鑑賞録やその他の記事

芸能の真髄『キャビン・イン・ザ・スカイ』(1943)

書き下ろしです。

ヴィンセント・ミネリの公式な監督デビュー作(※注1)『キャビン・イン・ザ・スカイ』(1943)を観る。ブロードウェイのヒット・ミュージカルの映画化で、アメリカ南部を舞台に登場人物は全員黒人という趣向だ。

お人好しのリトル・ジョーは、しっかり者の妻ペチュニアの支えがあるにも拘らず、悪い仲間に引き込まれてギャンブル三昧の日々。改心しようと教会に行ったのに仲間に呼び出されてイカサマ勝負に手を出した挙句、撃たれてしまう。息を引き取り、悪魔の使いが地獄に呼びに来たところで神の使いも現れ、どちらの世界に行くかで揉める。結局、生き返って6ヶ月の猶予期間を与えられ、その間の生き方で決まることに。悪魔の手下はジョーを堕落させようと競馬で大当たりさせ、大金を掴ませる…。

主人公夫婦のタイプやオチなど、ものすごく落語っぽくて、すんなりと話に乗っていける。
ミネリの演出も堂に入ったもので、悪魔の使いが最初に現れるときのランプと影の演出、猶予期間中のジョーを巡って悪魔および神の使いがいさかい合う面白さ、クライマックスの大竜巻(※注2)で悲劇的な銃撃の直後に天井が崩れるドラマチックさなど、確かなうまさを感じさせる。前回取り上げた『二日間の出会い』(45)ほどの冴えはないにしても、職人監督としてかなり信頼できる腕を見せたと言っていいだろう。

しかしやはり本作の見ものは、往年の黒人エンタティナーたちの宝のような芸の数々だ。
まずペチュニア役は、舞台版と同じエセル・ウォーターズ。デビュー時のスリムさからややふっくらし始めてきて、油の乗った歌声を聴かせる。
悪魔側の娼婦役がリナ・ホーンで、初期黒人女性ポピュラー・ヴォーカルの最高峰の共演というわけだ。ちなみにふたりとも-本作では歌われないが-名曲『ストーミー・ウェザー』に縁が深い。エセルは1933年に初録音し、リナはその10年後に同名映画で歌った。
もうひとりの主役、リトル・ジョー役のエディ・"ロチェスター"・アンダーソンは、ラジオで全米的な人気を博したコメディアン。音楽的な功績に特筆すべきものはないが、美声じゃない歌に味がある。歌手ではなく、芸人の歌の良さ。
歌手でいうと、神の使いを演じたケネス・スペンサーはクラシックの声楽で鍛えた名歌手。本作でも二役の牧師で、クワイア(合唱隊)と共にみごとにゴスペルを歌いあげてみせる。後年ドイツに移住し、各国の民謡を原語で歌うなど多彩な活躍をみせた。
ジョーを銃撃するギャンブラー、ドミノ・ジョンソン役のジョン・バブルスは、リズム・タップの父と呼ばれた伝説的ダンサー。フレッド・アステアのタップの先生でもある。彼が戦前の有名曲『シャイン』を歌い踊るシーンは、実に華がある(※注3)。
ダンサーといえば、本作オリジナルの名曲『恋のチャンスを』をエセルが歌うシーンで踊るビル・ベイリーも名手で、後にマイケル・ジャックソンのトレードマークとなる "ムーンウォーク" の初期型を見せてくれる。また、このシーンでアンダーソンが見せるすり足ダンスは、ジェームス・ブラウンっぽい。マイケルにせよJBにせよ、そのスタイルはひとりで生んだものではなく、黒人エンタテインメントの伝統の上にあるのだ。
そして大物中の大物が、デューク・エリントン。オーケストラを率いて十八番の『昔はよかったね』のテーマを響かせてから『ゴーイング・アップ』に繋いでいく。映像はオーケストラよりダンサーたち中心だが、エリントンで黒人たちが踊るというのは、それはそれでグッと来る。
もうひとりの超大物、サッチモことルイ・アームストロングも悪魔の使いの手下で出ているが、セリフ劇の最中にちょっとトランペットを吹くだけ。フィーチャーされたナンバーはカットされてしまったそうだ(※注4)。

というわけで、溢れるエンタテインメント精神とバイタリティに圧倒され、幸せな気分になる一本。天国を暗示する題名ながらもここにあるのは生きる大切さで、物語的にも-他愛ないながら-それに相応しいエンディングが用意されている。
こんな映画を楽しめる精神を持った上で、暴力や不正や悪にも怒ろうじゃないですか。あけましておめでとうございます。

注1:本作以前に1941年の "Panama Hattie" を部分的に監督しているが、クレジットされてない。

注2:竜巻のシーンには『オズの魔法使』(39)のために作られた映像が使われてるとのこと。

注3:このシーンはバズビー・バークレーが演出しているとの記載が、英語版 Wikpedia(と、恐らくそれをベースにしてる日本語版)にある。

注4:とはいえサッチモがちょこっと吹くのは、とてもカッコイイ。また、カットされた "Ain't It The Truth" は、サウンドトラック盤では聴くことができる。

驚くべき傑作『二日間の出会い』(1945)

書き下ろしです。

シネマヴェーラ渋谷で『二日間の出会い』(1945)。
ジュディ・ガーランドが歌わない映画で、監督はこの年、ジュディと結婚することになるヴィンセント・ミネリ
実は自分、ミネリの有名作は『巴里のアメリカ人』(51)も『バンド・ワゴン』(53)も世間でいわれるほど評価しないのだが。正直、これは参った。ノッてるときのミネリの力量をとことん、思い知らされた。

ストーリーは、ロバート・ウォーカー扮する田舎者の兵士が休暇でニューヨークを訪れ、OLのジュディと出会って、タイトル通り二日の間に熱烈な恋に陥るというもの。
こうした "兵士の休暇もの" は往年のアメリカ映画によくあり、『青空に踊る』(43)『踊る大紐育』(49) 『よろめき休暇』(57)などが思い浮かぶ。ひとつのパターンと言えるもので、その意味で斬新さはない。主なストーリーも、いま書いたことで言い切っている。

だが、ありがちでシンプルな物語を語り切るのに、作り手の才能と精力を尽くしたときのハリウッド黄金時代の映画がどんなに凄いか。
本作はひとつの見本となるものだ。シンプルだからこそ凄い、美しい-と思い知らされるのは、映画の根源的な魅力に引き込まれてしまう奇跡のような体験なのだ

二日間の出来事を面白く見せるには、主人公たちにどのような人物を絡ませ、どのように展開すればいいのか。これにふたりの脚本家、ジョセフ・シュランクとロバート・ネイサンは知恵を注いだ。
シュランクはブロードウェイの劇作家出身で、ミネリとは監督デビュー作でも付き合っている。そしてネイサンは『ジェニーの肖像』などで知られる有名な小説家。そのへんの人間が頭を絞るのとは、最初っから違うのだ。

主人公たちの間でいよいよロマンチックなムードが高まるのは、夜の都市公園の緑の中。ロバートは、ここは自分の田舎のようだと言う。ジュディは、そんなことはない、耳をすませば(都会らしく)いろんな音が聞こえると言う。ここから無言の芝居。たしかに聞こえる、街の音-だが、次第にふたりには、ロマンチックなメロディが響いてくる。街の効果音が、美しい映画音楽に取って代わる。見つめ合い、初めてのキスをする。いけないわ、帰ります-と、ジュディ。ではふたりでバス停まで。行ってみれば、何ということだ、終バスは行った後。そこにコトコト馬車のようにやってくる小さな、変わった形の運送自動車。ハンドルを握る人の良さそうなオジサン(ジェームズ・グリーソン)が、乗せてくれる。オジサンは牛乳配達夫。これからひと仕事終えたら、家まで送ってあげる。倉庫で牛乳を積む。出発進行、すぐにパンク。スペアタイヤはないが、カー・サーヴィスに連絡して換えてもらう-と、のんびりしたもの。その間、深夜営業のカフェで過ごしてると、タチの悪い酔っ払いが絡んでくる。なんやかんやで配達夫のオジサン、ひっくり返って怪我をする。タイヤ交換は完了。でもオジサン、車に運んでもまだまだ気分が悪そう。それじゃ仕方ない-と、ジュディとロバートは、ふたりで朝まで懸命に牛乳配達をするのだ!

凄くないですか?
みごとに状況が進んで、ふたりの忘れがたき夜の体験が、牛乳配達! 深夜作業の労務者がトラックの上から、OLと兵士が牛乳の入ったカゴをさげてビルに入って行くのを珍しそうに見るカットのユーモア!
しかもその後、配達夫の家で幸せな初老夫婦の人生哲学に触れ、いよいよこの短い期間で結ばれる決意を固めるのだから、完璧な展開ですよ。

ミネリの演出はいま書いた流れの中でも、キスをするときのたっぷりとした切り返し、カフェのシーンの長回しなど、技術を尽くしながらも自然なタッチで凄いんだけど。
そもそもファースト・シーンの駅の人混みから次第にロバートに焦点を当てるのや、エスカレーター降り口でのジュディとの出会いからして、魔術的なみごとさで引きずり込まれてしまう。

後半も凄い展開・演出があるのだが、具体的に書くのはこのあたりまでにしておこう。
映画全体を通してやはり強調しておきたいのは、ジュディの素晴らしさ。ただ可愛いだけではなく、ちょっとキョドってる自信なさげなOLにも見えるからこそ、性急な恋の物語を成立させるリアリティがある。変な子が決意したときには、強いのだ。

映画どアホウ『野球どアホウ未亡人』(2023)

書き下ろしです。

ソウルフラワー監督のオススメで、小野峻志監督作『野球どアホウ未亡人』(2023)を観る。

愛する夫を草野球練習中の事故で亡くした夏子は、夫の野球の師匠たる重野進に見込まれ、野球選手としての特訓を受けることになる。野球など気が進まぬどころか大嫌いだったのだが、夫の借金のため仕方なかったのだ。だがやがて、苦難を通じて野球に目覚めることに-それどころか苦難そのものに-悦びを覚えるようになってしまう。そんな折、夏子に知らされる驚天動地の真相。夫は事故ではなく、重野の手によって殺されたのだった。

…というストーリーは、『鉄腕未亡人』(1942)『セックス・チェック 第二の未亡人』(68)『カリフォルニア未亡人ズ』(81)などに連なる映画ファンならお馴染みの "未亡人スポ根もの" の王道と言えるものだ。本当はそんなジャンルは無いし、いま挙げた三作とも存在しないのだが、あたかもそれらの王道であるように捉えたい。

ところでかつて映画評論家の蓮實重彦が草野進の名でプロ野球評論を書き始めたとき(※注1)、「蓮實の薫陶を受けた映画監督(※注2)が生まれたように草野進の文章を読んで野球選手を目指すひとが現れたりして」という冗談(※注3)が囁かれたものだが。本作は-特に最初の方は-まるでこの冗談を映像化したようなものだ。
重野進の名は重彦+草野進だし、夏子の夫はその著書にも心酔している。しかもタイトルバックは夏子による重野の著書の朗読である。そこまでいったら重野の台詞回しは、「にわかには信じがたいが途方もなく蓮實風にほかならない」ものであって欲しかった気もするが、そこはまあ、よしとしよう。

というわけでこの映画は「アホ映画に見せかけて実は知的」というやり方の知的ぶった映画にも思えそうなのだが。アホであることの悦びにも打ち震えているので、ちゃんと「知的なアホ映画」になっていて、「なるほどなるほど」と観ていられる。
夏子の魔球は「あたしったらこんなにアホなことしたくてたまらないの」という作り手の悶絶の表現だし、彼女がボールを投げ上げては受け止める動作の繰り返しは、映画する(なんて恥ずかしい表現!)悦びを知的な輩にも分け与えてくれそうだ。

かくして本作は基本的に成功作となったのだが、しかしまあ、ここまで来ると-評価するがゆえに-「もっと」を求めたくなる。
例えば映像は、もっとあからさまに美しくても良かったのではないか。ある程度の知性を経由したからには「こんなバカ映画なのにこんなに美しい」というのが、さらにバカ感を増すと思う。『ゴダールのマリア』(85)とか『カルメンという名の女』(83)といったゴダール(※注4)映画に限らず『バーバレラ』(67)だって、身も蓋もなく美しいところがバカだ。

そして-ここからはネタバレ全開になるが-重野の死に様はもっと凄くあって欲しかった。
彼が倒れるでしょ。そしたらその肉体には何かが起きると思うじゃん。あのとき俺は『フューリー』(78)のジョン・カサベテスの爆発(グロ注意)か、『ヴィデオドローム』(82)のレスリー・カールソンのぐちゃぐちゃ(グロ注意)ぐらいのものを期待したわけですよ。

んで、一応爆発したけど、高校生が作ったみたいな最も安い CG だったよね。「盛大に爆発しました」という情報を伝えるような。それはこの超低予算映画にふさわしいし、「怪獣が死んだときの爆発と同じだよね」とも思えるし。お客さんは安心して笑いますよ。
しかし思う。ここが「安心」の裏切りどころじゃないか。ここでいきなりお金のかかった『フューリー』爆発(グロ注意)が来たら、「やったあ!」と思うと同時に激しく動揺しますよ。この時点で、本作は(俺にとって)そこまでの期待値が上がっていたのだ。

いや、実際のところ『フューリー』爆発(グロ注意)も『ヴィデオドローム』ぐちゃぐちゃ(グロ注意)も、お金がいるってのは分かりますよ。ならば、出来る範囲の中でもっと別のやり方はなかったのかなあ。例えば、打ち上げ花火が上がる中、バラバラになった重野が空を横切って「おかあさーん!」とか…いや、これは違うか。
でも重野が死ぬってのはそれぐらいのことであるべきで、たとえそこで幾人かの観客を取り逃がしたとしても、理解し難い何かに走ってしまう "映画どアホウ" ぶりこそを体験したかった。

一方、夏子が前半の(映画表現的に素晴らしい)特訓で「ボールになる」というテーマを与えられたのが、最後に「ホームランボールになった」というセリフに結実するのは、美しい。
その特訓で繰り返される "落とされること" は、夫の幽霊の出現シーンで思わぬ変奏を奏でることになる。この1カットは凄い。恐らく本年の日本映画の中でも最高のカットのひとつである。これだけのために観てもいい。

主演の森山みつきは、とても魅力的に撮られている。

注1:渡部直己との共同ペンネームという説もある。

注2:ちなみにこの映画、黒沢清万田邦敏塩田明彦といった監督が蓮實重彦門下の立教大学生であった頃に組織していた "パロディアス・ユニティ" の8ミリ映画と雰囲気的に共通するものがある。

注3:あくまでも冗談である。

注4:映画どアホウ。

カルナータカ音楽映画『響け! 情熱のムリダンガム』(2018)

書き下ろしです。

レコードそして CD と音楽はディスクで聴く世代の自分も、時代に逆らえず遂に Apple Music に登録。以来、「昔ちょっと興味を持ったがのめり込むまでいかなかった音楽再発見の旅」を続けていて、最近はワールド・ミュージックのターンに入ってたのだ。
そんな折、ふと思い出したのは高校生の頃、友人に聴かせてもらった南インドのヴィーナ(※注1)のアルバムで。奏者もジャケットも忘れてしまったが、その時一緒に聴いた世界的に有名な北インドラヴィ・シャンカールシタールより身体にしみ込んできて、「(余韻が深くて)この後、しばらく他の音楽を聴けなくなるね」と、感想を言ったのを覚えている。逆に、それがのめり込まなかった理由かも知れない(次から次へいろいろ聴きたいお年頃でしたからね)。

でまあ、「あれは何だったんだろうね」と Apple Music で南インドの古典音楽を探してみて、ジャンル的には "カルナータカ音楽" と呼ばれているのを知って、いろいろ聴いてみるとどれも良くて、中でもヴィーナのS.バーラチェンダー、歌のスダ・ラグナタンにアルナ・サイラムあたりは気に入った(※注2)。
少年時に感銘を受けたアルバムはなかったが、その後 Facebook を通じて親切な方から「これでは?」と写真を見せてもらった『南インドの音楽 ~ナゲシュワラ・ラオのヴィーナ~』がそのものズバリで、音源も YouTube で見つかったのだった。

前置きが長くなったが(というか今回は半分、音楽の話題だが)、このタイミングでカルナータカ音楽にスポットを当てた映画が公開中と知れば、観に行かぬわけにはいくまい。
響け! 情熱のムリダンガム』(2018)がそれで、東京国際映画祭に『世界はリズムで満ちている』の邦題で上映されたのを、何と、荒川区南インド料理店「なんどり」が配給・公開に漕ぎつけたという。
ちなみにムリダンガムとは、カルナータカ音楽で使われる手で叩く両面太鼓だ。「ムリガンダム」と間違えないようにしたい(マジで自分はたびたび間違える)。

主人公ピーターは、南インドのタルミードゥ州都チェンマイに住む若者。勉強そっちのけで友だちと人気映画スターの "推し活" にいそしんでいる。ある日、父が仕事で作ったムリダンガムを巨匠ヴェンプ・アイヤルが叩くのを見学して衝撃を受け、自らも奏者になるのを志す。思い立ったら一途なピーターは、巨匠に弟子入り志願するのだが…。

という分かりやすい青春熱血芸道もので、庶民的で一本気で共感しやすい主人公に、彼を心配する優等生ヒロイン、父と師匠という立場の違う人生の先達、憎まれ役の兄弟子に、その姉のどぎついまでに俗なテレビ人、友人からライバルに転じるお坊ちゃん、気の置けない仲間たち…とキャラクターを揃え、役者もピーター役のG.V.プラカーシュ・クマールをはじめ適材適所で、しかも皆、がんばっている。
個人的には父親役のイランゴー・クマラヴェールとテレビ人役のディヴィヤ・ダルシニが気に入った。ダルシニは本職の人気テレビ番組ホストということで、現地のひとが観るとリアルなのだろう。なのにテレビという媒体を使って主人公を陥れるような役を、よく引き受けたもんだ(※注3)。

ラージーヴ・メーナン監督の演出は特に優れてるとも思えず、シーンごとに配置した人物に平面的な芝居付けしたのを、細かめの定型的なカット割で押し切る深みに欠けたテレビドラマ的なもので(※注4)。物語の消化の上でも、例えば重要なターニングポイントであるはずの主人公が騙されてテレビに出演してしまうところなど、もう少し-観客が「マズいぞ、ピーター!」と思いながらも、一方では、巧みに陥れられていくのを物語的に楽しむような-うまい段取りを組めなかったものか。
全体にこの映画は、偶然だろうが-のらくら者の主人公が打楽器奏者の道に目覚め、敵役に手を傷つけられ、クライマックスでは横並びして打楽器合戦をする…などの点で-石原裕次郎の『嵐を呼ぶ男』(1957)に似てるが、演出技術的には、同作の井上梅次監督(及び1966年のリメイク版舛田利雄監督)の方が遥かに上手い。

とはいえ先述のように役者たちがイキイキしてるのは演出家としての功績だし、話を盛り上げるために揃えたキャラクターとエピソードを-巧みとは言えなくとも-絵本的に分かりよく見せることは、やってくれている。だから「いい話だったね」と、気持ちよく観終えることはできる。好感の持てる劇映画には仕上がっているのだ。
またパンフレットにある「配給までの道のり」などを読むとこの監督は相当の好人物らしいが、そういうひとが作った人懐こい感触はある。

しかしまあ、本作の魅力はドラマ演出より音楽的要素だろう。
テーマとなっているカルナータカ音楽のライブ・シーンはしっかり見せてくれるし、舞台上ではメインである歌手ではなく、ムリダンガムに焦点を絞った撮り方も新鮮だ。
またミュージカル的に様々な歌が楽しめる "ザ・インド映画" としては、『ムトゥ踊るマハラジャ』(95)『スラムドッグ$ミリオネア』(2008)などの実力者A.R.ラフマーン音楽監督の手腕が光る。特に「世界はリズムであふれてる」「我々の時代はいつ来る?」といったナンバーでは、ムリダンガムのみではないインド古典音楽の様々な打楽器の合奏をフューチャーして楽しませてくれる(ただし "ミュージカル・シーン" として演出的に最も良かったのは、ピーターが巨匠の家の前で小さな太鼓を叩いて子どもたちを踊らせるところだったと思うが)。
その他、後半の主人公の "音楽の旅" のシーンでは、インド各地の現場でいろんな楽器が奏でられる様子が見られるし。テレビの音楽バトル番組のシーンでは、打楽器のみならずヴィーナなど様々な楽器のソロ演奏が断片的にではあるが見られて興味深い。
ムリダンガムに話を戻すと、リズムパターンを口で唱えて教え、叩かせるレッスンの様子なども見られる(※注5)。

映画の楽しみ方にはいろんな面があるが、"音楽めあて" では、強くオススメできる作品であることは間違いない。
「(ダンスホールより前の)レゲエを知りたい」というひとに「じゃ、まず映画の『ハーダー・ゼイ・カム』(1973)を観てみなよ」というのは、アリでしょ? 自分もこの映画を観る主要目的に「カルナータカ音楽や、その周辺のインド音楽をもっと知りたい」というのがあったわけだし、その点ではかなりピッタリだった。

そしてこの映画で最も見逃してはならない点に、インドのカースト制度、すなわち差別の問題と娯楽性との両立がある。
主人公が当初は弟子入りを断られる理由や、太鼓職人の父の故郷の描写に、差別されることの矛盾・悲しみ・怒りが込められて、だからこそより一層、感情移入できるのだ。社会的な問題に向き合うことが-そのことで評価して欲しいというイヤらしさを感じさせず-自然に映画のパワーになっている。これは美しいことだと思う。
付け加えると "太鼓職人の差別" は、日本人も他人事にはできない問題なのだ。和太鼓がどういう人たちに作られてきたか、もしも御存知なければ "太鼓作り 差別" などの語句で検索してみて欲しい。
ピーターの抱える問題は、日本の問題でもあるのだ。

注1:シタールに似て非なる南インドの楽器。ヒンドゥー教の女神サラスヴァティーが抱えているサラスヴァティー・ヴィーナなどの種類がある。

注2:スダ・ラグナタン Sudha Raghunathan の『シャクティShakti (Sacred Song from Southern India) はハツラツとしたキレイな歌声で聴きやすいアルバムで、この手の音楽の入門用にいいんじゃないでしょうか。
Apple Music https://music.apple.com/us/album/shakti-sacred-song-from-southern-india/1081085912
YouTube  Music https://music.youtube.com/playlist?list=OLAK5uy_lYfIb8quIaKuk7T5tu2KNLoNh4x8eUfDY&feature=gws_kp_album&feature=gws_kp_artist

注3:出演者のひとりである声楽家のシッキル・グルチャランも、自分の職業そのままの役で、大先輩の打楽器奏者に嫌な感じのセリフを言ったりする。

注4:もちろん "テレビドラマ" が、深みに欠けているという意味ではない。"深みに欠けたテレビドラマ" のことを言ってるのだ。

注5:配信で見つけた "Mridangam Teachings in Adi Talam: Tirunelveli 1969" P.S. Devarajan というのが、ムリダンガム・レッスンをたっぷり聞かせてくれて、興味深い。
Apple Music https://music.apple.com/us/album/mridangam-teachings-in-adi-talam-tirunelveli-1969/447117102
YouTube Music https://music.youtube.com/playlist?list=OLAK5uy_kdb1Fcrnnk7yTZfCgkvDiOHR0H6S06hso&feature=gws_kp_album&feature=gws_kp_artist

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大人の人情喜劇『輝け星くず』(2024)

書き下ろしです。

来年公開予定の『輝け星くず』を、扇町キネマでの特別先行上映で鑑賞。
監督の西尾孔志(ひろし)氏は大阪在住で、本ブログでも取り上げた大傑作『ソウル・フラワー・トレイン』(2013)をはじめとする数々の注目作をものにしてきたひと。拙作『LOCO DD 日本全国どこでもアイドル』(17)の十三シアターセブンでの公開に、大いに協力してくれた好人物でもある。

大阪で暮らす青年、光太郎(森優作)には密かにプロポーズを考えている恋人、かや乃(山﨑果倫)がいるのだが、彼女が突然、薬物所持の罪で捕まってしまう。光太郎はかや乃の父、慎介(岩谷健司)とともに、四国の警察署に保釈金を届けに行くことになるのだが、この父が自称パニック障害で、電車にも、普通サイズの乗用車にも乗れないという。思わぬ難物を抱えながらも、光太郎は目的地へ近づいていくのだが…。

まず主役の三人が素晴らしい。
川崎ゆきおの漫画に出てくる "まきこまれ型" 男のようなルックスで、お人好しに厄介事を背負っても自然に見えてしまう森。胡散臭く信頼し難いが、どこか漂うひと懐こい動物っぽさに観てるこっちも心許しそうになる岩谷。しゃんとした大人っぽさと弱さのバランスが絶妙で、父とは逆にひとに甘えきれない寂しさを見せる山﨑。
世間的にはいわゆる "スター俳優" ではないにもかかわらず、観客を惹きつける魅力ある(というか、西尾監督が魅力を引き出した)この3人あってこそ、「かや乃はなぜ薬物に手を出したのか」「慎介の自称『パニック障害』はなにゆえなのか」という謎に自然に引っ張られて、物語(=登場人物たちの旅)に付き合う気持ちにさせられる。

映画の前半は、光太郎と慎介のロードムービーとして進むのだが。雰囲気に流されず、丁寧に画面を積み重ねる中で、この映画ならではの "ロードムービーの空気感" を醸しているのが、嬉しい。プロとして映画をきちんと作る心意気だ。
例えば、ロードムービーであれば欲しくなる野外のロングショットには、「ここぞ」という場で踏み込んでくれるし。乗り物の選び方・見せ方も、工夫が凝らされている。あるいは-移動してるシーンのみでなく-二段ベッドの上下での会話にも、単なる顔と顔の切り返しなのに、何ともいえぬ宿泊所の雰囲気がある。こういうのが映画の "質" を決定する。

中盤以降、旅(=ロードムービー)の目的の保釈金支払いも終わり、"父娘のトラウマ克服物語" になる頃には、すっかり映画のタッチに乗せられて、感情移入しながら観ることになるのだが。この映画、最後まで「ほら、『愛すべき』奴らでしょ」という甘さに堕ちない。このような "大人" の人情喜劇は、本当に貴重だ。
クライマックスも、娯楽映画らしくきちんとミスリードを用意した上で、作り手が「こうあるべきじゃないか?」と考えた結果に向かう。そして3人を、それぞれなりに-若くはない慎介でさえ-成長させてみせるのだ。

観終えた後の感覚は何とも言えない爽やかなもので、それは-言うならば-この映画の "人間讃歌" を受け取ったからだが。その歌を歌うためには、作り手に「自分は人間讃歌なんて歌えるほど偉くはないんだけど」という謙虚さがあるのが大切で。それでも何とか「歌いたい!」という気持ちの果ての悪戦苦闘が生んだ傑作の数々を我々に見せてくれたのが-例えば-森﨑東という監督だった。
『ソウル・フラワー・トレイン』はそんな "森﨑後" を印したみごとな映画だったが、本作はさらに、作家としての成熟を感じさせる新たな一歩に踏み込んでいる。こんな映画につきあってこそ、現代映画につきあってると言えるのではないか。つまり、必見である。

塩田監督渾身のエロコメ『春画先生』(2023)

書き下ろしです。

塩田明彦監督最新作『春画先生』(2023)を観る。

江戸の浮世絵の中で「春画」といわれるジャンルは、性の悦楽の世界を赤裸々に描き出したもの。春信・歌麿北斎など多くの巨匠が手がけており、性器そのものの描写を含め、観るひとに強烈な印象を与える。
本作では内野聖陽扮する春画研究の第一人者「春画先生」の興味深い人間像と、彼の弟子となる若き女性、弓子(北香那)の先生との付き合いを通じた心身の変化を描く。

性的な題材を主題に据えた映画は、それだけで色眼鏡で見られがちだ。本作も、観る前から「お下劣ではないか」という先入観を持つひとがいそうな気がする。そうした偏見のもとでは、春画は題材面での性的趣向のみがいたずらに誇張され、芸術性は置き去りにされかねない。
だがしかし、作中の春画先生は芸術鑑賞・研究のプロとして語り、振る舞う。弓子への最初の「授業」では、歌麿春画の肌と円山応挙の雪を並べることで、美術的な「技法論」を通じた-単なる性的興味に留まらぬ-芸術鑑賞の対象としての春画観を提示する。
だから本作は、軽々しい性的好奇心から離れて観られるべきなのだ。真面目に日本美術の一ジャンルとして春画を捉えんとするひとにこそ、響いてほしい映画だ。

…な~~~~~んてね!

そんな人畜無害な映画になるわけないでしょうが。塩田監督が春画の絡む師弟関係を取り扱うからには。もう、どうしようもないエロエロの危なっかしいコメディになっちゃってるわけですよ。

エロコメつっても「ボッキ~ン」とか「ぷりんぷり~ん」みたいな健康的なあけすけさはない。先生と弓子は最初っからずっと発情しっぱなしのくせに、美術研究という枠の中にあることで、より淫靡でおかしな言動に及ぶ。例えば先述の最初の授業は、セリフが美術論であることが、身のこなしのエロさを逆に際立たせる。そして観客をほくそ笑ませる。
また、先生が弓子を-助手としてのお披露目のように-連れて行く春画鑑賞会のシークエンスは、ルイス・ブニュエルから小沼勝までスキモノ監督が大好きな「ハイソのいかがわしいエロさ」が充満していて「やってる、やってる!」と嬉しくなってしまう。ここで先生が思い出話を開陳するくだりは、前半の大きな見せ場だ。
そうかと思えば、後半の回転ベッドのシーンで、弓子が「やります! すぐにでもセックスさせて頂きます!」みたいにやる気満々なのも、楽しい。さあ、ここからは「枠」をもぶち壊しますよ-という点火状態を見せて、決着になだれ込んでいくのだ。

そして本作では、みごとな発情演技でワクワクさせてくれる内野と北に加え、柄本佑の編集者がシェークスピア真夏の夜の夢』のパックのような道化-というか「性の悪戯者」としての適切な役割を演じてくれる。彼が最も春画-つまりは江戸時代の浮世絵-から抜け出てたような顔つきをしているのにも注目したい。鍵となる脇役は風土を背負う者なのだ。
これだけの三人を並べて巧妙に「おかしなおかしな春画の世界」を作っていった上で、塩田監督は「今の安達祐実にピッタリの役を堂々と演じてもらう」という最良のカードを嬉しそうに切ってみせる。
実は自分は途中まで本作を女版『月光の囁き』(1999)かと思ってたのだが、クライマックスに至って「それどころか…」という真相が晒される。そのときの安達がやはり本当に素敵で、ファン必見と言ってしまおう(※注)。

というわけでこのエロコメ・エンタテインメントは塩田明彦監督のベストといえる一本になった。

余談だが、最近の邦画で、「男先生と女生徒の一見品がありそうな映画でその実エロコメ」といえば、濱口竜介監督の『偶然と想像』(2021)の第二話があるのだが。そこでの先生役の渋川清彦と本作の内野は佇まいが似ていて、嗜好も共通するものがある。これは偶然だろうか。

注:本作の安達祐実は写真出演の段階で既に素晴らしい。みごとに生きている写真なのだ。