書き下ろしです。
シネマヴェーラ渋谷 が9月7日から「プレコード・ハリウッド」なる特集をやるらしい。 ご存知ない方のために書くとここでの "コード" とは、宝塚歌劇 のコメディ(※注1)の題材にもなったいわゆる "ヘイズ・コード" のことで。1934年からアメリ カ映画製作配給業者協会によって実施された自主規制の条項で、これがために以後60年代ぐらいまでのハリウッド映画は道徳的な見地から性や暴力などの表現が抑えられ、一方で政府や活動団体による過剰な介入への防波堤となったのである。
こんなのが必要だったのは、それだけ以前にカッコ付きの「良識派 」から問題視されがちな題材や表現があったということで、"プレコード(=コード実施以前)映画" という言葉はなかなか魅惑的な響きを持つわけだ。 特にその最後期には実施のきっかけと名指しされる作品も複数あって、今回シネマヴェーラ で上映される中ではジャック・コンウェイ 監督作『赤毛の女 』(1932)などそうした一本らしい。
そして当記事で取り上げるアルフレ ッド・E・グリーン監督作『紅唇罪あり 』(33)は『赤毛 …』に強い影響を受けた作品と言われ、ヘイズ・オフィスの警告と全国の検閲官からの反発を受けた自主規制的な変更を経ての公開という経緯は、翌年からの全映画へのコード適用という事態につながっていくのである。シネマヴェーラ の特集からは-『赤毛 …』と被るからだろうか-洩れてしまったが、こうした歴史的重要性に加えて、何つっても愛すべきミッシーことバーバラ・スタンウィック の若き日の有名作であり、さらには現在、修正前と修正後のヴァージョンが観比べられるので(※注2)、ヘイズ・コード的なものがその黎明期に映画にもたらした変更が具体的に分かる点で、ハリウッド映画好きには見逃せない一本となっているのだ。
現在、国内で公に見ることができるのは修正された公開版で、財布に優しいコスミックの廉価版 DVD ボックス・シリーズに収められている(『一度は観たい! 珠玉の名作映画 愛の終焉』 DVD 10 枚組)。何でもこれが国内初 DVD 化ということで、コスミックは本当にエライ。英語ヒアリ ングが堪能な方を除き、日本語字幕付きのこれをまず観るのがいいのではないだろうか。自分はそうした。 で、その後に未修正版を観る正当な方法としては、輸入盤の DVD に公開版/未修正版の両方を収めたのがあるので、それを買えばいいのだが。この記事を書いている時点では、"Baby Face 1933" で Google 動画検索したらネット上にごにょごにょ…(※注3)いや、みなまで言いますまい。とにかく自分は観比べることに成功しましたよ。
物語は地方のモグリ酒場の娘で客に売春まがいのことまでやらされていた主人公リリーが、都会に出てきて大銀行に入り込み、"女" を武器に上司を次々と陥落していって、昇りつめていくというもの(※注4)。 明快な劇画タッチともいえるピカレスク ・ロマンで、その割り切った不道徳性には痛快ささえ感じる。勢いで書いたようなスピード感あるストーリーは、ダリル・F・ザナック によるもの。将来有望な若手幹部をたらしこみ 、その婚約者の父親の副社長まで夢中にさせて、男二人の血みどろのトラブルにまで至る極端な展開は、まるで鶴屋南北 だ。
鋭角的なメイクを施したミッシーは湿りすぎないハードな色気で、男に絡むときの目つき、身のこなしに「うわ、これは確かにたまらんな!」と身震いさせられる。 その行動を(原題になってるポピュラー曲『ベビー・フェイス』(Baby Face)ではなく)『セント・ルイス・ブルース』(Saint Louis Blues)が彩っているのが、また映画にある種の調子の良さをもたらしている。 グリーン演出には天才性さえ感じられないものの、モグリ酒場やオフィスなど、人物が多いところで軽快に芝居をさばくのは、さすがサイレントから鍛え上げた職人のわざ。役者にたっぷり芝居させながらお話をテキパキと語ってくれて、飽きさせない。
いま挙げたような良さは全て公開版でも得られることで、それだけ観ても充分に楽しめる映画とはいえる。 しかし未修正版にはさらにそれらの美点にユニークな輝きを与えるような魅力があり、公開版を気に入ったなら、なおのこと観て頂きたいものになっているのだ。
自主検閲によって何が失われたか-最も分かりやすい部分で言えばまずは性と暴力であって、具体的には次のような違いがある。
まず暴力に関しては、リリーが地方議員をビール瓶で殴打する場面、後半の射殺事件で撃たれた男が倒れる場面などが削除されている。特に前者では、直後に地方議員が血まみれな理由が分からなくなってしまう。 性について最も目立つのは、都会を目指して相棒のチコ(テレサ ・ハリス)と貨物列車に潜り込んだリリーが鉄道員 に見つかってしまい、誘惑してその場で寝てしまうのがバッサリ削除されていることだ。 ここは最初の方の最高のシーンであり、ミッシーの芝居もグリーンの演出も全力で、物語的にも彼女のその後の生き方を決定づける重要性がある。全篇を通してチコが何度も口ずさむ気怠い『セント・ルイス・ブルース』(先に言及したのは劇伴で、こちらは歌なのに注意)も、素晴らしい効果をあげている。
そして性と暴力の表現への変更以上に、さらに興味深く、作品の根幹を揺るがしているのは、その他の "道徳的判断" による変更である。言うならばリリーの "人生哲学" に関わる変更なのだ。
開巻間もなくリリーに人間らしく接してくれる哲学好きの靴職人、クラッグ(アルフォンス・エシア)が登場する。彼がリリーに現世をたくましく生き抜くために吹き込むのがニーチェ 哲学で、未修正版には二箇所、背文字のニーチェ 著作のタイトルがアップになってその言葉が引用される箇所がある。
まずは、リリーが父親を蒸留所の火事で亡くし、葬儀後にクラッグの家を訪れる場面。 直前までニーチェ の著作『力への意思』を読んでいた彼は、頁を指しながら読み上げる。 「ニーチェ いわく『どんなに理想化したところで人生は搾取そのものである』-これこそ君に言いたいことだ。自分自身を搾取するんだ。都会に出てチャンスを掴め。強く、反抗的であれ。男を利用して欲しいものを手に入れろ!」 そしてリリーは人生に挑戦することを決意する。
二番目は、男を踏み台にして富を手に入れつつあるリリーが、クラッグから送られてきた本を読む場面。 ここでもニーチェ の著作『反時代的考察』の書名が明示され、栞が挟まれた頁の一文がクローズアップされる。 「人生をありのままに受け入れよ。恐れるなかれ。空の月に憧れるのは無駄なこと。感傷など打ち砕いてしまえ」 直後、リリーは訪れてきた(彼女に夢中な)若手幹部を、冷たく突き放す。
これらが公開版ではどうなるか。いずれの場面でもニーチェ の書名も、それどころかセリフ中の "ニーチェ " という固有名詞も、全く消し去られてしまうのだ。
前者の「クラッグの家」の場面では、彼が読んでいた書名はハッキリせず、頁を指差すカットも削除され、語る言葉はユニークさを欠いた元気づけの説教になっている。 セリフが-単純な削除ではなく-変更された箇所では、喋るクラッグの背後から肩越しにリリーの顔を捉えたカットがあてがわれているが、長さが合わないので、フィルムをつまんでコマが飛んだみたいになってしまっている。苦肉の策、いいところである(※注5)。
後者の「送られてきた本」の場面の変更は、もっと意味が変えられてしまっている。 まずリリーが手にした本の背表紙が映るが、全く別の本だ。一瞬で読みにくいが "STANLEY'S…ARISTIAS……STITUTIO…" などの文字が見え、ニーチェ 『反時代的考察』(NIETZSCHE "THOUGHTS OUT OF SEASON")とは別物である。 しかもここでリリーが読むのは本そのものでなく、挟まっていたクラッグからの手紙で、その内容たるや、何と今のリリーの生き方をいさめ、「この本が君を正しく導くことを願う」というものなのだ。とすると、ありきたりな道徳本か何かなのか。 このままでは、前述のように直後に若手幹部を-彼女の今までの生き方に従って-突き放すのとは、調子が合わなくなってしまう。そこで、読んだ直後のリリーに注目してみたい。 未修正版ではフルショットですぐ次の芝居に行くのに対し、公開版ではもう少し寄りのバストショットで表情を見せた上、芝居の間もたっぷりとられている。恐らく別テイクなのだろうが、その方がクラッグのお説教に憮然とした上で、反抗的に今の生き方を貫こうとしているように見える-という判断があったのだろう。
それにしてもなぜ、ここまでニーチェ 要素が削除されるのか。こんな俗っぽくエロチックな話にニーチェ が出てくるのが、面白いところなのに! もちろん "身体を使って男を利用しどんどん這い上がること" を肯定する教えとして-少なくとも映画の中では-使われていることも問題なのだろうが。しかし、教え自体にエロスへの直接的な言及はない。 ここはやはり、"ニーチェ を扱うこと自体" が大問題なのではないか。キリスト教 道徳の価値観からすると、神の死を宣告したニヒリストのニーチェ など悪そのもので、映画を観たひとが著作に興味を持つ可能性を消し去りたかったのだろう。30年代アメリ カ映画における自主検閲には、このような-キリスト教 的に許容できない哲学を排除する-方向性もあったことは、覚えておいていいのかも知れない。
さて他には、誰が観比べてもすぐに気がつくのに、ラストの変更がある。 公開版ではリリーはその後、慎ましく貧しい生活を送るであろうことが、はっきり示されている。これは確かに大きな変更ではあるが、未修正版でも彼女は物欲まみれの生活を捨てるかも-という印象が残る。多少なりとも世間に妥協した終わり方に感じたので、個人的には決定的な変更とは思えない(それでも未修正版のスパッとした終わり方の方が良いが)。
それよりもっと、「これ、監督は悔しかったろうな」と思わせる変更箇所がある。 ラスト直前、リリーは若き頭取コートランド(ジョージ・ブレント)から経済的援助を求められるが、見限ってフランスへの客船に乗り込む。客室でリリーは、後ろ髪引かれる思いの中、レコードをかける。流れる『奥様、お手をどうぞ』(I Kiss Your Hand, Madam)。 ここで未修正版では、回転するレコードの盤面にこれまで渡り歩いた男たちの顔が次々とオーバーラップするのだ! その上で最後にコートランドの顔が浮かび、「君は何人もの男を知ってるんだろう。でも関係ないさ。俺は君が好きだし、いつか君の心を掴んでみせる」という声が重なって、リリーは戻る決意をするのである。 今までの人生を振り返ったうえでの翻意を視覚化した秀逸な演出だ。 ところが公開版では、コートランドの顔だけが浮かんでセリフも重ならず、それだけでリリーは戻る決意してしまうのだ。不道徳な男遍歴の印象を薄めるための変更だったのだろうが、映画として重要な見せどころが失われてしまったと言わざるを得ない。
以上が未修正版と公開版のざっと見た大きな違いで、他にもセリフやカットの長さなどで細かい変更がいろいろあると思う(※注6)。いずれにせよ、その後のアメリ カ映画全体に及ぶ性・暴力・道徳の自主規制を考えるには、興味深い題材ではないだろうか。 何にせよ、ここでのミッシーの男社会を手玉に取る女一匹ぶりは、魅惑的な輝きを見せている。それが充分に味わえるのは未修正版の方であることは、間違いない。
注1:『ヘイズ・コード』 | 星組公演 | 日本青年館大ホール | 宝塚歌劇 | 公式HP
注2:未修正版は公開から70年以上を経た2004年に発見され、同年のロンドン映画祭で上映された。
注3:さらに検索語に "ok.ru" と付け加えると…。
注4:陥落する男たちの中には、若き日のジョン・ウェイン もいる。
注5:この場面の手を尽くした変更は、編集テクニック的には興味深い。
注6:例えば、都会に出てきたチコとリリーがレストランの窓から中を覗き、チコが「ポークチョップ食べたい」と言うのに、リリーが「気の持ちようよ、昨日、食べたよね?」と返すところがカットされているのだが、今ひとつ理由が分からない。ポークチョップに性的な意味があるのか?
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