鑑賞録やその他の記事

マン&スチュアート、5本の西部劇

Facebook などへの複数の投稿をもとにした書き下ろしです。

今年7月、シネマヴェーラ渋谷でアンソニー・マン監督特集があり、西部劇というジャンルを代表する名作のひとつ『ウィンチェスター銃 '73』(1950)を久々に再見。大昔の正月休みに、京都の深夜テレビでラオール・ウォルシュ『死の谷』(49)と連続で観て大興奮したものだけど、やはり劇場で観ると圧倒されてしまった。
そこで今回は、本作に始まるマン監督ジェームズ・スチュアート主演の一連の作品のうち、特に西部劇5本に焦点を当ててみようと思う。

まずは『ウィンチェスター銃 '73』。

ストーリーは今さら紹介するまでもなく、主人公ジェームズ・スチュアートの因縁の復讐劇を縦軸に、「千にひとつ」の名銃が人の手から手に渡っていくのを追ったもの。その所有者が変わるごとに射撃競技・商取引と賭けポーカー・騎兵隊の野外戦・籠城戦と焼き討ち…と趣向を変えた見せ場が設けられ、それぞれにマン監督の名人芸が味わえる。
この設定はこう見せる-というのがいちいち筋が通っていて、これ1本で1年間の演出講義の教材に使えるぐらいだ。

いよいよ最後の因縁の対決で、前触れの音楽のようにシェリー・ウィンターズの酒場女のピアノが鳴る。ここからの狭苦しい酒場の内外での縦横無尽のカメラワーク、人物の動かし方は本当に凄い。
町の銃撃戦から、主人公が仇敵を追って馬を走らせる。カメラはひたすら、馬で遠くから手前に来るカットを、重ねていく。だんだん高くなっていくのを見せる意味だけでなく、最後の決闘へとギューっと焦点が絞られていくような気持ちにさせられる。
そして岩山へ。このクライマックスは初見から今まで何度観ても、手に汗握ってしまう名シーンだ。

ちなみに昔から謎に思っていた冒頭の射撃競技での保安官ワイアット・アープが、上着をバッサバッサと動かす仕草。これは今回見て、着慣れぬ正装が暑苦しくてやっているのだと思った。

次なるコンビ作は1952年の『怒りの河』。

ここからはカラー作品となり、特に本作には「派手な娯楽西部劇を作ってやろう」という意気込みが強く感じられるように思う。
ここでスチュアートが演じるのは、西部に向かう開拓民の道案内人。
典型的なウエスタン・ロードムービーなわけだが、まず幌馬車隊の規模の大きさに圧倒される。しかも陸路ばかりではなく、蒸気船による航路も入ってきてスケール感が増す。

見せ場はいろいろあるが、特に気に入ったのは、酒場での顔役との交渉決裂から撃ち合い・脱出・船で出発のアクションの釣瓶打ち。こうしたスピード感は最近の映画では観られない気がする。
クライマックスの渡河から水の中の戦いへの展開も手に汗握り、後味も良くて大いに楽しめる1本。
なお『ウィンチェスター銃 '73』では強欲なインディアンの酋長として脇の敵役扱いだったロック・ハドソンが、こちらでは出番が多くガンさばきも華麗なハンサムを演じている。

翌1953年には『裸の拍車』。

この映画では、スチュアートがロバート・ライアンのお尋ね者を捕まえて、賞金を得るために町へ連れて行く旅が描かれるのだが。最初の20分のライアン捕縛までが、まず素晴らしい。
いかにもマン監督らしく岩山の上に陣取ったライアンが落石を仕掛けるのを回避しながら捕まえに行くのがサスペンスたっぷりで、心ならずも行きずりのクセ者たちとともに3人がかりでやり遂げたことから、この先の旅が不穏なものであることを匂わせる。ここにライアン唯一の味方として、ジャネット・リー演じる気の強い少女がついていくことになる。

同行の連中が全く信頼できないことに加え、スチュアート自身もトラウマを抱えた屈折した人間で、おまけにこれまでの2作ほどの手練れの西部男じゃないから、より危なっかしく、暗い旅にならざるを得ない。
やがて迎えるクライマックスでは、疑心暗鬼の人間関係が爆発したような激流と(マン的岩山の変奏となる)絶壁が舞台となり、目を奪うようなロングの俯瞰などを織り交ぜて一気に終局に向かう。
終わった後の余韻はかなり深い。

次が1954年の『遠い国』。
なお、この年にはマン&スチュアートの作としては『ウィンチェスター銃 '73』に並んで有名な『グレン・ミラー物語』も出ている。

ゴールドラッシュの時代、腕利きガンマンのスチュアートは牛の群れを率いて、黄金の採れる町、ドーソンを目指す。雪化粧の山々など大陸北部の風景が楽しめ、相棒役にはウォルター・ブレナンという西部劇では信頼のキャスティング。
しかし何と言っても素晴らしいのが、『ウィンチェスター銃 '73』の武器商人役でもいいところを見せたジョン・マッキンタイアの敵役で、横暴で狡猾な権力者ながら主人公を男として認めるスケールの大きさがいい。

ドーソンにマッキンタイアが現れてからの後半が良く、川辺で筏に乗ろうとするスチュアートとブレナンが襲われる場面の鋭さ、戦う決意を固めたスチュアートがズンズンと画面手前に来て銃を取らんとする迫力など、息を呑むものがある。
そして(疑似夜景ではなく)本当の夜間撮影を決行した対決シーンでは、アクションばかりでなく、それまで映画が語り続けた人間関係もが一気に決着に向かうのが、実にアンソニー・マンらしい。

それにしても、(スチュアートに歌を聞かせたがっている)コリンヌ・カルヴェを頑ななまでに歌わせないのは、不思議な作劇。最初は歌う予定が、音痴だったのかな?-と勘ぐりたくなるぐらいだ。

そして1955年にはこのコンビの西部劇最終作『ララミーから来た男』が出る。
この映画のみ今回のシネマヴェーラの特集にはかからなかったが、NHK BS などで近年放映されているので、そちらで御覧になった方も多いのではないだろうか。

これまでの4作がロードムービー的だったのに比べ、本作はひとつの地域が舞台になっていて、そこを牛耳る老牧場主ドナルド・クリスプの跡継ぎたちの対立などによる "王の落日" の物語が、ひとつの背骨となっている。
牧場主の見る夢に出てくる男が誰か…というのがひとつのポイントになるなど、少し不思議な感じの味付けが物語に神話性を帯びさせる。IMDbによると西部劇版「リア王」との声もあるそうだ。
同じマン西部劇でいえば、大牧場主ウォルター・ヒューストンが娘バーバラ・スタンウィックに負かされる『復讐の荒野』(50)と相通じるものがあるように思う。

さて、だいたいにおいてマン西部劇ではスチュアートは割とヒドい目にあうのだが、個人的には本作の掌を射抜かれるのがいちばん痛々しいと思う(その前にも馬で引きずられそうになったりもするが…)。マカロニじゃないので、こうなってしまうと手当を受けても早撃ちでの決着は望めない。
それでもマン監督らしい岩山(といっても今回は多少、木が繁っているが)での決着が、ちょっと陰惨な感じで用意されていて、その後は平和なエンディングを迎える。

と、ここまで5本続けて感じられるのは、まず対決を描くにしても単純な敵味方の対立ではなく、過去の因縁がかなり細かく設定づけられていたり、互いに繋がりや共通点があったり、場合によっては協力し合ったり、騙したり騙されたり裏切ったり…と、ドラマ的な紆余曲折を経て、最終的な戦いへと突入していくことだ。
その過程で先述のように主人公ジェームズ・スチュアートが傷つけられることも多いのだが。大切なのは、人間関係の葛藤・軋み・傷つけ合いの結果としての激闘にふさわしい場所として、岩山や河川といった自然の難所が設定され、映画ならではの興奮に引きずり込んでくれることなのだ。
特に高低の感覚についていえば、マン演出はちょっとした場面でも座ってたり寝転んでたりしている人間と立っている人間の関係が画面に立体的な力強さをもたらすことが多いので、地形的な高低がクライマックスで生かされるのも、実に自然に思われる。

そしてまた続けて観ると-ジョン・フォード西部劇ほどではないが-同じ役者が繰り返し出てきてくれるのも嬉しくなる。
先述のジョン・マッキンタイアやロック・ハドソンもだが、『怒りの河』『ララミーから来た男』でそれぞれ、味方のようにも思えたが最後の敵となる役を演じるアーサー・ケネディは重要だろう。他にもミラード・ミッチェル、ハリー・モーガン、ジャック・イーラムなどが、複数の作でマン西部劇の顔として映し出されている。
また、これらの中では1作限りの登場で、しかも主人公とそんなに深い因縁があるわけでもないが、ただただ凶悪なだけの怖い悪役として『ウィンチェスター銃 '73』のダン・デュリエや『遠い国』のロバート・J・ウィルクも印象深い。

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2人のロレンツ・ハート『ブルームーン』(2025)『ワーズ&ミュージック』(1948)

書き下ろしです。

ヌーヴェルバーグ』(2025)が好評なリチャード・リンクレイター監督だが。今年は既にもう一本の新作『ブルームーン』(25)も公開されていて、こちらも良い-というか、自分などはより高く評価しているぐらいだ。

実話ベースということでは『ヌーヴェルバーグ』と共通するが、ここで描かれているのは-冒頭を除けば-天才作詞家ロレンツ・ハートの肺炎による死亡数ヶ月前のとある一晩。
長年の相方である作曲家リチャード・ロジャースが、彼以外の作詞家オスカー・ハマースタイン2世と新たに組んだブロードウェイ・ミュージカル『オクラホマ!』の初日、1943年3月31日の夜の出来事である(※注1・2)。

舞台はほぼ、打上げパーティ会場となったレストラン「サーディーズ」に限定され、密室劇と言えるのだが。
まずしばらくは、ひとりで到着したハートが飲むバーカウンターが主な舞台となる。そして話の中心が切り替わるごとに、テーブル、フロア中央付近、階段の踊り場、物置部屋(?)等々、芝居場が変わっていって飽きさせない。巧くメリハリをつけたシナリオで、密室劇ドラマの作り方の勉強になると思う。

本作最大の見ものは、何といっても主人公ハートを演じるイーサン・ホークの芝居。
人生の凋落期に周囲から距離を置かれつつあるのに、空元気めいた才気走ったお喋りを止めない様子は、小柄で薄毛の冴えない外見とあいまって、痛ましくも自虐的な道化の印象を与える。

そんな彼が―同性愛者としての面がありながらも―美神(ミューズ)としてあがめているのが、エリザベスという女性。ハートからの称賛の言葉がいくども語られた後に、ようやく店に姿を現す。
演じているのがマーガレット・クアリーなんだけど、これがもう、ひと目で "魅力的な容姿ではあるが人間的には割と普通の気さくな女子大生" というのが、絶妙な感じで分かってしまうのだ。この人物の描出力には、本当に舌を巻く(※注3)。

そんな普通の女子大生エリザベスが、知的な道化ハートの気持ちを受け止めきれるわけもなく、でも、いい子だから歳の離れた友人のつもりでいろいろ相談する。ハートもその関係を壊したくないから "親身なおじさん" として、あけすけな―およそミューズにふさわしくない―女子大生の身の上話に応じる。その滑稽ながらも「分かるなあ、この感じ」と思えてしまう様子に、しんみりする。
一方でアンドリュー・スコット演じるロジャースと踊り場で話すところの、名コンビであったはずの互いの気持ちが噛み合わないのは切ない。

そんなわけでパーティが終わる頃にはハートの孤独はますます深まってしまうのだが、そこでタイトルにもなっているロジャースとのコンビの有名曲「ブルームーン」が、どのように流れるか。
ここでリンクレイターは "さりげなくもミュージカル風" という離れ業をやってのけて、寂しい天才の物語を溢れるような情感で彩ってくれるのだ。

ところでこの『ブルームーン』に遥か先立つ1948年にロジャース&ハートのコンビを描いた作品、『ワーズ&ミュージック』があったのは御存知だろうか。
コンビの結成からハートの死までを描いた伝記的作品で、ハートの同性愛傾向をスルーしたことも含め、キレイゴトばかりでフィクションも多い作品とされているが。それでも自分は『ブルームーン』を観たひとや観ようとしているひとは、アマプラなどでぜひ観て頂きたいと思う。

まず何といってもこのコンビの歩みをたどりながら、代表曲の数々を超一流のシンガーやダンサーのパフォーマンスで楽しめるのが、いい。
披露してくれるのは、ハート役のミッキー・ルーニーを始めとして、ルーニーとは久々のデュエットを聴かせるジュディ・ガーランド(※注4)、珍しく芝居も見せるペリー・コモ、コモの歌唱にダンスで絡むシド・チャリシー、自らの振り付けナンバーをヴェラ=エレンをパートナーにたっぷり見せるジーン・ケリー、ミュージカル女優としても有名な3人、ジューン・アリソン、ベティ・ギャレット、アン・ソーントン。そして個人的に極めつけとしたいのは不世出の大歌手レナ・ホーンで、歌唱映像の多い彼女をしてもここでの名曲『ザ・レディ・イズ・ア・トランプ』の出来栄えは最高だ。
これだけのナンバーをドラマの中でうまくちりばめていくのは、さすがノーマン・タウログ監督。職人の凄みを感じてしまう。

その上で、本作でも―キレイゴトの脚色にもかかわらず―ロレンツ・ハートという人間の悲しさ、痛ましさがしっかりと伝わってくるのは、ひとえにミッキー・ルーニーの力といえる。
実在のハートとは小柄という点で共通するこの天才役者は、子役時代に『真夏の夜の夢』(1935)のパックを演じた頃からすでに他にないエキセントリックな個性を打ち出すのに秀でており、大人になってからは、それゆえ社会に適合できない人物をみごとに演じきることができた。ドン・シーゲル監督の傑作『殺し屋ネルスン』(57)など、その好例といえよう。
そんなわけでルーニーの演じたハートは、イーサン・ホークのそれとは表現こそ違えど、確かに同じ人物をモデルにした孤独で知的な道化となっていて、見ていて胸に迫るものがある。これら2作は、ハートというキャラクターを通してみごとにつながっているのだ。

その「つながり」が最もよく表れたのが、「ブルームーン」が歌われる場面である。『ワーズ&ミュージック』のそれを見れば、『ブルームーン』のリンクレイター監督が非常に意識していることが分かると思う。
ここでは、歌うのがメル・トーメだという以上の詳述は避けよう。ぜひ、御自分の目で、耳で確かめて頂きたい。

注1:ブロードウェイ・ミュージカルなどで活躍した大作曲家リチャード・ロジャースの活動期は、大きくロレンツ・ハートと組んだロジャース&ハート期(1920~43)、オスカー・ハマースタイン2世と組んだロジャース&ハマースタイン期(1943~60)の2つに分かれる(ハマースタイン没後はロジャース自ら作詞を手がけたりもした)。前者では「マンハッタン」「ブルームーン」「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」など哀感に満ちた楽曲がスタンダードとなり、ジャズマンに好んで取り上げられた。後者では戯曲単位で言えば『南太平洋』『王様と私』『サウンド・オブ・ミュージック』など、映画にもなった大ヒット作の数々が知られる。なお、Apple Music を使われている方は、両方の時期を合わせたリチャード・ロジャースのプレイリストを私が作成して公開していますので、よろしければ聴いてみて下さい。

注2:ロレンツ・ハートが亡くなったのは、1943年11月22日。48歳だった。

注3:『ヌーヴェルバーグ』でも、ゾーイ・ドゥイッチ演じるジーン・セヴァーグに妙なリアル感がある。実際のセヴァーグがこのようであったかとは別に、いかにも実在してそうな少女っぽさのあるた魅力的女性に仕上がっている。

注4:ミッキー・ルーニーとジュディ・ガーランドといえば、MGMで連作されたルーニー主演のコメディ、アンディ・ハーディ・シリーズや、青春ミュージカルのコンビとして非常に有名であったわけだが、ダブル主演作の中でも最高の出来栄えのひとつと思われる『ガール・クレイジー』(43)の監督も『ワーズ&ミュージック』同様、ノーマン・タウログである。

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なりきり映画の妙味『Michael / マイケル』(2026)

書き下ろしです。

アントワーン・フークア『Michael / マイケル』(26)を観る。
亮と流星が歌舞伎役者になりきる『国宝』(25)のように、松ケンが漫画の登場人物になりきる『デスノート』(06)のように、映画の世界での "なりきり芸" が堪能できる一作。

その上で主人公の子供時代から歌と踊りを連発してミュージカルのように見せてくれるのかと思いきや、基本は(特に中盤ぐらいまでは)生真面目に人生ドラマを綴っていく。
レコーディングのシーンなどでもバックトラックをオフにして歌声だけを立ち上げることで、安易に観客を "ノラせない" というか、人間マイケルが "生きた時" を際立たせようとしている感じだ。

ただし、現実のマイケルには重要なはずの人物(ダイアナ・ロスやジャネット・ジャクソンなど)が何人か出せてないことからも分かるように、映画化が制約だらけだったせいか、どこかスケール感を欠いた(芝居としての)動きも広がりも欠けたシーンがポツンポツンと置かれていく感じがする。

まあ退屈はしないのだがドラマとしての弾みはいまひとつ。しかしながら、観ているとこれが、マイケルの閉塞的な日常を反映しているようにも感じられてしまう。これだけのスーパースターの人生の一幕一幕が、こんなにこじんまりとしてしまうなんて。
「さぞや寂しかったんだろうなあ」と思いながらも、一方で、「孤独のドラマでございますよ!」と盛り上げ過ぎないのがいいところかも-と思える。モデルとなった人物の特殊性と役者たちの頑張りが醸し出した不思議な味わいといえるのでは。

そんな中で救いは、お猿のバブルスよりもボディガードのビルとの年齢を超えた友情か。彼を雇ったときマイケルの因業な父ジョゼフ(コールマン・ドミンゴが好演)が「命がけで守れ」と命じるのが、ラストでビルがジョゼフに吐くセリフに生きてくる。
ここはさりげないながら最も劇的なところ。

他にドラマとしていいところを挙げれば、レコード会社の社長がMTVに電話する場面は-詳しくは書かないけど-演出的に特筆するものはなくとも、内容的に「おお!」と唸った。
やっぱりマイケル、黒人音楽史でも重要人物だよ。

後半に怒涛のように連発される "なりきりライブショー" は、やはり本作のエンタテインメント的な目玉。
既に評判になっている主演ジャファー・ジャクソン(マイケルの甥-というより、ジャーメインの息子!)の頑張りが実っていて、フルスロットルで歌い踊るうちに面影が本物そっくりになっていくのが、胸を打つ。もちろんマイケルの異常にシュッとした体型とは少し違うが、ここまで同じだと違うのもまた良しと言ってしまっていいだろう。生身の別人が懸命にやる無理矢理さもまた、映画の美学なのだ。
そして自分は、子供時代を演じたジュリアーノ・ヴァルディにも拍手を送りたい。"I'l Be There" のライブ・シーンは、素晴らしい臨場感を感じさせた。

あと2~3点。
MVの舞台裏は、"Thriller" よりも "Beat It" で共演したギャングたちとのダンス・リハーサルが断然、面白い。
マイケル周辺の実在の人物があまり出てこないのはやはり物足りないが、グラディス・ナイト&ザ・ピップスの登場は嬉しかった。若い頃のグラディスって、あんな感じだろうなと思った。

続編の噂は聞くが、これはこれでちゃんと完結してると思うので、今のところ特に観たくはないけど公開されたら…うーん、行っちゃうのかなあ?
だってマイケル、そんなに思い入れはないつもりだったけど、やっぱり観たらこれだけ文章、書いちゃうものな。

歌舞伎狂言の向こう側『木挽町のあだ討ち』(2026)

書き下ろしです。

源孝志監督作『木挽町のあだ討ち』(2026)をイオンシネマ板橋で。
少年剣士が大男を討ち取って江戸の話題をさらった仇討ち事件の隠れた真相を探るミステリー時代劇で、世間でも自分の周囲でもえらく評判がいいのだが、なるほど、なかなか面白い。

ふたつポイントを絞ると、まず役者が良い。
主演の柄本佑は素晴らしく、ある種の超越的存在でありながらも輪郭と厚みを備えて、しっかり映画を支えている。今までも優れた成果をあげてきたひとだが、これは代表作になったと言っていいのでは。
渡辺謙も『国宝』(25)以上に良く、沢口靖子との絡みは映画後半の丁度いい場所で「スター同士の芝居を観る醍醐味」を提供してくれる。他の役者も、それぞれに演じ甲斐をもって芝居しているのが強く伝わってきた。

もうひとつは、これは原作(未読)がそうなのかも知れないが、芝居小屋を舞台とした上で、歌舞伎狂言的な設定をうまく消化し、更にその先に行こうとしていること。
武家社会の上層部での事件や謀略があって、優れた配下の者が武士ならではの立場から、自分なり身内なりの命を犠牲にしてしまう悲劇。これは歌舞伎で散々描かれてきた題材で、本作で出てくる「仮名手本忠臣蔵」などにもその要素があるが、首実検のある「菅原伝授手習鑑」の「寺子屋の段」あたりの知識があると、より分かりやすいかと思う。
その上で、そうした「歌舞伎狂言的な武士の悲劇」の「向こう側」を切り拓くトリックを、(町人社会の中でも蔑まれる出自だったり、或いは逆に武家をドロップアウトしたりした)芝居小屋の連中が作り出しているところに痛快さと反逆精神がある。

というわけで充分に楽しめたのだが、全く文句のつけようがない-というわけでもない。個人的にいちばん引っかかるのは、真相が分かってからの段取りが、少々長く感じられてしまったことだ。これは作り手の方々も厄介な問題と自覚されていたと思う。計略が成功するのは、分かってしまっているからね。
「いや、映画ってうまくいくと思っててもハラハラするもんじゃん」と仰る方もいるだろうし、それはよく分かる。でもやっぱり、物語としてハッキリ判明していると、その上で面白く見せるためのハードルは二段も三段も上がってしまうのだ。その味付けがとある重要な「小道具」を巡るウッカリに次ぐウッカリだけじゃ、少々足りない。
例えば「こいつに見つかっちゃいけない」という具体的な相手を、幕府の役人でも、石橋蓮司の手の者でもいいから用意した方が、切羽詰まって良かったんじゃないかなあ…などと思ってしまうが、どうだろうか。まあ、長くも感じないほど登場人物たちに肩入れされた観客の方には、「そっちの方が余計で『長く』なるじゃん!」と、怒られてしまうかも知れないが。
あと、スッキリした幕切れと楽しいカーテンコールの後に流れる自己主張強げな歌は、聴かなかったことにしたい(※注)。

とはいえメイン・タイトル後まもなく柄本が登場し、瀬戸康史と出会って話し込む場面で、江戸っ子たちが何人も何人も何人も目の前を通過するのに、撮影所映画の活気と豊かさが感じられて、嬉しくなってしまった。ここだけですぐに「観てよかった」と思ったものだ。

注:言うまでもなく「自己主張強げ」というのは、歌ってる彼女が自分の芸風に忠実にやってるだけなので、彼女のせいではない。

記録、戦い、詩『Black Box Diaries』(2024)

Facebook 投稿に手を加えたものです。

伊藤詩織監督作『Black Box Diaries』(2024)をキノシネマ新宿で。
本作で扱われている監督自身が被害を訴えている事件に関しては、大きな話題になったのでほとんどのひとが知っているだろう。いまひとつ掴めてないという方には、著書『Black Box』を出した際の日本外国特派員協会での会見の記録(2017年10月24日)や、BBC制作のドキュメンタリー番組の紹介記事(2018年6月29日)などが役に立つと思う。

本作を観て、まずホントに単純な感想だが不同意強制性交は酷いと思った。その上で矛盾するようだが、映画は通り一遍の事件告発ではない。むしろ-ちょっと心配になるほど-よく知らないひとに向けた明快な事情説明は、後回しにされる。
それよりもまず「顔と身分を明かした性犯罪事件の告発者」としての自身の(及び周囲の)記録であることが強調される。タイトルの Diaries とはそういう意味だろう。そして見えてくるのは、対加害者、対世間、対権力、対自分自身…という何重の意味での困難な「戦い」であり、「生きることの発見」へのあがきなのだ。

その過程が一本の映画として成立していく上で、伊藤詩織監督は-誤解を恐れずに言えば-魅力的な被写体であり、それはどこから撮ってもキマるような美人である「事実」に加え、本来はおおらかで正直であろう人柄が表に出ていることにもよる。
この映画はそんな監督自身の自画像とも言えそうだが、その顔は単なる自撮りだけではなく、明らかに他者により(表面的な意味だけではなく)「美しく」撮られてしまっている部分もある。それらが記録を通じた「自身の発見」として現在進行形的に再構成されるのは、刺激的でスリリングだ。いったい誰が本作を観る前に、グローリア・ゲイナーの「恋のサバイバル(I Will Survive)」のメロディを口ずさみながら映画館をあとにする事態を、予想し得ただろうか。

後半の重要なシーンであるホテルのドアマンとの会話で、隣席の兄ちゃんがすすり泣いているのが分かった。ふだん映画で泣いているひとを見て泣くのは抵抗のある自分だが、ここには本物の涙があるように思えた。人間の根本に触れる救いへの涙だ。
その上で重い意味を明らかにする水に散った桜の花びらのイメージ。これもまた涙と見ることは、明らかに単純なセンチメンタルを超えている。
戦って得られた詩は深い。

はじめてのクッチャー兄弟

書き下ろしです。

国立映画アーカイブの特集「アンソロジー・フィルムアーカイブス――アメリカ実験映画の地平へ」で、クッチャー兄弟作品集を観る。

ジョージ&マイク・クッチャーは、ニューヨークのブロンクス生まれの双生児兄弟で、12歳から8ミリで映画作りを開始。友だちを出演者に撮りたいように撮っていたところ、アヴァンギャルド映画の巨人ジョナス・メカスの人脈に加わるようになる。やがて今回も上映されたジョージ監督作『裸のまま抱きしめて』(1966)などはアンディ・ウォーホールにも評価され、その後もエネルギッシュな創作活動を継続(ジョージ監督作は200本にも及ぶ!)。ジョン・ウォーターズデヴィッド・リンチに影響を与える存在となった。なおマイクは健在だがジョージは2011年に亡くなっている。
自分が観に行こうと思ったのは Facebook での佐々木浩久監督の素晴らしい投稿を読んだからだが、そこでも指摘されている「とことん好きなものだけをどんなにチープでもやり遂げる」精神は、8ミリ自主映画出身の身としては他人事とは思えない。ましてやその「好きなもの」の正体が、自分が信じる「娯楽映画」だとしたら…。
会場に駆けつけて上映前に、同じ8ミリ・サークル(早稲田大学シネマ研究会)の後輩、七里圭監督に会ってしまった。「君もクッチャー兄弟って初めてなの?」と問うと、「ええ、面白いらしいですね、最初にダグラス・サークを『面白い』と言ったのは、このひとたちらしいんですよ」と答えて、各々の席にわかれた。

そしてまず始まった一本目の『裸のまま抱きしめて』は15分の短篇。いわゆる「映画制作モノ」だが、主役の監督をも演じるジョージが美人女優の裸を撮りたくて撮っているのが丸わかりで、それがゆえに女優に拒否され、何となく居直る。このあからさまなみっともなさの中に、ダメな自分の告白と、そして(そのことを作者自身は意識してなかったであろうことが素晴らしいのだが)優れた映画作家的資質がドバドバと「ダダ漏れ」してるのが、強烈な魅力になっている。
通常の商業映画の尺度からすれば、全く完成されてないのだ。というか、低予算やプロのスタッフの不在が「完成されること」の足を引っ張っているのだ。しかしそれゆえに、(時に物語の脈絡は後回しにしても)イメージに引っ張られる撮り方、手探りのフィルムつなぎなどに、作家が「映画を生きている」のが生々しく溢れ出る「ダダ漏れ」感に打たれてしまう。
この感じ、日本で言えば、藤原章監督の『ダンプねえちゃんとホルモン大王』(2009)などにもあった。映画史には-筆者の思いつきだが-「ダダ漏れ映画」としか言えないものが存在するのだ。しかも本作の場合は女の裸が、型板ガラスに隔てられたり、濡れた布を通して描かれることで、作者のあがきとエロチシズムの合体した表現になっている。「ダダ漏れ」なれど露骨というわけではないのだ。

二本目の『フレッシュアポイドの罪』(1965・45分)は、マイク・クッチャー監督作品。遥か未来の核戦争後の世界、労働はフレッシュアポイドなるアンドロイドに任せ、人類は快楽を貪るだけの存在となっていた。だがやがて、フレッシュアポイドにも意思が目覚め…という、SFものである。
話だけなら-そして作者の頭の中のイメージも-壮大なのだが、観客が目撃してしまうのは、どこかの風俗店の密室ででも撮ったような狭っ苦しい、安っぽいロケセット撮影である。そのギャップが、作り手の「映画に向かわんとする気分」を、生々しく表出する。展開されているのは精々、おとなの学芸会だが、大真面目なのだ。
そしてここでもまた、商業映画の規範にはまらぬ「思い込みで作られた映画」にしかない強さが、胸を打つ。映画を生きること、型破りな作家の資質が、「ダダ漏れ」してくるのだ。主人公の男フレッシュアポイドの顔と肉体と奮闘ぶり、女フレッシュアポイドとの交情は、強烈な映画の記憶として筆者の脳に刻まれてしまった。また、人間界の「王子」の死に様も低予算なりに涙ぐましく盛り上げられ、小野峻志監督『野球どアホウ未亡人』(2023)のヴィラン重野進の死も、このようであったら…という思いを抱いた。

最後の『私、女優』(1977・10分)は、ジョージ・クッチャーがサンフランシスコ美術学院の講師時代に制作した一篇で、女優志望の学生バーバラのスクリーン・テストを撮ったものだが、これがたいへんにおかしい。
椅子に座った人形(というほどのものではなく、棒を立てかけてカツラを乗せただけかも知れない)を男に見立てて、あらん限りの怒りをセリフに込めてまくしたてるシーンを演らせてみせるのだが。途中から画面に入って演技指導し始めるジョージの漫画的ともいえるオーバーアクトの指導と、我を忘れた熱の入れように、吹き出さざるを得なくなるのだ。実際、バーバラも言われた通りにしつつも、何度も笑ってしまっている。先の2本を観て「これは絶対おかしなひとたちが作っている」と確信していたのが、まざまざと証明されるのだ。
やがてジョージは、セリフを言いながら駄々っ子のように仰向けに寝転ぶことを要求し、その体制で男の顔を蹴飛ばせと言う。しかしそれは、体勢的に不可能なのだ。バーバラも無理だと言う。そして、座り込んでハイヒールで男の顔を殴るのではダメかという、極めて真っ当な提案をする。これはまあ、普通の監督なら「じゃあそれでやってみようか」と言うところである(それ以前に、そもそもそんな要求はしないだろうが)。しかしジョージはあきらめない。自分で寝転んで、「こうだ!」と無理なアクションをやってみせる。見ていて不自然だし、ジョージほど背丈がない(つまり、足の長さもない)バーバラにはできないのだが。
ここにこそ、クッチャー兄弟の映画の魅力の秘密があると思えた。
あれやこれや言って作り込んでいくうちに、イメージが暴走する。「女は仰向けに寝転んで、ついにはそのまま、男の顔を蹴り上げる!」という現実離れした観念のようなものに取り憑かれ、何としてでも実行させ、カメラに収めようとする。
ここには、映画作りの重要な秘密が潜んでいるのではないか。映画が不可能を可能にするとは、派手なスタントやSFXに限らずとも、こういうことではないか。クッチャー兄弟の場合は、不器用にチャレンジして「ダダ漏れ」を見せてくれるのだが、それをみごとにやり遂げる「プロの」監督もいるのではないか。その名は、例えば…

ダグラス・サーク
あのメロドラマの巨匠が、大げさな物語から導き出されたイメージを、役者たちにみごとにやらせて撮ってしまうのは、映画の魔法以外の何物でもない。逆に、サークの映画で起きる事件…例えば『天はすべて許し給う』(1955)でロック・ハドソンが転落するようなのをジョージ・クッチャーが撮れば、どんなになってしまうだろう!
上映が終わって、七里を捕まえて「分かったよ! そりゃあサークが好きだろう、彼らは!」と言いたかったのだが。まずは尿意が我慢できず、トイレを済ませてから探したら、もういなくなっていた。

クッチャー兄弟公式サイト

www.kucharbrothers.org