鑑賞録やその他の記事

記録、戦い、詩『Black Box Diaries』(2024)

Facebook 投稿に手を加えたものです。

伊藤詩織監督作『Black Box Diaries』(2024)をキノシネマ新宿で。
本作で扱われている監督自身が被害を訴えている事件に関しては、大きな話題になったのでほとんどのひとが知っているだろう。いまひとつ掴めてないという方には、著書『Black Box』を出した際の日本外国特派員協会での会見の記録(2017年10月24日)や、BBC制作のドキュメンタリー番組の紹介記事(2018年6月29日)などが役に立つと思う。

本作を観て、まずホントに単純な感想だが不同意強制性交は酷いと思った。その上で矛盾するようだが、映画は通り一遍の事件告発ではない。むしろ-ちょっと心配になるほど-よく知らないひとに向けた明快な事情説明は、後回しにされる。
それよりもまず「顔と身分を明かした性犯罪事件の告発者」としての自身の(及び周囲の)記録であることが強調される。タイトルの Diaries とはそういう意味だろう。そして見えてくるのは、対加害者、対世間、対権力、対自分自身…という何重の意味での困難な「戦い」であり、「生きることの発見」へのあがきなのだ。

その過程が一本の映画として成立していく上で、伊藤詩織監督は-誤解を恐れずに言えば-魅力的な被写体であり、それはどこから撮ってもキマるような美人である「事実」に加え、本来はおおらかで正直であろう人柄が表に出ていることにもよる。
この映画はそんな監督自身の自画像とも言えそうだが、その顔は単なる自撮りだけではなく、明らかに他者により(表面的な意味だけではなく)「美しく」撮られてしまっている部分もある。それらが記録を通じた「自身の発見」として現在進行形的に再構成されるのは、刺激的でスリリングだ。いったい誰が本作を観る前に、グローリア・ゲイナーの「恋のサバイバル(I Will Survive)」のメロディを口ずさみながら映画館をあとにする事態を、予想し得ただろうか。

後半の重要なシーンであるホテルのドアマンとの会話で、隣席の兄ちゃんがすすり泣いているのが分かった。ふだん映画で泣いているひとを見て泣くのは抵抗のある自分だが、ここには本物の涙があるように思えた。人間の根本に触れる救いへの涙だ。
その上で重い意味を明らかにする水に散った桜の花びらのイメージ。これもまた涙と見ることは、明らかに単純なセンチメンタルを超えている。
戦って得られた詩は深い。

はじめてのクッチャー兄弟

書き下ろしです。

国立映画アーカイブの特集「アンソロジー・フィルムアーカイブス――アメリカ実験映画の地平へ」で、クッチャー兄弟作品集を観る。

ジョージ&マイク・クッチャーは、ニューヨークのブロンクス生まれの双生児兄弟で、12歳から8ミリで映画作りを開始。友だちを出演者に撮りたいように撮っていたところ、アヴァンギャルド映画の巨人ジョナス・メカスの人脈に加わるようになる。やがて今回も上映されたジョージ監督作『裸のまま抱きしめて』(1966)などはアンディ・ウォーホールにも評価され、その後もエネルギッシュな創作活動を継続(ジョージ監督作は200本にも及ぶ!)。ジョン・ウォーターズデヴィッド・リンチに影響を与える存在となった。なおマイクは健在だがジョージは2011年に亡くなっている。
自分が観に行こうと思ったのは Facebook での佐々木浩久監督の素晴らしい投稿を読んだからだが、そこでも指摘されている「とことん好きなものだけをどんなにチープでもやり遂げる」精神は、8ミリ自主映画出身の身としては他人事とは思えない。ましてやその「好きなもの」の正体が、自分が信じる「娯楽映画」だとしたら…。
会場に駆けつけて上映前に、同じ8ミリ・サークル(早稲田大学シネマ研究会)の後輩、七里圭監督に会ってしまった。「君もクッチャー兄弟って初めてなの?」と問うと、「ええ、面白いらしいですね、最初にダグラス・サークを『面白い』と言ったのは、このひとたちらしいんですよ」と答えて、各々の席にわかれた。

そしてまず始まった一本目の『裸のまま抱きしめて』は15分の短篇。いわゆる「映画制作モノ」だが、主役の監督をも演じるジョージが美人女優の裸を撮りたくて撮っているのが丸わかりで、それがゆえに女優に拒否され、何となく居直る。このあからさまなみっともなさの中に、ダメな自分の告白と、そして(そのことを作者自身は意識してなかったであろうことが素晴らしいのだが)優れた映画作家的資質がドバドバと「ダダ漏れ」してるのが、強烈な魅力になっている。
通常の商業映画の尺度からすれば、全く完成されてないのだ。というか、低予算やプロのスタッフの不在が「完成されること」の足を引っ張っているのだ。しかしそれゆえに、(時に物語の脈絡は後回しにしても)イメージに引っ張られる撮り方、手探りのフィルムつなぎなどに、作家が「映画を生きている」のが生々しく溢れ出る「ダダ漏れ」感に打たれてしまう。
この感じ、日本で言えば、藤原章監督の『ダンプねえちゃんとホルモン大王』(2009)などにもあった。映画史には-筆者の思いつきだが-「ダダ漏れ映画」としか言えないものが存在するのだ。しかも本作の場合は女の裸が、型板ガラスに隔てられたり、濡れた布を通して描かれることで、作者のあがきとエロチシズムの合体した表現になっている。「ダダ漏れ」なれど露骨というわけではないのだ。

二本目の『フレッシュアポイドの罪』(1965・45分)は、マイク・クッチャー監督作品。遥か未来の核戦争後の世界、労働はフレッシュアポイドなるアンドロイドに任せ、人類は快楽を貪るだけの存在となっていた。だがやがて、フレッシュアポイドにも意思が目覚め…という、SFものである。
話だけなら-そして作者の頭の中のイメージも-壮大なのだが、観客が目撃してしまうのは、どこかの風俗店の密室ででも撮ったような狭っ苦しい、安っぽいロケセット撮影である。そのギャップが、作り手の「映画に向かわんとする気分」を、生々しく表出する。展開されているのは精々、おとなの学芸会だが、大真面目なのだ。
そしてここでもまた、商業映画の規範にはまらぬ「思い込みで作られた映画」にしかない強さが、胸を打つ。映画を生きること、型破りな作家の資質が、「ダダ漏れ」してくるのだ。主人公の男フレッシュアポイドの顔と肉体と奮闘ぶり、女フレッシュアポイドとの交情は、強烈な映画の記憶として筆者の脳に刻まれてしまった。また、人間界の「王子」の死に様も低予算なりに涙ぐましく盛り上げられ、小野峻志監督『野球どアホウ未亡人』(2023)のヴィラン重野進の死も、このようであったら…という思いを抱いた。

最後の『私、女優』(1977・10分)は、ジョージ・クッチャーがサンフランシスコ美術学院の講師時代に制作した一篇で、女優志望の学生バーバラのスクリーン・テストを撮ったものだが、これがたいへんにおかしい。
椅子に座った人形(というほどのものではなく、棒を立てかけてカツラを乗せただけかも知れない)を男に見立てて、あらん限りの怒りをセリフに込めてまくしたてるシーンを演らせてみせるのだが。途中から画面に入って演技指導し始めるジョージの漫画的ともいえるオーバーアクトの指導と、我を忘れた熱の入れように、吹き出さざるを得なくなるのだ。実際、バーバラも言われた通りにしつつも、何度も笑ってしまっている。先の2本を観て「これは絶対おかしなひとたちが作っている」と確信していたのが、まざまざと証明されるのだ。
やがてジョージは、セリフを言いながら駄々っ子のように仰向けに寝転ぶことを要求し、その体制で男の顔を蹴飛ばせと言う。しかしそれは、体勢的に不可能なのだ。バーバラも無理だと言う。そして、座り込んでハイヒールで男の顔を殴るのではダメかという、極めて真っ当な提案をする。これはまあ、普通の監督なら「じゃあそれでやってみようか」と言うところである(それ以前に、そもそもそんな要求はしないだろうが)。しかしジョージはあきらめない。自分で寝転んで、「こうだ!」と無理なアクションをやってみせる。見ていて不自然だし、ジョージほど背丈がない(つまり、足の長さもない)バーバラにはできないのだが。
ここにこそ、クッチャー兄弟の映画の魅力の秘密があると思えた。
あれやこれや言って作り込んでいくうちに、イメージが暴走する。「女は仰向けに寝転んで、ついにはそのまま、男の顔を蹴り上げる!」という現実離れした観念のようなものに取り憑かれ、何としてでも実行させ、カメラに収めようとする。
ここには、映画作りの重要な秘密が潜んでいるのではないか。映画が不可能を可能にするとは、派手なスタントやSFXに限らずとも、こういうことではないか。クッチャー兄弟の場合は、不器用にチャレンジして「ダダ漏れ」を見せてくれるのだが、それをみごとにやり遂げる「プロの」監督もいるのではないか。その名は、例えば…

ダグラス・サーク
あのメロドラマの巨匠が、大げさな物語から導き出されたイメージを、役者たちにみごとにやらせて撮ってしまうのは、映画の魔法以外の何物でもない。逆に、サークの映画で起きる事件…例えば『天はすべて許し給う』(1955)でロック・ハドソンが転落するようなのをジョージ・クッチャーが撮れば、どんなになってしまうだろう!
上映が終わって、七里を捕まえて「分かったよ! そりゃあサークが好きだろう、彼らは!」と言いたかったのだが。まずは尿意が我慢できず、トイレを済ませてから探したら、もういなくなっていた。

クッチャー兄弟公式サイト

www.kucharbrothers.org

エルンスト・ルビッチ✕ジェニファー・ジョーンズ『小間使』(1946)

書き下ろしです。

シネマヴェーラ渋谷エルンスト・ルビッチ監督特集で、単独監督としては最後の作となる『小間使』(1946)を観る。
1938年のイギリスを舞台に、貧しい娘が小間使として雇われた上流階級の家で常識外れの行動で疎まれながらも、幸せを掴んでいく話。階級社会への風刺の効いたコメディで、ヒロインの得意技が配管修理というのが趣向になっている。

注目はルビッチと主役ジェニファー・ジョーンズの組合せ。
個性的な美人さんだがシリアス系の役柄が多く、ルビッチ的コメディエンヌにしてはしっとり系過ぎるかな…とも思っていたが。基本、巧いひとだけあって、世間知らずで天真爛漫な少女の魅力を存分にみせる。何かにつけワクワクしてるように見えるのだが、やり過ぎギリギリのところで空回りさせず映画全体の面白さに昇華していく演出はやはり超絶。
役者を扱うさじ加減が魔法のようだ。

男主人公の方のシャルル・ボワイエも素晴らしいのだが、ふたりが出会う冒頭の手応え十分のコメディ・シーン、ここではもうひとりの主人公に思えるエイムズ氏(レジナルド・ガーディナー)がその後は全く出てこなくなる潔さ、贅沢さ。これはヒロインが汽車で出会うおじいちゃん大佐(チャールズ・オーブリー・スミス)の使い方にも共通。
ことさら絢爛豪華を装わなくても、作っている気持ちが贅沢なのだ

ジェニファー以外のサブ・ヒロインとしては、モテモテの金持ちのお嬢さんが登場。知的で世慣れた感じは、『生きるべきか死ぬべきか』(42)『生活の設計』(33)等のヒロインの雰囲気に通じて、ジェニファーとは好対照。
んで、このヘレン・ウォーカーが凄く良いのだ。
部屋に入ってきたボワイエを追い出すために、ベッドで本を手にしたまま無表情で叫び声をあげてみせるところなど、最高。このひと、ジョセフ・H・ルイス監督の『暴力団(ビッグ・コンボ)』(55)ぐらいしか観てないけど(しかもメインのヒロインじゃなかったので覚えてないんだけど)、こんなに良かったんだ。精神分析医が当たり役という『悪魔の往く町』(47)や我が贔屓エラ・レインズと共演した『狂った殺人計画』(49)も観なくては。
んで、しばらくウォーカーのエピソードで引っ張って、ジェニファーの影が薄くなりそうなところから一気に巻き返す呼吸が、また心憎いのよ。

ラストは『昼下りの情事』(57)みたいになるのかな、と思ったけど、よりさりげなく展開しつつ、おとぎ話みたいに終わって幸せな気分。
そこに至るまで、各シーンにサスペンスが効いてるのは、流石と唸るコメディ作りのみごとな手本。ボワイエの(今で言うところの)ピンポン・ダッシュみたいな小ネタも、楽しい味付けだ。

現代の戦争映画『ランド・オブ・バッド』(2024)

書き下ろしです。

ウィリアム・ユーバンク監督作『ランド・オブ・バッド』(2024)を観る。久々にハードなアメリカ製戦争映画で、手応え充分だ。

テーマはアメリカ軍特殊部隊デルタフォースの4人組による、南アジアの過激派ゲリラの巣食う島に捕らえられた諜報員の侵入救出作戦。これが思わぬ展開から、4人組の中の最も若い新米兵キニー(リアム・ヘムズワース)の救出劇に転じる。
そこで活躍するのが、アメリカ本土の空軍基地からの通称 "リーパー" 大尉(ラッセル・クロウ)による通信システムを駆使した情報交換と無人爆撃機の遠隔操作だ。ここに現代の戦争映画ならではの妙味がある。

始まってすぐの4人で飛行機で島に向かうところからキニーの緊張が的確に伝わり、島にパラシュート降下する頃には観ているこちらも「いよいよだな!」と思ってしまう(ちなみに機内で今どき珍しいベタな死亡フラグがあり、「これは大変なことになるぞ」という予感はさせられる)。
そして降り立った海の夜明け前ギリギリのシルエット撮影の美しさ、密林をカメラが上からパンダウンすると4人が行軍する後ろ姿になる戦争映画らしいショットに、まんまと乗せられてしまうのだ。

それからの展開は常に距離によるサスペンスがキープされ続ける。その徹底ぶりがいい。
空軍基地と島との距離、4人が敵アジト近くに到着してからの(双眼鏡で覗く)アジトまでの距離、無人爆撃機と4人の距離…特に最後のでは、4人が敵交戦中に爆撃を要請しても撃ったミサイルが届くまで20秒なり30秒なりがかかる。そのわずかな時間が長く感じるのが、迫真さを生む。距離から時間のサスペンスになるのがみごとなのだ。
そうかと思えば孤立無援になったキニーが水場のくぼみに身を隠し、ゲリラの連れてきた犬が迫る場面などの昔ながらの「眼の前の敵との距離」のドキドキ感もいい。川の滝坪に飛び降りて見上げれば水しぶき越しにゲリラがいるショットの鮮やかさ!

当然ながらこうしたサスペンス演出と迫力たっぷりの戦闘アクションがダイナミックに両立していているところに、戦争映画ならではの興奮がある。銃声や爆音のリアルさは、なかなか凄い。ゲリラたちが発射するRPG(ロケットランチャー)の恐ろしさ!

後半は-ネタバレにならないようボカして書くが-キニーは「もうこれ助からんのでは?」という大ピンチに陥り、リーパーは兵隊の労働規約(?)の関係だかで通信/爆撃機操作係を離れてしまう。キニーはどうなるか? リーパーはいかにして戻るか?
ここで、絶体絶命のキニーとお買い物中のリーパーを長々とカットバックするのは、実はちょっと引っ張り過ぎの感じがしないでもない。
しかし、キニーの危機脱出の(脚本上の)アイデアはなかなか面白いし、リーパーも実にギリギリの一点突破で活躍を見せる。そのあたりの結末に向かってまとまっていくところは、よくできたプロのアメリカ映画の妙味だ。

それにしても、現代の戦争はテクノロジーを駆使するから現場の人的消耗や肉体的苦難は減るなんていう言い草がたまにあるけど、大嘘だと思う。いや、もう、大変ですよ。

オリヴィア・デ・ハヴィランドの凄み

書き下ろしです。

オリヴィア・デ・ハヴィランドといえば、最初の印象は、自分も多くのひと同様『風と共に去りぬ』(1939)のメラニーだった。
主人公スカーレットの義理の姉で、献身的・良心的でありながらも自分を持った女性をみごとに演じきり、ハティ・マクダニエルと共にアカデミー助演女優賞候補になった(※注1)。観たひとのほとんどが-たとえスカーレットに共感できなくても-このひとのメラニーには好感を持ったのではないだろうか。

それだけに、その後で『ふるえて眠れ』(64)を観たときは衝撃だった。ロバート・アルドリッチ監督が62年の『何がジェーンに起ったか?』に続いて、往年の美人女優ベティ・デイヴィスに老いを強調するグロテスクなメイクを施して作り上げた恐怖サスペンスだ。
ここでのハヴィランドは後半で恐ろしい本性を露わにして、デイヴィスを暴力的に脅しつける。そのさまはほとんど男のギャングのようにも思え、メラニーとのあまりの違いに驚くとともに、一気にハヴィランドへの興味が高まった。

それで調べてみると、『レベッカ』(40)『断崖』(41)のジョーン・フォンテインの姉だとか(※注2)、姉妹ともに日本で生まれたとか、兄弟姉妹がそれぞれアカデミー主演女優賞を受賞した唯一の例だとか、それでいてめちゃくちゃ仲が悪かったとか、ベティ・デイヴィスとは私生活で親友だったとか、映画会社が俳優を縛る不当な契約について提訴して勝ち取った判例は「デ・ハヴィランド法」と呼ばれているとか、それは俳優だけでなくミュージシャンにまで恩恵をもたらしているとか、当時は約100歳で存命だったとか(2020年に104歳で死去)興味深い事実が次々と分かったのだった。
その多くは日本版 Wikipedia にも出典を明記して書かれているので、御一読をお勧めする。

こうしてオリヴィア・デ・ハヴィランドは、自分が古い映画を観るときに注目する名前のひとつになった。
デビュー作の『真夏の夜の夢』(35)は、同名のシェークスピア戯曲のマックス・ラインハルトとウィリアム・ディターレの共同監督による映画化作品だが、ここでのハヴィランドは出演時18歳。はつらつとした美少女だがどこか怒ると怖そうな感じもあり、ただのお嬢さんではない可能性を感じさせる。

その後、エロール・フリンとのいくつかのコンビ作などを経て、『風と共に去りぬ』で高評価を得てからは、意欲的に多様な役柄に挑戦するようになっていったようだ。
そのうちメラニー女優として違和感のない愛すべきヒロインを演じて忘れがたいのは、何と言ってもラオール・ウォルシュいちごブロンド』(41)だろう(※注3)。主人公ジェームズ・キャグニーに「つき合おう」と言われたときの表情の素晴らしいこと!

さて『風と共に去りぬ』『いちごブロンド』に加え、まだ美人女優だった頃のベティ・デイヴィスと共演した『追憶の女』(42)などにも見られるように、ハヴィランドのひとつの特徴に、もうひとりのヒロインとは対照的なタイプとして映画に深みをもたらす-というのがある。
その点で物凄いのが『暗い鏡』(46)で、二種類のヒロインを-双子という設定で-一人二役で演じてしまっているのだ。しかも、たまに特撮で二人に見せるとかじゃなく、ガッツリ絡む。
善意のメラニーも演じれば『ふるえて眠れ』の暴力女も演じる女優ハヴィランドの二面が映画の中で分裂したようで、しかもその境界が観ているうちに実に際どく思えてくる。いまそこにいるのがどちらの女か、設定上は分かっていても曖昧さが心をかき乱す。
綱渡りのように成立するスリル満点のドラマで、凄絶のひと言。ロバート・シオドマク監督のサスペンスとしても『幻の女』(44)『らせん階段』(45)に並ぶ一級品だ。

そして49年にはウィリアム・ワイラーの『女相続人』がある。これこそ今回のブログ記事を書くきっかけになった作品で、今年のシネマヴェーラ渋谷のワイラー特集で、スクリーンで堪能した。
ここでハヴィランドが演じるのは、資産はあるが魅力はない世間知らずのオールド(になりかけの)ミスで、がっちり固めた髪に浅黒いメイクで「冴えない女」になりきってるのが、まず凄い。それでもオリヴィア・デ・ハヴィランドなんだから、ちゃんと映画を支える主役の格を感じさせるのが、さらに凄い。そんな女が二枚目青年モンゴメリー・クリフト口説きを信じてしまったがゆえの「お嬢様残酷物語」なのだが、不器用で引っ込み思案の性格から怒りと恨みの塊に変貌するのが、究極に凄い。

変貌してから「気高く」なってしまう表情演技にも魅せられるが、前半、クリフトのアタックに文字通り及び腰になりながら惹かれていく感じはみごとで、二人の動かし方はワイラーの室内演出の極みだ。
そうかと思えば公園のベンチに座ったまま、危篤の父親に会うことを拒否する場面は、全く動かず、セリフも一言程度なのに、ひしひしと心の暗黒が伝わる。ここで真横からのカメラの方向を変えないワイラー演出の肝の据わり方にも感嘆させられる。

邸宅の階段の使い方の巧みさにも注目しておきたい。映画が始まってすぐ少女のようにときめいて階段を駆け下りる娘は、変貌の末、幽霊屋敷の女主人のような冷厳さでゆっくりと昇っていってしまうのだ。
ざっくり言えば階段を降りて外に出るつもりが昇って戻る女の悲劇であり、またヒッチコックの『サイコ』やキム・ギヨンの『下女』(60)のように「階段が怖い映画」の一本として位置づけることも可能だろう。

父親役のラルフ・リチャードソンも強烈で映画に出てくる最悪の父親ベストテンの上位入賞だし、ミリアム・ホプキンスも信頼の巧さ。
この映画でハヴィランドはアカデミー主演女優賞を獲得したが(※注4)、『暗い鏡』を踏まえ、のちには『ふるえて眠れ』があることを考えれば、もはや怪優と言ってしまっていい怖さを感じる。

実のところ、自分にはハヴィランドの重要作と思えるので未見の作はまだまだ多い。これから更にこのひとを「発見」していくのが、楽しみである。

注1:受賞したのはハティ・マクダニエル

注2:『風と共に去りぬ』の当初の監督だったジョージ・キューカーメラニーに考えていたのは、むしろジョーン・フォンテインだった。キューカーが『風と共に去りぬ』の監督解任直後に撮った『女たち』(39)で脇役ながら突然輝くシーンがあるフォンテインを見ると、それも頷ける。自分も容貌だけならフォインテインの方がメラニー役に向いている気がする。なお、フォンテインはスカーレット役に興味を持っていたため、メラニーは辞退して姉のハヴィランドを推薦したという話もあるようだ。

注3:『いちごブロンド』と同年に、ウォルシュとハヴィランドは傑作『壮烈第七騎兵隊』でも組んでいる。

注4:ハヴィランドにとって二度目の受賞。一度目は、『遥かなる我が子』(46)である。3年後に再度受賞というのはハードルが高いはずで、いかに高評価だったかが分かる。

Amazon Prime で観る


女相続人(字幕版)

大人の娯楽映画『国宝』(2025)

書き下ろしです。

李相日監督作『国宝』(2025)、題材的にも興味があり、周囲の映画好きの話題にもなったので、公開してすぐに観に行ったのだが。まさか二ヶ月半を経ても国内映画ランキングの上位にあるばかりか、興収100億突破がニュースになるとは、予想しなかった。
まさに今年の邦画界の台風の目ともいえる話題作で、遠からず河崎実監督あたりが『重文』を作ってしまいそうな勢いだ。

何と言っても吉沢亮横浜流星の主役ふたりをはじめとする役者陣が、手間ひまかけて全力で歌舞伎の世界を「映画として」成立させてしまっているのがポイントで、大人の鑑賞に耐える贅沢な娯楽映画に仕上がっているのがいい。中高年夫婦がちょっと早めの晩御飯を外食で済ませてから、午後7時半過ぎの回を楽しんで、「良かったね、良い一日だったね」と満足顔で帰路につけるような貴重な映画だ。

役者でいえば先のふたり以外で観たひと全ての印象に残るのは、六代目歌右衛門を思わせる女形の大物を演じた田中泯だろう。現在の邦画界で「怪物」を演じさせれば柄本明かこのひとかと言える貴重な存在だが、ここでは舞台の上から死の近い床まで、全身全霊で「歌舞伎の化身」を演じてみせる。
ハイパーダンスという革新的な芸能に生きてきたひとが映画を通じて伝統芸能に立ち向かうさまに、個人的には-表現の質は違うが-状況劇場唐十郎が『修羅』(71)で南北歌舞伎とみごとに戦ったのを思い出した。田中泯という稀代の怪物役者をして、エポックとなる役柄だったと思う。

他の役者もそれぞれしどころが与えられている上、しっかりと演じて見せてくれる。多くの役者の持ち味・魅力が味わえるという点でも、まさに「歌舞伎的」な映画となっている。
自分の印象で言えば、主役のふたりの子供時代の黒川想矢と越山敬達、ひねくれ者の興行会社社員を演じた三浦貴大が特によく、また、これははっきり言って好みもあるのだが、最近の若い女優の中でも際立った雰囲気を備えている見上愛が重要な役で出ているのも嬉しかった。

ドラマ的には、長い年月を扱いながらも、ほどほどに心得た語り口で分かりよく見せてくれている。その上で一貫して作り手たちの熱意が伝わってくるのが、満足感にもつながっている。
先述の「役者を活かす手腕」といい、プロの仕事だ。

その一方で、個人的には全く引っかかるところがなかったわけではない。
例えば、主人公がヤクザの大親分の遺児という大ネタは、生かしきれていたと言えるだろうか。

確かに主人公のキャラクターの色付けという意味では、単純に「面白い趣向だね」と言うことはできる。モンモンを背負った歌舞伎役者という物珍しさは、ひとを惹きつける要素にはなるだろう。
だがそれだけで終わるには、設定として重すぎる。スキャンダルのネタに扱われるのも、そりゃそうですよね-ぐらいの印象だ。

ドラマとしての造りを考えてみると、この設定で最も大事なのは、父親が雪の中で殺されるのを目撃したことだろう。それがラストの『鷺娘』の舞台の雪とつながってくるというわけだろう。そして言うなれば「死」の無惨が、芸能の世界では美として昇華されるということになるだろう。

だがそれはあくまで(自分の「感覚」で語らせてもらうと)「考えてみると」であって。観ているこちらの「肉体的感覚」に訴えかけるような生々しさで、ふたつの雪が重なることはなかった(と、感じられた)。
『鷺娘』の舞台に舞い散る膨大な紙の雪が、「考えるまでもなく」父親の死の雪と詩的につながっていくことは-少なくとも自分には-無かったのである(※注1)。

それはひょっとしたら自分の感性の貧しさゆえかも知れず、そのつながりに痺れてしまうような(鋭い感性を持った)方もいるのかも知れないけれど。
それでもさらに言えば、その殺される父親がヤクザの武闘派の幹部とかではなく「大親分」である必要はあったのかと思う。大親分というのは言わば王様であり、主人公もまた「血筋の子」なのだ。
となると、一種の貴種流離譚として、何か(『スター・ウォーズ』(77)ならフォース)を受け継いだ(もしくは「受け継げなかった」)意味を、もっと感じさせて欲しかった気がする。

これが例えば、映画内で演じられるのがヤクザっぽい歌舞伎狂言なら分かりやすいかも知れない。
例えば黙阿弥の白浪物とかで、この主人公が弁天小僧を演じたらどうなるのか。周囲はどう反応するのか。それを実際にこの映画でやってしまうとあまりにもストレートすぎて逆によろしくないかも知れないが、想像してみることで、少しは(自分にとっての)物足りなさを補えるような気もする。

でも、黙阿弥だったら江戸歌舞伎の方がふさわしいだろうし、ここで扱われているのは上方歌舞伎だし…と、考えるうちに。また、新たな引っかかりに気づいてしまう。
どうも観ていて、「上方であること」の説得力が薄いのだ。

上方の(出演もしている)中村鴈治郎丈が原作成立から深く関わってるという「事情」は、後からひとに教えてもらった。ひとつの盛り上がりを見せる演目が上方の『曽根崎心中』だという「設定」は、分かる。
しかし、映画を支える「世界」としての上方の匂いとか肌触りのようなものは、自分には感じられなかった。例えば渡辺謙は素晴らしい役者だし演技も圧倒的(※注2)だが、容貌は江戸歌舞伎の荒事こそがふさわしかろう。そういう男前だろう。

これもひょっとしたら、自分が上方だの江戸だの-そもそも歌舞伎を「分かってない」から納得できないのかも-と、不安はあった。
しかし後日、自分よりずっと歌舞伎に詳しいであろう小説家の近藤史恵も「上方歌舞伎の匂いがまったくしない」と X に投稿(※注3)していて、素人の勝手な思い込みでもないのかも-と、少しは安心させられた。

とまあ、引っかかった部分に文字数をずいぶん使ってしまったけれど、基本は最初に書いた通り、見応えのある大人の娯楽映画である。
自分なりに言わせてもらえば、少し前に観た『ミッション:インポッシブル/ファイナル・レコニング』(25)と同じような種類の「映画の楽しさ」があった。トム・クルーズが常人離れしたスタントに挑むのを味わうように、吉沢亮横浜流星が困難な歌舞伎に挑むのを味わった。次々と見せ場をこなしていって長尺になるのも同じだった。トムでお腹いっぱいになるように、亮と流星でお腹いっぱいになった。
役者さんたちの努力と、それを結実させたスタッフに感謝。大ヒットして嬉しい。

注1:最近、シネマヴェーラ渋谷ウィリアム・ワイラー特集で過去の名作を何本か観た。ワイラーと言うとどちらかというと理詰めの監督だと思うのだが、それでも『月光の女』(40)でヒロインが重要な取引の場面でしていたショールがラストに残された刺繍に重なっていくのは、身にしみるような情感をかき立てられたし。『黄昏』(52)でヒロインが全く違う男と電車を共にする2つの場面で運命の一撃のように別の電車がすれ違うのが重なったときは、ドキッとして身体が固くなる思いがした。2つのシーンの言葉を超えた詩的なつながりの例である。

注2:血を吐くところの熱演だけではなく、例えば、主役たちの『二人道成寺』を厳しく見る様子などが良かった。役者の格を感じる。

注3:https://x.com/kondofumie/status/1935181844213023029

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