する建物の距離を保ちつつ語り合う男女」という設定が、後半、(戯曲の)舞台裏での男優とその妻を演じるはずだった女優という形で変奏されるとき、「ああ、確かにこういう構造でしか生み出せない感動もあるのだな」と、深く納得してしまう。架空の戯曲に対する現実の女優という存在が、戯曲の世界側から見ると死んだ(ということになっている)妻であるため、あの世の幻のように感じられてしまうのが、実に切ない。

ところでアステロイド・シティという町のウリは、古代に隕石が落ちた跡の巨大なクレーターで、宇宙人も残された隕石のカケラを「借り」にやってくるのだが。モデルは言うまでもなく、アリゾナに実在する "メテオ・クレーター" だろう。この場所と宇宙人というと、ジョン・カーペンター監督の『スターマン / 愛・宇宙はるかに』(1984)のラスト・シーンを思い出す映画好きも多いと思う。
俺は実はそのことを知らずにツアーで訪れて、見たとたん驚いて(公園の)受付の女性に「ここ、『スターマン』の…」と言ったら、彼女は顔を輝かせて「そうよ! ジェフ・ブリッジスがそこの入口を通って行ったのよ!」と答えたのだった。してみると、俺もアステロイド・シティの住人と話したことがあるのではないか。戯曲の中ではなかったけれども。

分裂した彼-『白鍵と黒鍵の間に』(2023)

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冨永昌敬監督作『白鍵と黒鍵の間に』(23)をイオンシネマ板橋で。

舞台は80年代の銀座。ある一夜に、夢抱える若きジャズ・ピアニストと、その3年後の姿が、すぐ近くの別の場所に同時に存在するような、不思議にねじれた物語。
池松壮亮が演じる分裂した「彼」を取り巻く人物たちは、各々の生々しさをもって「街」を構成し、映画全体が生き物のように呼吸するのに寄与する。中でも仲里依紗は、姉貴的役を気持ち良さげに、しなやかに演じつつ、鼻につくようなところがない。これはすごいなあ。

「若きピアニスト」が、キャバレーのバンドを辞める決意をサックス奏者の松丸契に語るシーン、狂気のヤクザの森田剛と二人三脚をさせられるシーンなど、舞台が路地裏/裏通りになると何とも言えぬ匂いが漂うのは、監督の特質がにじむところ。こういうのを持ってる作家は強い。

「3年後のピアニスト」が、クラブの「花瓶」的な飾りとして弾き続けるのを拒絶し、本当にやりたいジャズのセッションをする場面は、本作の音楽的なクライマックスだ。池松の弾きっぷりもさることながら、クラブの姉ちゃんたちのふんわりとした踊りや、吹き抜けの上階からのサックス奏者の参加など、演出的にやれることを全部やる勢いなのがいい。
見逃してはならないのが、その前哨戦として、路地裏のゴミ捨て場で、ボロいピアノとサックスのフリーなセッションがあったことだ。つまりクラブでのセッションは、路地裏の音楽としてのジャズを持ち込んだものともいえる。ならば路地裏のブギウギ・ピアニスト(だったであろう)ジミー・ヤンシーの名が出されるのにも納得する。

セッションは大いに盛り上がり、「3年後のピアニスト」の音楽学校留学用のデモテープとして無事録音されるかというと「そうはうまくいかない」のは、多くのひとが予想するところだろう。いかにも簡単にハッピーエンドにはならなさそうな、皮肉でオフビートな映画だからだ。
となると「うまくいかない」こと自体、ある種の予定調和になりかねない危険もある。それを打破するのが、洞口依子演じる母親と、もうひとりの(「3年後の彼」からさらに数年後?の)「彼」の登場だ。自分はここに、作り手の監督の-男としての-正直な心情を見るような気がした。主人公のダメさ(あるいは「ダメになってしまう」不安)を、心を込めて受入れてる気がしたのだ。

やがて映画は朝を迎え、ねじれた構造を完結させるエンディングに向かうのだが。ここで自分は「こうあればいい」というラストを期待しちゃっていたことを告白しよう。朝のひとけの無い銀座を、暴走族がクラクションで(本作での重要曲である)『ゴッドファーザー 愛のテーマ』を鳴らしながら疾走する-というのを、望んでしまったのだ(※注)。それはたぶん、同じように「街」をテーマとした『フェリーニのローマ』(72)が頭をよぎったからだろう。
この映画はそうはならないし、ならなくて構わないのだし、自分の予想にとりつかれちゃった俺は観客としてあまりよろしくなかったなあ…と反省もするのだが。『フェリーニのローマ』を思わせたこと自体、凄いことだと思う。実際はきちんと終わっているし、これだけねじれていても、観たあとの気分は清々しい。

そして今も不思議と印象に残るのは、ちょっとジンジャー・ルートを思わせるサックス奏者の姿なのだ。彼は上階ではなく、宙に浮いて吹いてたのではないか。背に羽根を生やして。

注:若いひとは御存知ないかも知れないが、この時代の暴走族のクラクションといえば、『ゴッドファーザー 愛のテーマ』だった。

大人の青春活劇『17歳は止まらない』(2023)

書き下ろしです。

北村美幸監督作品『17歳は止まらない』(23)を観る。

農業高校で畜産を学ぶ瑠璃は、年上好み。同年代の男の子に対するツンと好きな先生へのデレの落差が異常で、特にデレ時のウザさが凄まじく、その歯止めの効かなさは正にタイトル通りだ。やがて恋情が爆発してその末に…というお話。

冒頭、孵化したヒヨコたちの小屋にツナギを着た女子高生4人組が「うわあ!」と突入するのをローアングルで捉えたショットのイキの良さから、目を開かせられる。
続く彼女らの芝居は自然なのだが、自然っぽさをこれみよがしに強調するような演出ではなく、役者たちの若さがそのままイキイキと反映されてる感じで気持ち良い。それぞれの個性を感じさせた上で、主人公の瑠璃にすんなりと焦点が絞られていくのも、巧みだ。

瑠璃の先生への猛攻も「さあ、次はどうなる?」というサスペンスでグイグイと引っ張ってくれる。恋に燃えてほぼ珍獣化してるキャラクターの描写が演出・芝居ともに良いのだが、そもそもの脚本での展開がいい。
飲み慣れない酒の勢いで宿直中の先生に会いに行くというのは、主人公の芝居にだけ頼ればあざとさ過剰になりかねない、危ういシチュエーションなのだが。友だちふたりを絡ませ、なおかついいタイミングで離脱させることで上手に持って行ってる。もちろんそれは、シーンの狙い以上のものを体現化してくれた少女たちの力でもある。
かと思えば、学校の階段で「相談があるんです」と呼び止めるところは、関係ない生徒たちが次々と通り過ぎることで、ふたりの間の緊張感が強調される。そして先生の家を訪れてからの展開は、本作の大きな見せ場だ。アパートの窓、扉、自動車等々の装置がみごとに機能して段取りが踏まれ、「行くとこまで行く」にはここまでしなきゃダメだという周到な展開を見せる。これがあって瑠璃の異常な諦めなさが際立ってくる。

一方で農業高校の畜産科という設定は、まず観客を引き付ける興味深い珍しい舞台として機能する。その上で、育てた鶏を自分で食肉にするということ、子牛の誕生の目撃などがしっかりと撮られていて、"命" のさまざまな場に向き合うことが生命力あふれる時期の彼女らにふさわしいのだな-と納得させられる。
体験のひとつひとつを、映像として目で見ることで納得させられるのだ。

そしてこの畜産科での学びは、瑠璃の恋愛の顛末と離れてはいない。どちらも、「望んでも、どうしようもないことはある」という、青春の直面する非情さにおいて共通する。
その非情さを描く上で、作家は主人公に共感を寄せながらもしっかりと距離を取り、ある局面においては意地悪でさえある。
そこがいいのだ。いくつかの青春映画が青春に寄りそうあまり甘っちょろく、場面によっては恥ずかしくて見てられないものになるのに対し、本作はちゃんと大人の視点で、大人の鑑賞に耐える青春活劇に仕上げてある。

役者はみんないい。瑠璃を演じる池田朱那は、本作で何らかの賞を与えられるべきだろうと思う。
魅力的なロング・ショットがあるのも良かった。