鑑賞録やその他の記事

第一作の継承『ゴジラ-1.0』(2023)

書き下ろしです。

ゴジラ-1.0』(2023)を観た。
実写映画監督としての山崎貴を近年の『アルキメデスの大戦』(19)『ゴーストブック おばけずかん』(22)で高評価してる身としては、いやでも期待が高まる。

事前情報で戦後間もない日本をゴジラが襲うというのは知っていたが、冒頭、主役の神木隆之介が戦争末期に特攻から脱落して戦闘機を整備基地のある島に不時着させるところから、「なるほど、こう来るか」と思った(以降、けっこうネタバレします)。
この島での一連は、往年の特撮ドラマ『ウルトラQ』(1966)の『東京氷河期』的な(首都を襲う怪獣に戦争で生き残った戦闘機乗りが戦う)展開を予感させつつ、まだそこまで大きくないゴジラが局地戦で人間を次々と殺す恐ろしさを見せつけて、戦慄させられる。必死に逃げる人間をどんどん踏むのがえげつない。

ただ、その後、主人公が焼け野原となった実家(東京)に帰ってくるあたりは、あまり良くない。特にヒロインの浜辺美波から(預かって!)と赤ん坊を押し付けられるシーンは、「あれ? 最近の山崎監督って、もうちょっと巧くなかったっけ?」と心配になった。ゴジラという大ネタを預かって、演出が硬直してないか-と。
結局、神木と浜辺の関係の描き方に関しては今ひとつというか、悲劇が訪れる前にもう少し観ていて「分かるなあ、これ」と思わせる要素があっても良かったように思える。ただし、赤ん坊が喋れるぐらいには成長してからの子役とその使い方が物凄いので、かなりカバーはできているが。
あと、焼け跡から始まる戦後の描写に、昔なつかしな風俗的な要素を、安直に強調しないのも良かった。

その後、本題のゴジラに戻ってからは、期待通り大いに見せてくれる。
海で再登場するまでのサスペンスは手応えあるし、巨大化した禍々しい姿を見せてから(神木と仕事仲間たちの)粗末な木船を一直線に追ってくるのは、さながら(『悪魔のいけにえ』(1974)の)レザーフェイスのでっかいのにチェーンソーが触れんばかりに追走されるみたいに怖くて嫌だ。
そしていよいよ東京上陸。銀座の大破壊に至って思い知らされるのが、本作が何よりも1954年のゴジラ第一作への深い思い入れに満ちたものだということだ。電車襲撃・ラジオ実況班の悲劇といった具体的な部分だけでなく、テーマ的に大きな一点を引き継ごうとしている。
それは、ゴジラとは戦争の亡霊であり、その亡霊が実体化して戦争のような大破壊をもたらすということだ。

「戦争の亡霊」としての怪獣を描くことは(第一作を踏まえた)ゴジラ映画として重要だったのはもちろん、山崎貴というひとりの映画作家にとっても、意味のあることだったろう。
ちょうど10年前の『永遠の0』(2013)で、既に戦争の亡霊らしきものを映像化していたからだ。現代日本の空を飛び去る特攻機がそれである。
単独にあのカット自体は力が入ってたとは思う。だが過度に感傷的なあの映画の中では、戦争を感傷的に捉えた甘い幻にしかなり得なかったのではないか。映画自体も『市民ケーン』(41)的構成を巧みとはいえない手つきで操りつつ、謎の真相を「宮部の本当の心情は誰にも分かり得なかった…」なんて感じで曖昧に片づけるものでしかなかった(※注)。
だが今回は、もっと非情で恐ろしく暴力的な亡霊であるがゆえに、表現としての手応えが段違いだ。それはもちろん、破壊神ゴジラという映画史上の大発明を使い得たからではあるが、山崎監督自身の意識も変わってきているように思える。
我々が目にできるのは『アルキメデスの大戦』のラストに滅亡が運命づけられた戦艦の姿を描いてみせた監督による戦争の亡霊としてのゴジラなのだ。島で死んだ整備兵たちの写真が、(神木を責める小道具という)物語上の意味を超えた陰惨さを帯びていたことを見逃さないで欲しい。

そしてさらに第一作の継承として重要なのは、そのように呪わしく禍々しい戦争の亡霊としての怪獣の破壊と人間たちの戦いを、大人の鑑賞に耐えうるエンタテインメントとして成立させる精神である。
そこでまず自らVFX作家でもある山崎貴が、渋谷紀世子VFXディレクターらとともに作り上げた特撮映像だが。それ自体非常に迫力あるもので、陸上においては前述のように「踏む」えげつなさ、その想像を絶する重みが体感的に伝わってくるのには恐れ入った。
そして最後の海戦ではゴジラによって大きく波立つことにより、海自体もみごとに怪物となった。待ちに待ったあのテーマ曲が流れるタイミングを見よ、これが娯楽映画というものだ。
その上で空中からの攻撃に至るのだから、観ているこちらも力が入る。パイロット神木隆之介の運命については、またしても『永遠の0』との比較で何かが言えそうだが、そこまでのネタバレは避けようか(まあ割と分かりやすい「これはひとひねりあるな」という描写があるけど)。自分は素直に、これでいいんだ-と感動した。
また、艦船を使った「わだつみ作戦」は「ヤシオリ作戦」よりは説得力を感じた。

役者では腕利きの整備兵をやった青木崇高が良かった。
病院の浜辺美波の姿は、『シン・ゴジラ』(2016)の庵野秀明に敬意を表したんだろうか。まあ、エヴァ以前から怪我で片目の女の子というのは、萌え要素ではあるのだが。

注:自分はネットなどで見られる『永遠の0』の原作者の政治的姿勢や発言に全く同意しない者だが、そのことが映画の低評価につながってるわけではない。何なら、主人公がもっと歴然と帝国軍人としての使命に(彼なりに)目覚めて特攻を志したことが露骨に描かれていて(困ったことに-ではあるが)感動させられた方が、評価したと思う。例えばの話だが、夕日をバックに飛び立つ特攻機群を見て日の丸を連想して決意するとか。あの映画はそんな風に「危険」でさえない。いろんな意味で中途半端で、しかも、面白くなかったのである。

清水宏監督のレア作2本『桃の花の咲く下で』(1951)『明日は日本晴れ』(48)

Facebook への複数の投稿を組み合わせ、手を加えたものです。

清水宏監督の比較的レアな作品を、別の映画館で続けて観ることができた。

まずは神保町シアター笠置シヅ子特集で『桃の花の咲く下で』(51)。
終戦後の貧しさ濃い都会で、歌入りの紙芝居屋として働く笠置。もとは夜の女だったが、産んだ男の子は育てる余裕がなく、父たる男とその妻の家庭の養子に出していた…。
黙っていても笑っているような顔の笠置が元気に哀しい女を演じるのがミソで、独特の胸つかむ叙情がある。河原で去りゆく息子とその友だちを見送るカットなど素晴らしく、全身がジンと来る。温泉地の川にかかる粗末な橋の使い方など、この監督らしい細部も魅力的。安直にも思われかねない「簡単なマスクで正体を隠す」といった設定も、紙芝居の荒唐無稽が実生活にまで及んでいると考えれば、映画らしくて面白い。
だが笠置の歌うシーンで子どもたちがいまひとつ楽しそうに見えないなどの疑問点があり、傑作とは言い難い。特に冒頭、歌いながら子供たちを引き連れるのを長回しの斜め後退移動で撮るという魅力的になりそうな場面で、子供のみならずすれ違う大人までもが生気のない表情をしているのには(悪い意味で)動揺してしまった。いまひとつピリッとしたところのないストーリーといい、清水宏監督としては力の入り切らなかった仕事と言えるかも。リアリズムとミュージカルを融合する道が見いだせなかったのか。
それでも前述のような魅力的な要素で見せきってしまうのはたいしたもので、これが初仕事となる鳥居塚誠一の美術も見応えがある。

続いてシネマヴェーラ渋谷で『明日は日本晴れ』(48)。
『桃の…』と比べてもレア度は圧倒的で、公開後長らく観られず幻となっていたのが、昨年の国立映画アーカイブ「発掘された映画たち2022」(※注)でお目見えしたものだ。
清水宏監督で題材は田舎の路線バス-といえばただちに戦前の傑作『有りがたうさん』(36)を思い出すひとも多いだろうが、決定的に違うのは本作では峠越えの最中に故障し、止まってしまうことである。要は「動けないバス」の映画で、陽光の下の開放感ある停滞感が独特だ。
乗合車両なので、『駅馬車』(39)のように個性的な人物が入れ混じって社会の縮図を形作るわけだが、皆が戦争の影を負っているのが重要だ。片足の傷痍軍人が上官クラスの男に怒りをぶつける場面の鮮烈さは、多くのひとに語られるところだろう。戦災孤児と思われる子どもを登場させてすぐに(タダ乗りだから追い出して)退場させるのだが、ラスト間際に再登場させて題名にふさわしい希望ある行動をさせるあたりも、心憎い。
東京から帰省したワケアリ女の国友和歌子の描き方も素晴らしく、二度にわたりアップになる脚の美しさ、サングラスを外すタイミングなど、ため息がでる。彼女が草むらに埋もれるようにしゃがんで勘のいい按摩と話す場面は、情感溢れる名シーンだ。
スターといえるのは運転手の水島道太郎だけ。オールロケーションで手早く撮られた低予算の独立プロ作品ながら、観るひとの数だけ異なる感想を導きそうな豊かさに満ち、時代に翻弄された人々への作家のまなざしが深い余韻を残す傑作中の傑作。国立映画アーカイブによって作られたプリントが、映画館で鑑賞できるようになった意義は大きい。

注:国立映画アーカイブ公式YouTubeチャンネルによる上映企画「発掘された映画たち2022」記者発表会での解説

人工の情感『アステロイド・シティ』(2023)

書き下ろしです。

ウェス・アンダーソン監督『アステロイド・シティ』(23)を観る。

50年代のアメリカ南西部の荒野の町の数日間を描いたものだが、全体が一本の戯曲ということになっていて、さらにその-劇作家の執筆に始まる-成り立ちを伝えるテレビのドキュメンタリー番組から映画は始まる。
こうした二重三重の構造があること自体は、ふつうのSFアクションでも-マルチバースとかで-ややこしくなりがちな現代映画の世界では、驚くようなことではない。アンダーソン監督もそれが「ウリ」になると思ってるほどピュアなわけがなく、「狙いすぎ」と思われる危険性があるのもじゅうぶん承知のはずだ。
それでもこのような入り組んだ構造にするのは、手つきを見せながら箱庭を組み立てるようなことが、アンダーソンが「必要」とした語り口だから-というしかない。

それが本当に身に染みついた作家性だと分かるのは、例えば少年少女の珍奇なカタログめいた研究発表会でもあるし、本作の-分かりやすい意味での-見せ場といえる宇宙人の登場だったりもする。特に後者については、「こういう『東スポ』的なのをヌケヌケと見せてくれるのがアンダーソンなんだよ」と、嬉しそうに言ってみるのも悪くはない。
だが自分としては、カメラマンの男と町の有名人たる女優が、向かい合った窓を通じて語り合うシーンに漂う情感に、「ウェス・アンダーソン、こういう人工世界でこそ気の入った演出ができる体質の『映画監督』なんだな…」と、感じ入ってしまった。
そこでの「相対する建物の距離を保ちつつ語り合う男女」という設定が、後半、(戯曲の)舞台裏での男優とその妻を演じるはずだった女優という形で変奏されるとき、「ああ、確かにこういう構造でしか生み出せない感動もあるのだな」と、深く納得してしまう。架空の戯曲に対する現実の女優という存在が、戯曲の世界側から見ると死んだ(ということになっている)妻であるため、あの世の幻のように感じられてしまうのが、実に切ない。

ところでアステロイド・シティという町のウリは、古代に隕石が落ちた跡の巨大なクレーターで、宇宙人も残された隕石のカケラを「借り」にやってくるのだが。モデルは言うまでもなく、アリゾナに実在する "メテオ・クレーター" だろう。この場所と宇宙人というと、ジョン・カーペンター監督の『スターマン / 愛・宇宙はるかに』(1984)のラスト・シーンを思い出す映画好きも多いと思う。
俺は実はそのことを知らずにツアーで訪れて、見たとたん驚いて(公園の)受付の女性に「ここ、『スターマン』の…」と言ったら、彼女は顔を輝かせて「そうよ! ジェフ・ブリッジスがそこの入口を通って行ったのよ!」と答えたのだった。してみると、俺もアステロイド・シティの住人と話したことがあるのではないか。戯曲の中ではなかったけれども。

分裂した彼-『白鍵と黒鍵の間に』(2023)

書き下ろしです。

冨永昌敬監督作『白鍵と黒鍵の間に』(23)をイオンシネマ板橋で。

舞台は80年代の銀座。ある一夜に、夢抱える若きジャズ・ピアニストと、その3年後の姿が、すぐ近くの別の場所に同時に存在するような、不思議にねじれた物語。
池松壮亮が演じる分裂した「彼」を取り巻く人物たちは、各々の生々しさをもって「街」を構成し、映画全体が生き物のように呼吸するのに寄与する。中でも仲里依紗は、姉貴的役を気持ち良さげに、しなやかに演じつつ、鼻につくようなところがない。これはすごいなあ。

「若きピアニスト」が、キャバレーのバンドを辞める決意をサックス奏者の松丸契に語るシーン、狂気のヤクザの森田剛と二人三脚をさせられるシーンなど、舞台が路地裏/裏通りになると何とも言えぬ匂いが漂うのは、監督の特質がにじむところ。こういうのを持ってる作家は強い。

「3年後のピアニスト」が、クラブの「花瓶」的な飾りとして弾き続けるのを拒絶し、本当にやりたいジャズのセッションをする場面は、本作の音楽的なクライマックスだ。池松の弾きっぷりもさることながら、クラブの姉ちゃんたちのふんわりとした踊りや、吹き抜けの上階からのサックス奏者の参加など、演出的にやれることを全部やる勢いなのがいい。
見逃してはならないのが、その前哨戦として、路地裏のゴミ捨て場で、ボロいピアノとサックスのフリーなセッションがあったことだ。つまりクラブでのセッションは、路地裏の音楽としてのジャズを持ち込んだものともいえる。ならば路地裏のブギウギ・ピアニスト(だったであろう)ジミー・ヤンシーの名が出されるのにも納得する。

セッションは大いに盛り上がり、「3年後のピアニスト」の音楽学校留学用のデモテープとして無事録音されるかというと「そうはうまくいかない」のは、多くのひとが予想するところだろう。いかにも簡単にハッピーエンドにはならなさそうな、皮肉でオフビートな映画だからだ。
となると「うまくいかない」こと自体、ある種の予定調和になりかねない危険もある。それを打破するのが、洞口依子演じる母親と、もうひとりの(「3年後の彼」からさらに数年後?の)「彼」の登場だ。自分はここに、作り手の監督の-男としての-正直な心情を見るような気がした。主人公のダメさ(あるいは「ダメになってしまう」不安)を、心を込めて受入れてる気がしたのだ。

やがて映画は朝を迎え、ねじれた構造を完結させるエンディングに向かうのだが。ここで自分は「こうあればいい」というラストを期待しちゃっていたことを告白しよう。朝のひとけの無い銀座を、暴走族がクラクションで(本作での重要曲である)『ゴッドファーザー 愛のテーマ』を鳴らしながら疾走する-というのを、望んでしまったのだ(※注)。それはたぶん、同じように「街」をテーマとした『フェリーニのローマ』(72)が頭をよぎったからだろう。
この映画はそうはならないし、ならなくて構わないのだし、自分の予想にとりつかれちゃった俺は観客としてあまりよろしくなかったなあ…と反省もするのだが。『フェリーニのローマ』を思わせたこと自体、凄いことだと思う。実際はきちんと終わっているし、これだけねじれていても、観たあとの気分は清々しい。

そして今も不思議と印象に残るのは、ちょっとジンジャー・ルートを思わせるサックス奏者の姿なのだ。彼は上階ではなく、宙に浮いて吹いてたのではないか。背に羽根を生やして。

注:若いひとは御存知ないかも知れないが、この時代の暴走族のクラクションといえば、『ゴッドファーザー 愛のテーマ』だった。

大人の青春活劇『17歳は止まらない』(2023)

書き下ろしです。

北村美幸監督作品『17歳は止まらない』(23)を観る。

農業高校で畜産を学ぶ瑠璃は、年上好み。同年代の男の子に対するツンと好きな先生へのデレの落差が異常で、特にデレ時のウザさが凄まじく、その歯止めの効かなさは正にタイトル通りだ。やがて恋情が爆発してその末に…というお話。

冒頭、孵化したヒヨコたちの小屋にツナギを着た女子高生4人組が「うわあ!」と突入するのをローアングルで捉えたショットのイキの良さから、目を開かせられる。
続く彼女らの芝居は自然なのだが、自然っぽさをこれみよがしに強調するような演出ではなく、役者たちの若さがそのままイキイキと反映されてる感じで気持ち良い。それぞれの個性を感じさせた上で、主人公の瑠璃にすんなりと焦点が絞られていくのも、巧みだ。

瑠璃の先生への猛攻も「さあ、次はどうなる?」というサスペンスでグイグイと引っ張ってくれる。恋に燃えてほぼ珍獣化してるキャラクターの描写が演出・芝居ともに良いのだが、そもそもの脚本での展開がいい。
飲み慣れない酒の勢いで宿直中の先生に会いに行くというのは、主人公の芝居にだけ頼ればあざとさ過剰になりかねない、危ういシチュエーションなのだが。友だちふたりを絡ませ、なおかついいタイミングで離脱させることで上手に持って行ってる。もちろんそれは、シーンの狙い以上のものを体現化してくれた少女たちの力でもある。
かと思えば、学校の階段で「相談があるんです」と呼び止めるところは、関係ない生徒たちが次々と通り過ぎることで、ふたりの間の緊張感が強調される。そして先生の家を訪れてからの展開は、本作の大きな見せ場だ。アパートの窓、扉、自動車等々の装置がみごとに機能して段取りが踏まれ、「行くとこまで行く」にはここまでしなきゃダメだという周到な展開を見せる。これがあって瑠璃の異常な諦めなさが際立ってくる。

一方で農業高校の畜産科という設定は、まず観客を引き付ける興味深い珍しい舞台として機能する。その上で、育てた鶏を自分で食肉にするということ、子牛の誕生の目撃などがしっかりと撮られていて、"命" のさまざまな場に向き合うことが生命力あふれる時期の彼女らにふさわしいのだな-と納得させられる。
体験のひとつひとつを、映像として目で見ることで納得させられるのだ。

そしてこの畜産科での学びは、瑠璃の恋愛の顛末と離れてはいない。どちらも、「望んでも、どうしようもないことはある」という、青春の直面する非情さにおいて共通する。
その非情さを描く上で、作家は主人公に共感を寄せながらもしっかりと距離を取り、ある局面においては意地悪でさえある。
そこがいいのだ。いくつかの青春映画が青春に寄りそうあまり甘っちょろく、場面によっては恥ずかしくて見てられないものになるのに対し、本作はちゃんと大人の視点で、大人の鑑賞に耐える青春活劇に仕上げてある。

役者はみんないい。瑠璃を演じる池田朱那は、本作で何らかの賞を与えられるべきだろうと思う。
魅力的なロング・ショットがあるのも良かった。

フレッド・アステアのホップ・ステップ・ジャンプ

Facebook の過去投稿をいくつか組み合わせたものです。

ハリウッドを代表するミュージカル・ダンサー(そして役者なおかつ歌手)として今では伝説的存在のフレッド・アステア。舞台では既に名声を得ていた彼の映画界への進出は、3本の作品でみごとにホップ・ステップ・ジャンプを決めて、トップ・スターの座に躍り出てみせたものだった。

まずは正真正銘の映画デビュー作『ダンシング・レディ』(1933)。

ジョーン・クロフォードの貧しいダンサーがクラーク・ゲーブルの天才演出家のレビューの主役となり、紆余曲折あって舞台は成功、男女としても結ばれる話。
クロフォードは美しいが、この頃から既に顔はコワイ。重要な脇の青年富豪役のフランチョット・トーンは、本作の2年後に彼女と結婚した(※注1)。アステアはドラマの本筋には絡まず、クロフォードの舞台でのダンス・パートナーとして、本人役で登場する。

映画自体は、なかなか面白い。ロバート・Z・レナード監督の演出に才気があって、かっちり組み立てたコンテで切れ味よく見せていく。
稽古場のシーンの踊り子や舞台スタッフたち(※注2)の配し方、表情の捉え方が的確で雰囲気が伝わるし。ピアノの音が離れた部屋で効果的に漏れ聞こえるところも巧い。凝ったカメラアングルを見せるレビュー・シーンばかりでなく、プールのシーンの水中撮影やキューバのクラブのクレーン撮影などに、視覚的演出の冴えも感じられた。

アステアは前述の通りチョイ役だが、クライマックスではダンスをしっかり(歌も少々)見せてくれる。最初の映画からトップハットに燕尾服というのは嬉しい限りだし、身のこなしもほれぼれする。
だが当時、何も知らずに観たら-少なくとも自分は-「ダンスの上手いひと」とは思っても、ものすごい大天才とは気づかなかったんじゃないだろうか。なんせこの映画でのアステアは、自伝(※注3)によれば「ダンスを映画に撮影する方法をまったく知らなかった」ので、「ほとんど言われた通りにやった」のであり、自分で自分の個性の出し方を決めることが出来なかったのだ。くわえて、クロフォードとのコンビネーションもいまひとつに思える(ただし、クロフォード自身はハリウッド新参者のアステアに親切だったようだ)。

次はいよいよジンジャー・ロジャーズとの初コンビ作『空中レヴュー時代』(33)である。

主演はジーン・ネグレスコとドロレス・デル・リオで、アステアは相変わらず脇ではあるが、かなりドラマ上の出番は増えている。親友ネグレスコのプレイボーイぶりに苦言を呈するのが、後に主役として演じる役の真逆で面白い。ドロレスは最近、後年の『逃亡者』(47)『燃える平原児』(60)を観たばかりなので、若き日の大輪の花のような美貌が新鮮だ。
物語はネグレスコの若きバンド・リーダーがリオ・デ・ジャネイロの実業家の娘のドロレスに恋し、やがてドロレスの父のホテルのために世界初の "空中レヴュー" をやってのけて、大成功を収めるというもの。これにドロレスの婚約者との恋の鞘当てがからむ。

ストーリーはよくあるもので、展開もかなりとっちらかった印象だが、これが面白い。ソーントン・フリーランド監督が随所に遊び心を発揮して、最初から最後まで脳天気な調子が一貫した祝宴的映画に仕立てている。
ネグレスコとドロレスが無人島に不時着してからの顛末など、コントみたいな感じだが「これはこれでいいじゃないか」と思えるし。群舞の演出は『ダンシング・レディ』同様、当時最新のバスビー・バークレーに影響を受けたものだが、フリーランドは『フーピー』(30)でバークレーの映画デビューに関わってるだけに、余計にうまく応用している。飛行機を使った "空中レヴュー" という荒唐無稽なアイデア自体、ナンセンスで楽しい(※注4)。

その上で、やはり最大の見せ場はアステア=ロジャーズの踊る「カリオカ」だろう。二人が踊り始めたとたん、「これはとんでもないことがはじまった!」と電撃に打たれたようになる。前作のクロフォードとのダンス・シーンとは比較にならないほど、輝いているのだ。
それはアステア自身がダンス演出に関わったということと、やはりロジャーズとの相性の良さが大きいと思う(※注5)。アステアほど天才的なダンサーではないにせよ、二人で醸す独特の雰囲気は-歌でいえばマーヴィン・ゲイ=タミー・テレルのように-唯一無二で、名コンビとしか言いようがない。これなら当時、何も知らずに観ても、歴史的瞬間を目撃している実感が持てただろう。

『空中レヴュー時代』で大好評だったアステア=ロジャーズのコンビは、以後、主演作を連発することになる。その記念すべき第一作が『コンチネンタル』(34)だ。

ドラマの内容はロジャーズの離婚騒動をめぐるコメディで、アステアが舞台でも演じたミュージカル『陽気な離婚』を映画化したもの。これ以後、アステアが得意とする "遊び人めいてはいるが恋には人迷惑なぐらいに一途" というキャラクターが、映画で確立されたように思える。
先の2本が-ごく些細な例外もあるが-基本的に話の中でも音楽が演じられる設定でミュージカル・ナンバーになるのに対し(※注6)、ここでは歌や踊りが通常の芝居と同等に扱われる。要は皆さんがイメージする "日常生活でいきなり歌い出す" ミュージカル映画で、それだけに多様なシチュエーションでアステアの技芸を楽しむことができる。
中でもコンビのダンス・ナンバーとしても曲単体としても有名な「ナイト・アンド・デイ」は最高で、"恋の口説きと陶酔" というテーマのもとにこの上なく美しい踊りを見せてくれる。

ただしこの映画、今回の3本の中ではドラマ部分はいちばん面白みに欠けるように思える。自動車の追跡を入れたり芸のありそうな脇役のギャグを絡ませたりしてる割には、どこか野暮ったい停滞感がある。これは同じマーク・サンドリッチ監督の(アステア=ロジャーズの最高作との評判もある)『トップ・ハット』(35)でも感じたことだ。
やってることは別に間違ってないので、他愛ないドラマでノセてくれるような監督がいかに凄いかということだ。スタンリー・ドーネンと言わずとも、エルヴィス映画を多く手がけたノーマン・タウログだって偉かったんだな-と、思わせられてしまう。

というわけでひたすらフレッド・アステアを、そしてジンジャー・ロジャーズとの名コンビを楽しむための映画と割り切るのがいい。
アステアは芸も凄いが、人間としてのフォルムに類例がない。常に一筆書きの曲線で描けそうな姿を見せてくれる。その点においては、多少退屈なドラマ・シーンでも、何か不思議な存在としてあり続ける。

本作ではミュージカル・シーンのみ、急にフィーチャーされるベティ・グレイブルも強烈だ。このとき18歳。文字通り輝いていて、いわゆる "ゴールドウィン・ガールズ" の中では頭一つ抜けた感じだが。スターとして花開くにはこの後もう少しかかったようだ。

注1:ふたりの結婚生活は4年弱しか続かなかったが、クロフォードは晩年のトーンを手助けし、死後、遺灰を彼の望み通りにカナダのマステカ湖に撒いた。

注2:クロフォードのオーディション場面の直前あたりで、舞台スタッフの4人組がドツキ漫才風の暴力的コメディ・シーンを見せるが、彼らこそ翌34年から主演作を連発して人気を博す "三ばか大将"(モー・ハワード、カーリー・ハワード、ラリー・ファイン)と、その舞台時代のボスであったテッド・ヒーリーである。

注3:『フレッド・アステア自伝』フレッド・アステア著、篠儀直子訳、青土社

注4:空中レヴューのシーンでは、踊り子たちが胸もあらわなシースルーを着ている。「昔の映画なのに!」と驚く方もいるかも知れないが、アメリカ映画が "ヘイズ・コード" という倫理規定に支配され始めたのは、本作の翌年にあたる1934年からであった。

注5:アステアは、ロジャーズと本作が初対面ではなく、舞台でのミュージカル・ナンバーの相談役になったことがあり、親しい友人であった。

注6:そうした意味で昔のミュージカル映画には-『ダンシング・レディ』もその典型だが-レヴューのバックステージものがやたらと多い。それらで本格的に歌と踊りが繰り広げられるのはクライマックスでレヴューが演じられる部分に過ぎず、今のひとがイメージするミュージカルの感覚とは少し違うような気がする。

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ダンシング・レディ(字幕版)

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空中レヴュー時代(字幕版)

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コンチネンタル(字幕版)