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力作『窓ぎわのトットちゃん』(2023)

書き下ろしです。

八鍬新之介監督作『窓ぎわのトットちゃん』(23)を観る。
言わずとしれた黒柳徹子の大ベストセラーの映画化で、黒柳は製作にも名を連ね、ナレーションも務めている(※注)。

勉強不足なことに自分はこの原作、読んでないのだ。ただしそんな自分でも、"トットちゃん" と呼ばれる幼い頃の黒柳が、問題児扱いされて転校し、新たな学校のユニークな教育方針のもと、のびのびと育つ話らしい-ということは知っているし、映画を観てもそういう部分が大きかった。…というのは、それだけではない部分も充分にあったということなのだが。

アニメの絵柄はちょっと癖のある感じの個性的なもので、予告を観たとき「苦手かな」と思ったのだが、本篇でも馴染めなかった。
逆にピッタリ来るひとならば、最初からずっと「ノッて」観ることができるだろう。それ自体は-自分の嗜好に合わなかったのは残念としても-良いことなんだろうと思う。

では、そうした "タッチ" 以外のドラマ演出的な面はどうだったかというと、これはかなりしっかりと作ってある。
登校の際に通る改札のオジサンとの交流とか、新しい学校での教育内容の描写など、丁寧に押さえていくことで、気持ちよく主人公のトットちゃんに寄り添って観られるようになっている。もちろん、トットちゃんの個性というか言動の特徴もよく伝わってくる。

一方で、「これはどうかな?」と思ってしまう箇所もある。
ここからはネタバレ全開になるが。例えば、(電車の車両が校舎になっている)学校に新しい車両が来ると知った子どもたちが、「どういう方法で来るか」を話題にした後で、未明に来るのを見るシーン。
ぼんやりとしたモヤの向こうから、いよいよ車両がやってくる。うっすら影が見えてきた。さあ、どういう風に!?…というところで、あっさりカットを割って、方法が分かる画面になってしまうのは、物足りなかった。近づくにつれ影から実体になる描写がアニメ技術的に難しかったにしても、ここはもう少し子どもたちの見た目で「うわぁぁぁ…」と徐々に真相が目の当たりになる感じが出なかったものか。『フェリーニのアマルコルド』(1974)のドドーン!と船が出てくるのとは、違うのだから。
また、仲良しの "泰明ちゃん" と木の上に登る(というかトットちゃんが登らせてあげる)ところは本作の重要シーンのひとつだと思うが。最初のうち失敗して落ちるふたりを直接描かない(別のものをカットインする)のは、どうかと思った。
ここはしっかり子どもたちのアクションや痛みを描くところで、カットインは美的に逃げてる感じが-少なくとも自分には-してしまったのだ。

しかしそうした細かな不満も、後半、トットちゃんと泰明ちゃんの美しい夜の雨のシーンから、お父さんが家でヴァイオリンを弾くのを経て、悲劇が訪れ、トットちゃんの走りになるまでの流れの凄みで吹き飛んでしまう。
この次から次への展開に、作り手たちの「これだ! これを見せたいんだ!」という気持ちが濃縮されているのが素晴らしい。そこでは幼いトットちゃんの個人的体験が、生きた時代と離れがたいものとして、アニメーションという表現に昇華されているのだ。
その熱気に打たれ、感情を掻き立てられる手応え。自分には、尊重すべき "力作" という表現がピッタリ来るように思えた。
決して甘い映画ではないのだ。

ただ、ラストでもうひとつ、ちょっと見過ごせない疑問点があった。
赤ちゃんを抱えたまま走行中の汽車のドアを開けるというのは、いかがなものだろうか。いや、あのシーンは半分幻想で、ドアを開けたのも「つもり」だったのかも知れないけど。絵面では、はっきりそういう危ないことをしてるわけで、自分にはしっくり来なかったな。皆さんはどうだろうか。

それにしても、ここんところ続けて本作、『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』(2023)、『劇場版 SPY×FAMILY CODE: White』(23)と観て、改めて日本のアニメは凄いと痛感させられた。
評判の良い "ゲ謎" だけじゃなく、そこまででもない "スパファミ" もキレイだし、しっかりエンタテインメントしようという気概が伝わってくる。去年全体を振り返ると宮崎駿新作だけじゃなく "スラダン" もジャズのやつもあったし。映画の中ではアニメと縁遠かった自分だったけど、しっかり観ていかなきゃなあ。

注:最初と最後に出てくるだけで、全篇に流れるわけではない。