鑑賞録やその他の記事

妻たちの離婚の旅『女たち』(1939)『パームビーチ・ストーリー』(42)

書き下ろしです。

シネマヴェーラ渋谷で、離婚を決意した妻が旅に出かけるという点で共通するハリウッド黄金時代の傑作コメディを二本。

うちジョージ・キューカー女たち』(1939)は以前、無字幕のを睡眠不足で観たときに眠ってしまった。
こんな風に、どんな傑作だろうが体調・条件によってうまく観られないことがあるのも、自分は評論家にはなれないと思う理由のひとつである(※注1)。今回は体調万全だし、字幕付きなので安心だ。

プレストン・スタージェスパームビーチ・ストーリー』(42)(※注2)に至っては、以前観たはずで場面の感じも何となく記憶にあったのに、今回、初見なことが判明してしまった。
してみると、俺がその映画だと思っていた、倦怠期(だったっけ?)の夫婦が左右対称の構図でリゾート・ホテルのエレベーターを降りたり、回転ドアを抜けたりする映画は何だったんだろう。
いずれにせよ、どちらも今回、映画館で観られて幸せだった。

『女たち』はタイトル通り女性スターのみをズラリ揃えた一篇だが。観ているときの贅沢感で言えば、どこかホークスの『リオ・ブラボー』(59)などの後期作に通じるものがある。メリハリをつけて物語を一直線に語り切ることよりも、シークエンスごと-いや、もっと極端に言えば-カットごとに役者が芝居の「しどころ」を見せてくれるのを、身を浸るようにして楽しめる花形歌舞伎のような贅沢感。
例えば、地味な役回りにも思えたジョーン・フォンテインがいきなり電話の場面で彼女主役のドラマを演じるときの感動。ストーリー的には無くてもいいような場面で酔わせてくれる豊かさがあるのだ。
もちろん主軸となる話の見せ方も凄いところだらけで、特に主人公ノーマ・シアラーがドレスの展示・試着会で夫の浮気相手が来てると聞かされたときの微妙な表情から立ち上がって人の流れを気にせず歩き続けるのは、キューカー監督の技芸の極致。ラストでやり込められた悪役のジョーン・クロフォードが、たった1カットのアップで、「かっこいい退場」を印象付けてしまうのも凄い。
言うならば、初老のアメリカ人夫婦がディナーを終えてから劇場で楽しむような一級の「大人の娯楽」で、終わってから拍手したくなりましたよ。

『パームビーチ・ストーリー』は、クローデット・コルベール演じるヒロインの行動原理がいまひとつ理屈では分かりにくいところに、逆に浮世離れた可愛さがあるのが、実にこの監督らしい。
愛する男と別れることにこだわって、前後の見境なく行動し続けるのに「このひとはこうなんだから仕方ない」と納得するしかない感じ。まるでシェークスピア喜劇を見ているようなお伽噺感だ。
だから夜行列車で、狩猟会が歌い出そうが、クレー射撃を始めようが、ヒロインが顔を踏んづけた男がアメリカ屈指の大富豪だろうが、車掌が独断で客車を切り離そうが、「そういうものだ」と観続けるしかない。そしてパームビーチに到着してからは、物語の主要部分を社交ダンスのシーンだけで展開して見せる語り芸に、舌を巻くしかなくなるのだ。
ラスト近くで大富豪の歌が実に効果的に使われるのは、のちに『殺人幻想曲』(48)という不思議な音楽映画の傑作を撮ったこの監督ならでは。「全て冗談ですよ」と言わんばかりのオチをぶつけてくるのも、大胆さ炸裂で嬉しくなってしまう。ヒロイン以上にスタージェス自身が-時には計算を離れた-「飛び方」ができるのだ。

それにしてもどちらの映画も、あれやこれやの場面転換や活劇的な役者の動きで楽しませながら、すべて解決する局面では、限定的な室内空間に主要登場人物を集めて、余計なものナシのお芝居だけで見せ切ってしまう思い切りの良さに、感服させられるというしかない。
脚本・演出・スターの魅力の全てに自信がないと、やれないことだ。この余裕を、最近の映画でも見ることはできないものだろうか。

注1:これ以外にも、自分には、ちょっとした気分が割と映画の印象を左右してしまうことがある。そういうのを極力抑えて日常的に作品評をこなせるのが、プロの評論家だと思う。じゃなきゃ、単なる映画ライターだ。

注2:1948年の日本初公開時の題名は『結婚五年目』。

プレコード期最後の重要作『紅唇罪あり』(33)

書き下ろしです。

シネマヴェーラ渋谷が9月7日から「プレコード・ハリウッド」なる特集をやるらしい。
ご存知ない方のために書くとここでの "コード" とは、宝塚歌劇のコメディ(※注1)の題材にもなったいわゆる "ヘイズ・コード" のことで。1934年からアメリカ映画製作配給業者協会によって実施された自主規制の条項で、これがために以後60年代ぐらいまでのハリウッド映画は道徳的な見地から性や暴力などの表現が抑えられ、一方で政府や活動団体による過剰な介入への防波堤となったのである。

こんなのが必要だったのは、それだけ以前にカッコ付きの「良識派」から問題視されがちな題材や表現があったということで、"プレコード(=コード実施以前)映画" という言葉はなかなか魅惑的な響きを持つわけだ。
特にその最後期には実施のきっかけと名指しされる作品も複数あって、今回シネマヴェーラで上映される中ではジャック・コンウェイ監督作『赤毛の女』(1932)などそうした一本らしい。

そして当記事で取り上げるアルフレッド・E・グリーン監督作『紅唇罪あり』(33)は『赤毛…』に強い影響を受けた作品と言われ、ヘイズ・オフィスの警告と全国の検閲官からの反発を受けた自主規制的な変更を経ての公開という経緯は、翌年からの全映画へのコード適用という事態につながっていくのである。
シネマヴェーラの特集からは-『赤毛…』と被るからだろうか-洩れてしまったが、こうした歴史的重要性に加えて、何つっても愛すべきミッシーことバーバラ・スタンウィックの若き日の有名作であり、さらには現在、修正前と修正後のヴァージョンが観比べられるので(※注2)、ヘイズ・コード的なものがその黎明期に映画にもたらした変更が具体的に分かる点で、ハリウッド映画好きには見逃せない一本となっているのだ。

現在、国内で公に見ることができるのは修正された公開版で、財布に優しいコスミックの廉価版 DVD ボックス・シリーズに収められている(『一度は観たい! 珠玉の名作映画 愛の終焉』 DVD 10 枚組)。何でもこれが国内初 DVD 化ということで、コスミックは本当にエライ。英語ヒアリングが堪能な方を除き、日本語字幕付きのこれをまず観るのがいいのではないだろうか。自分はそうした。
で、その後に未修正版を観る正当な方法としては、輸入盤の DVD に公開版/未修正版の両方を収めたのがあるので、それを買えばいいのだが。この記事を書いている時点では、"Baby Face 1933" で Google 動画検索したらネット上にごにょごにょ…(※注3)いや、みなまで言いますまい。とにかく自分は観比べることに成功しましたよ。

物語は地方のモグリ酒場の娘で客に売春まがいのことまでやらされていた主人公リリーが、都会に出てきて大銀行に入り込み、"女" を武器に上司を次々と陥落していって、昇りつめていくというもの(※注4)。
明快な劇画タッチともいえるピカレスク・ロマンで、その割り切った不道徳性には痛快ささえ感じる。勢いで書いたようなスピード感あるストーリーは、ダリル・F・ザナックによるもの。将来有望な若手幹部をたらしこみ、その婚約者の父親の副社長まで夢中にさせて、男二人の血みどろのトラブルにまで至る極端な展開は、まるで鶴屋南北だ。

鋭角的なメイクを施したミッシーは湿りすぎないハードな色気で、男に絡むときの目つき、身のこなしに「うわ、これは確かにたまらんな!」と身震いさせられる。
その行動を(原題になってるポピュラー曲『ベビー・フェイス』(Baby Face)ではなく)『セント・ルイス・ブルース』(Saint Louis Blues)が彩っているのが、また映画にある種の調子の良さをもたらしている。
グリーン演出には天才性さえ感じられないものの、モグリ酒場やオフィスなど、人物が多いところで軽快に芝居をさばくのは、さすがサイレントから鍛え上げた職人のわざ。役者にたっぷり芝居させながらお話をテキパキと語ってくれて、飽きさせない。

いま挙げたような良さは全て公開版でも得られることで、それだけ観ても充分に楽しめる映画とはいえる。
しかし未修正版にはさらにそれらの美点にユニークな輝きを与えるような魅力があり、公開版を気に入ったなら、なおのこと観て頂きたいものになっているのだ。

自主検閲によって何が失われたか-最も分かりやすい部分で言えばまずは性と暴力であって、具体的には次のような違いがある。

まず暴力に関しては、リリーが地方議員をビール瓶で殴打する場面、後半の射殺事件で撃たれた男が倒れる場面などが削除されている。特に前者では、直後に地方議員が血まみれな理由が分からなくなってしまう。
性について最も目立つのは、都会を目指して相棒のチコ(テレサ・ハリス)と貨物列車に潜り込んだリリーが鉄道員に見つかってしまい、誘惑してその場で寝てしまうのがバッサリ削除されていることだ。
ここは最初の方の最高のシーンであり、ミッシーの芝居もグリーンの演出も全力で、物語的にも彼女のその後の生き方を決定づける重要性がある。全篇を通してチコが何度も口ずさむ気怠い『セント・ルイス・ブルース』(先に言及したのは劇伴で、こちらは歌なのに注意)も、素晴らしい効果をあげている。

そして性と暴力の表現への変更以上に、さらに興味深く、作品の根幹を揺るがしているのは、その他の "道徳的判断" による変更である。言うならばリリーの "人生哲学" に関わる変更なのだ。

開巻間もなくリリーに人間らしく接してくれる哲学好きの靴職人、クラッグ(アルフォンス・エシア)が登場する。彼がリリーに現世をたくましく生き抜くために吹き込むのがニーチェ哲学で、未修正版には二箇所、背文字のニーチェ著作のタイトルがアップになってその言葉が引用される箇所がある。

まずは、リリーが父親を蒸留所の火事で亡くし、葬儀後にクラッグの家を訪れる場面。
直前までニーチェの著作『力への意思』を読んでいた彼は、頁を指しながら読み上げる。
ニーチェいわく『どんなに理想化したところで人生は搾取そのものである』-これこそ君に言いたいことだ。自分自身を搾取するんだ。都会に出てチャンスを掴め。強く、反抗的であれ。男を利用して欲しいものを手に入れろ!」
そしてリリーは人生に挑戦することを決意する。

二番目は、男を踏み台にして富を手に入れつつあるリリーが、クラッグから送られてきた本を読む場面。
ここでもニーチェの著作『反時代的考察』の書名が明示され、栞が挟まれた頁の一文がクローズアップされる。
「人生をありのままに受け入れよ。恐れるなかれ。空の月に憧れるのは無駄なこと。感傷など打ち砕いてしまえ」
直後、リリーは訪れてきた(彼女に夢中な)若手幹部を、冷たく突き放す。

これらが公開版ではどうなるか。いずれの場面でもニーチェの書名も、それどころかセリフ中の "ニーチェ" という固有名詞も、全く消し去られてしまうのだ。

前者の「クラッグの家」の場面では、彼が読んでいた書名はハッキリせず、頁を指差すカットも削除され、語る言葉はユニークさを欠いた元気づけの説教になっている。
セリフが-単純な削除ではなく-変更された箇所では、喋るクラッグの背後から肩越しにリリーの顔を捉えたカットがあてがわれているが、長さが合わないので、フィルムをつまんでコマが飛んだみたいになってしまっている。苦肉の策、いいところである(※注5)。

後者の「送られてきた本」の場面の変更は、もっと意味が変えられてしまっている。
まずリリーが手にした本の背表紙が映るが、全く別の本だ。一瞬で読みにくいが "STANLEY'S…ARISTIAS……STITUTIO…" などの文字が見え、ニーチェ『反時代的考察』(NIETZSCHE "THOUGHTS OUT OF SEASON")とは別物である。
しかもここでリリーが読むのは本そのものでなく、挟まっていたクラッグからの手紙で、その内容たるや、何と今のリリーの生き方をいさめ、「この本が君を正しく導くことを願う」というものなのだ。とすると、ありきたりな道徳本か何かなのか。
このままでは、前述のように直後に若手幹部を-彼女の今までの生き方に従って-突き放すのとは、調子が合わなくなってしまう。そこで、読んだ直後のリリーに注目してみたい。
未修正版ではフルショットですぐ次の芝居に行くのに対し、公開版ではもう少し寄りのバストショットで表情を見せた上、芝居の間もたっぷりとられている。恐らく別テイクなのだろうが、その方がクラッグのお説教に憮然とした上で、反抗的に今の生き方を貫こうとしているように見える-という判断があったのだろう。

それにしてもなぜ、ここまでニーチェ要素が削除されるのか。こんな俗っぽくエロチックな話にニーチェが出てくるのが、面白いところなのに!
もちろん "身体を使って男を利用しどんどん這い上がること" を肯定する教えとして-少なくとも映画の中では-使われていることも問題なのだろうが。しかし、教え自体にエロスへの直接的な言及はない。
ここはやはり、"ニーチェを扱うこと自体" が大問題なのではないか。
キリスト教道徳の価値観からすると、神の死を宣告したニヒリストのニーチェなど悪そのもので、映画を観たひとが著作に興味を持つ可能性を消し去りたかったのだろう。30年代アメリカ映画における自主検閲には、このような-キリスト教的に許容できない哲学を排除する-方向性もあったことは、覚えておいていいのかも知れない。

さて他には、誰が観比べてもすぐに気がつくのに、ラストの変更がある。
公開版ではリリーはその後、慎ましく貧しい生活を送るであろうことが、はっきり示されている。これは確かに大きな変更ではあるが、未修正版でも彼女は物欲まみれの生活を捨てるかも-という印象が残る。多少なりとも世間に妥協した終わり方に感じたので、個人的には決定的な変更とは思えない(それでも未修正版のスパッとした終わり方の方が良いが)。

それよりもっと、「これ、監督は悔しかったろうな」と思わせる変更箇所がある。
ラスト直前、リリーは若き頭取コートランド(ジョージ・ブレント)から経済的援助を求められるが、見限ってフランスへの客船に乗り込む。客室でリリーは、後ろ髪引かれる思いの中、レコードをかける。流れる『奥様、お手をどうぞ』(I Kiss Your Hand, Madam)。
ここで未修正版では、回転するレコードの盤面にこれまで渡り歩いた男たちの顔が次々とオーバーラップするのだ! その上で最後にコートランドの顔が浮かび、「君は何人もの男を知ってるんだろう。でも関係ないさ。俺は君が好きだし、いつか君の心を掴んでみせる」という声が重なって、リリーは戻る決意をするのである。
今までの人生を振り返ったうえでの翻意を視覚化した秀逸な演出だ。
ところが公開版では、コートランドの顔だけが浮かんでセリフも重ならず、それだけでリリーは戻る決意してしまうのだ。不道徳な男遍歴の印象を薄めるための変更だったのだろうが、映画として重要な見せどころが失われてしまったと言わざるを得ない。

以上が未修正版と公開版のざっと見た大きな違いで、他にもセリフやカットの長さなどで細かい変更がいろいろあると思う(※注6)。いずれにせよ、その後のアメリカ映画全体に及ぶ性・暴力・道徳の自主規制を考えるには、興味深い題材ではないだろうか。
何にせよ、ここでのミッシーの男社会を手玉に取る女一匹ぶりは、魅惑的な輝きを見せている。それが充分に味わえるのは未修正版の方であることは、間違いない。

注1:『ヘイズ・コード』 | 星組公演 | 日本青年館大ホール | 宝塚歌劇 | 公式HP

注2:未修正版は公開から70年以上を経た2004年に発見され、同年のロンドン映画祭で上映された。

注3:さらに検索語に "ok.ru" と付け加えると…。

注4:陥落する男たちの中には、若き日のジョン・ウェインもいる。

注5:この場面の手を尽くした変更は、編集テクニック的には興味深い。

注6:例えば、都会に出てきたチコとリリーがレストランの窓から中を覗き、チコが「ポークチョップ食べたい」と言うのに、リリーが「気の持ちようよ、昨日、食べたよね?」と返すところがカットされているのだが、今ひとつ理由が分からない。ポークチョップに性的な意味があるのか?

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黒沢清の風に吹かれて/立教大学での公開講演会

書き下ろしです。

さる7月27日の土曜日、池袋の立教大学タッカーホールの公開講演会「映画人との対話 VOL.2 ~映画監督・黒沢清氏を迎えて~」に行ってきた。司会進行は同大学の現代心理学部映像身体学科で教鞭をとる篠崎誠監督。
これが隅々まで映画キッド "しのやん"(SHINOYANG≒SHARING)の黒沢監督への愛と尊敬に満ち満ちた素晴らしいイベントで、ライブという一回性の中で身体いっぱいに映画を詰め込まれたような幸福感に満たされて、会場を後にすることができた。

オープニング、フランスの芸術文化勲章を黒沢監督が受賞したのを称える同国映画人たちのメッセージビデオが次々と流れ、特にレオス・カラックス監督の凝りに凝ったユーモラスでカッコいい "新作" にはニヤニヤさせられた。

本題に入ってからは講演会というより篠崎✕黒沢のトークショー形式。
同大学が黒沢監督の母校で蓮實重彦に映画を学んだ場というところから「大学で映画を教える=学ぶ」が、たっぷりと語られる。

まず黒沢監督の若き日の "蓮實体験"、そして映画美学校で自らが先生として映画をどのように教えたか。特に後者では『ジョーズ』(1975)『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(85)など超有名映画の一場面を使って、映画の嘘と本当(というか、本当にやってしまってることを撮ること)について語って、観客の興味をぐいぐい惹きつけていった。ここで黒沢映画の3作の場面紹介につなげていくのは、しのやんの見事さ。

その後、スクリーンでは滅多に観られぬ短篇作品の上映と、新作(といっても、上映中のフランス映画版『蛇の道』(2024)から、近日公開の『Chime』(24)『Cloud クラウド』(24)と3本もある!)に関するトークに繋げられていくわけだが。
中でも上映作二本-Amazon Primeの『彼を信じていた十三日間』(『モダンラブ・東京~さまざまな愛の形~』(22)の一話)と『Actually』(22・乃木坂46のMV)-を観ているうちに自分なりに様々な想いが起き、それらによって直後のトークから受ける印象が変化したのが得難い経験だった。

まずは『彼を…』で、オフィス内の人物が椅子に乗ったまま滑車で移動するのに「ああ、これは『もだえ苦しむ活字中毒者 地獄の味噌蔵』(1990・テレビ作品)でも観たやつだ」と思い出し。そのまま『Actually』に "入ったら出られない古いスタジオ" が出てきたとき、「ああ、これはあの味噌蔵そのままではないか」と動揺する(と書くと『味噌蔵』未見の方も推測してもらえると思うが、入ったら出られない魔の味噌蔵の話なのである)。
その上で『Actually』の方ではヒロインはあっさり脱出してしまい、建設中のビルを高方へ高方へ、都市の空に向かって開放された場所に登っていくのに、「おおそうだ、黒沢監督は初期は『味噌蔵』のみならず『スウィートホーム』(89)『地獄の警備員』(92)で人物たちを-規模の大小はあれ-密室に閉じ込める作家だったのに、ある時期から簡単に閉じ込めてくれない作家になったのではないか」と、思い至るようになる。
例えば『クリーピー 偽りの隣人』(2016)には脱出しても逃れ得ぬ恐怖があり、『スパイの妻〈劇場版〉』(20)の主人公は箱から出されたときや病棟から外に踏み出したときに地獄に向かい、フランス映画版『蛇の道』で監禁する建物のドアはなぜか不用意に開け放たれてしまう。

ここで『彼を信じていた十三日間』に話を戻そう。これは仕事一筋の中年ヒロインの前にまるで流れ者のような生活感の無い男が現れ、最終的には幽霊だった(と思われる)という話である。とはいえあまりにも普通にそこにいる人間のように思われ、そこがこの作品の "趣向" なわけだが。
トークで篠崎監督に「彼はどこから幽霊になったんですか」と訊かれた黒沢監督は、お話的には分かりやすい転換点を示して「このあたりのつもりです」と解説してくれたが(とはいえ、「強いて言えばこのあたり…」ぐらいのニュアンスかと思ったが)。実は観ていてかなり早い段階から「あれ、こいつ、幽霊?」と思わせられたのであった。
観たひとにしか分からない話で申し訳ないが、ロングショットで電話番号を教えるところで、早々とこの世のものではない印象を受けたし、その後 "転換点" に差しかかる前に男はヒロインの部屋をペンキで塗り替えるのである。となると、どうしても街をペンキで塗り替えてしまったクリント・イーストウッド荒野のストレンジャー』(1973)の "幽霊らしからぬ幽霊" を思い出してしまうではないか。黄色と赤の違いはあるが。

それはともかく、このような幽霊らしからぬ幽霊を扱うようになったことについて、黒沢監督は、年齢を重ねるにつれ生と死の境目があいまいになってきたという意味の発言をされた。
この感覚は自分も最近、分からんでもないのだが、『Actually』でも感じた密室の無効化と響き合う。とりあえずは "越境" という言葉を使ってしまえばいいのだろうか。いや、そんな言葉を使ってしまえるほど開放的なものではないことは、あの世がこの世を侵食するあの恐ろしい『回路』(2001)を観た時点で分かっていたのではないか。
となると、密室は機能しない方が恐ろしいのである。

今やどこにいても感染の危険にある世界の中で、黒沢清監督の映画はこれからも境目をあいまいにし続け、新しいDOORを開け続けるだろう。どうせ恐ろしく危険であるならば、映画の旅を、冒険をどこまでも見せてもらおうではないか。

そんな思いに胸を熱くしていると、さすがはしのやん、イベントの最後にこれまでの黒沢映画を "風" というテーマでつないだ映像を観せてくれた。
画面に示される風は異なる映画でも音声をダブらせて編集することで、映画から映画へと吹き渡っていくように感じられる。もはやそこに境目はない。そして我々もまた、黒沢的な風に身を晒すばかりなのだ。
ただ単に "黒沢監督への愛情" などという言葉で閉じてしまわない、"同時代に映画を生きること" をまず自身が引き受けた上で、その場にいた全員にも求めるような見事な締めくくりで、感動した。

そして当の黒沢監督といえば、四分の一世紀前の自作を、平気で国境を超えてリメイクしてしまっているのだ。越境という言葉の身軽さは、むしろ監督自身に当てはまるものだろう。
こうなると、『蛇の道』(1998)を世界中でリメイクしてもらいたい気分にもなるってものだ。とりあえずはアメリカでイーストウッド老を主演に迎え、『蛇の道・孫』とか、どうだろうか。ぜひ観たいものである。

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「彼を信じていた十三日間」

キャプラ&ミッシーの傑作『奇蹟の処女』(31)

書き下ろしです。

フランク・キャプラ監督作品で観た中で最高に好きな『奇蹟の処女』(1931)がスクリーンで観られるので、いそいそと同監督特集中のシネマヴェーラ渋谷へ。もちろん若きミッシーことバーバラ・スタンウィックの魅力を堪能する目的もある(※注1)。

ミッシー演じる主人公フローレンスは、誠実な牧師の父が教会組織に見放されたまま死を迎えたことに憤慨し、会衆の前で怒りの演説をぶつ。その姿にある素質を見出したマネージメント業の男は、彼女を人気伝道師 "シスター・ファロン" に仕立て上げ、インチキな芝居がかった宗教ビジネスで富を得ていく。やがてフローレンスは、若き盲目の退役軍人ジョンと出会い、偽りに満ちた教祖の衣を捨て去ろうとするのだが…。

アメリカで宗教のみならず政治的な影響力も持つ "メガチャーチ"(※注2)の初期の代表的人物エイミー・センプル・マクファーソンの人生にヒントを得ているらしいが、カリスマ化した教祖が動かす宗教と金の問題は現代の日本にも見られるものだ。その意味では決して古びないテーマで、驚きをもって観るひとも多いのではないだろうか。

ミッシーは冒頭の演説からフルスロットルで、燃える目力、全身での芝居に加え、本作では彼女ならではの "声" をたっぷり聞かせてくれる。伝道師としてのショーを始めてからの決まり文句「ハレルヤ!」など、強烈に耳に残る。これは映画館で「聞く」醍醐味でもある。
その上で、彼女の芝居の最大の見せどころを、無言劇で演り切らせるのだから、さすがはキャプラと唸るしかない。ジョンとの別れの日のショーの直前、楽屋でマネージャーがスタッフに発破をかける中、ひとり黙って耐えながらメーキャップをする芝居の凄まじさ!

もちろんこの監督らしい工夫とユーモアはあって、フローレンスがジョンの部屋で暖かなひとときを過ごすときに、ジョンが腹話術で操る人形を使って距離を縮めていくのなど、うまいものだ。こうしたシーンでひとりの "少女" にかえった主人公のアップに踏み込むタイミングもいい。ジョンのアパートの大家さんの活気と善意に満ちた人物像は、キャプラのみならず古くからのアメリカ映画の伝統ともいえる美点だ。
ソフトな部分もたっぷり見せる緩急自在の演出があってこそ、クライマックスの大火事が物凄い盛り上がりを見せるのだ。
他にもフローレンスが最初にマネージャーに口説かれる場面の充実した室内演出や、ドラマチックな雨の夜の出会い(正確には再会)、ジョンの "目の見えるふり作戦" の涙ぐましさなど、見どころの連続である。

それにしてもフランク・キャプラといえば、ヒューマニズムとかハートウォーミングとかで語られがちであるが、本作や-同じくミッシーがヒロインの-『群衆』(41)などを観れば、安直に誤った方向に突き進む民衆への皮肉な眼があるのが分かる。貧しいイタリア系家族に生まれたキャプラは、人間社会の汚さ・愚かしさを見てきたのだろう(※注3)。

一方で、だからこそ、ヒューマニズム全開の作品になると、心震えることもある。「これはありえない」と分かってる人間が、それでも心を込めて作らざるを得ない切実さが、感動を呼ぶのだ。
その代表的な一本には、『我が家の楽園』(38)を挙げておきたい。ここには『失はれた地平線』(37)以上に涙を誘う "理想" の幻がある。

注1:バーバラ・スタンウィックフランク・キャプラがよく組んだ女優であり、今回(2024年7月13日~8月9日)のシネマヴェーラのキャプラ特集では、"キャプラ女優" としてのスタンウィック、ジーン・アーサーの魅力がたっぷり味わえる。

注2:カリスマ伝道師がコンサートホールのような教会に大会衆を集めてショーアップされた布教活動をするもので、アメリカでの現状についてはこちらの記事に詳しい。【なぜ米国でメガチャーチが増えているのか? 記事と動画で見る「キリスト教保守派のリアル】日経ビジネス/篠原匡 2018.3.23

注3:バーバラ・スタンウィックも非常に貧しい境遇から成り上がった人間であり、こうした面でもキャプラの心に触れるところがあったのかも知れない。

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奇蹟の処女(字幕版)

胸を打つ傑作『空に聞く』(2018)

書き下ろしです。

今年の3月、以前観た『息の跡』(2015)が素晴らしかった小森はるか監督の新文芸坐での特集に出かけ、『空に聞く』(2018)『かげを拾う』(2021)を観た。いずれも初見だが、特に前者がかなりの傑作で、驚き、心奪われてしまった。

小森監督は東日本大震災後の陸前高田に拠点を構え、さまざまなドキュメンタリーを作り続けているわけだが。ここでの主人公は、震災後にFM局のパーソナリティとなり、小さなスタジオでマイクに向かってアナウンスしたり、外に出かけて人々のナマの声を取材するなどして、番組を発信し続けてきた阿部裕美さん。

この阿部さんが、とても美しい。映画の美人女優みたいに美しいという意味ではなくて(いやいや、美人ではあるのだが)、控え目でありながらもどうしてもにじみ出てしまう人間としての魅力が映像に刻みつけられている。撮影している小森監督が「このひとは美しい」という思いを寄せているのが画面を充実させ、その思いが空回りにならぬほど、阿部さんが魅力的なのだ。

そして阿部さんがラジオの取材等で関わる人々の表情や喋りも、「生き生きと捉えられてる」…などという言葉では済まされないほど迫ってくるものがあるし。『息の跡』でも思い知った実景ショット(という言い方はドキュメンタリーでも当てはまるのかな?)の美しさは息を呑むほどだ。

特にきらびやかな山車を人力で動かす祭りの夜と、真昼の連凧の場面は強い印象を残す。理屈抜きに美的に胸を打つのはもちろんだが、作品の主題的にも、地を這うように動く山車と、連凧の揺れる突き抜けるような空の両方が描かれることに、深い意味があることを感じとる。
祭りは今なお大地に生きる人々の、空へ昇った死者の魂へのメッセージなのだ。そうした意味を観客は阿部さんの言葉を通じて知りうるのだが、このときの阿部さんの真摯さがまた感動的である。

結局、阿部さんのラジオ・パーソナリティ生活は突然、終わりを迎えるのだが。その後の食堂で働く姿は、映画の本題からはすでに離れているはずなのに、なおも美しく、目を惹き続ける。それはまさに阿部さんが、恐ろしい破壊と多くの死をもたらした震災の現実を経て、そして、その後のパーソナリティの日々を経て、「現在」を生き続ける姿だからであり。さまざまな体験を経てなお「生きる」ことを見つめるのが、この映画なりの責任をもったあり方だからだ。
そしてまた、いまを生きざるを得ない観客にも、この映画に触れたことが貴重な体験として残るのだ。

なお、『かげを拾う』の方も、見応え充分なドキュメンタリーである。震災後のゴミの中からアートの素材を拾い集め、ちょっととんでもない感じの作品を作る青野文昭さんの生き方、小森監督の捉え方は、非常に興味深く、"面白い"。

お気楽映画『恋するプリテンダー』(2023)

書き下ろしです。

アメリカ映画のがっつり肉食系ラブコメでも観るかと、いかにもそれっぽいウィル・グラック監督作『恋するプリテンダー』(23)へ。ヒロインがローリング・ストーンズの『アングリー』のMVで元気にセクシーさを振りまいていたシドニー・スウィーニーというのも、期待ポイントだ。

物語は、誤解がもとで反目し合う仲になった男と女が、なりゆきでオーストラリアで開かれる女の姉の結婚式(同性カップルという設定)に出席。あれこれ事情が重なって恋人のフリをすることになるのだが…というもの。
もちろんやがては本当に愛し合うのが映画のゴールで、それまでの二転三転を楽しむという、まあラブコメらしいラブコメだ。
男の方は『トップガン マーヴェリック』(22)でパイロットのひとり "ハングマン" 役を演じたグレン・パウエル。シドニーとともにアメコミから抜け出たみたいな大味にセクシーな肉体を、晒しまくってくれる。

冒頭(タイトル前)のふたりが出会って、いちどは結ばれて、憎しみ合うまで…の流れがいい。
さまざまな趣向を散りばめつつ、キャラクターをみごとに活写し、弾むような気持ちいいテンポで見せてくれる。脚本もすごく考え抜かれており、娯楽映画にとって「ツカミはOK」というのがどんなに大事かを教えてくれる。

だが、本題に入ってからは、最初の快調さは持続しない。
ふたりが反目しあっているのをそれほど面白く見せてはくれないし、ストーリーを語っていく上での「これはどうなるんだろう?」というサスペンス感もいまひとつだ。主役以外のキャラクターも役者たちも、好感は持てるのだが、思わず身を乗り出すほどの魅力には欠ける。

だがまあ、観る前に期待した程度の面白さを下回ることはないし、からっとした明るさを保ったまま、「そこそこ」の面白さを維持したシーンの連続で楽しませてはくれる。
傑作ではないことが確定してからも、「これはこれでいいじゃないか」とお気楽に、並のエンタテインメントに身をゆだねるのも、映画の楽しみのひとつだ。

そんな中で盛り上がってくるのは、大型クルーザーでの船上パーティになってからで、ふたりは「付き合い始めた初々しいカップル」を演じるために、船首で今どき誰もやらない『タイタニック』(1997)ごっこを演じてみせる。この時点でもうヒロインが海に落ちるのが予想されるわけだが、そのタイミング、落ち方がなかなかいい。
それからの展開はもっと良くて、「こうくるか!」という感じで一気にノセられてしまう。
ラブロマンスとしては(『タイタニック』の「飛んでる」を踏まえたような)視覚的に最高の趣向を用意してるし、飛行機の中で聞こえた音楽の伏線も回収しつつ、(オーストラリア観光映画としては)背景のシドニー・オペラハウスを生かしてみせて、心憎いことこの上ない。ここでしっかり「この映画、観た甲斐があったじゃないか」と思わせてくれるのだから、商品としてしっかりしてると言わざるを得ない。

その後、もうひと波乱あって、ラストにはもうひとクライマックスあるのだが、ここは先ほどの海に落ちてからほどは盛り上がらない。
しかしまあ、そこそこ派手で楽しく、そこからなだれこむフィナーレは、原田知世主演の『時をかける少女』(83)のエンドクレジットを思い出させる祝祭性に満ちたものだ。とりあえず、いい感じに頬緩めて映画館を後にすることができた。

しかしまあ、すぐに忘れるだろうな。そこがまたいいところなんだけどね。
ちなみに IMDb のトリヴィアによると、シェークスピアの『から騒ぎ』を踏まえてる部分が多いとのこと。読まなきゃ。