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芸術的珍品『あるじ』(1925)

書き下ろしです。

2022年末に好評だったカール・テオドア・ドライヤー監督特集が、再び開催されている。
今回新たに加えられた3作のうち『あるじ』を観た。初見。1925年、ドライヤーが30代半ばのときに母国デンマークで撮ったもので、フランスなどで大ヒットし、映画史に名を残す傑作『裁かるるジャンヌ』(28)制作につながったという。

失業中のヴィクトルは家庭では暴君のように振る舞い、特に献身的な若妻イダに辛く当たる。その有様を見かねたヴィクトルの乳母マッスは、一計を案じる。イダを病気療養の名目で実家に帰らせ、彼女のいない生活の不自由を思い知らせようというのだ…。

マッスを演じるマチルド・ニールセンが貫禄たっぷりの肝っ玉おばさんぶりで、まずはこのひとの芝居を楽しむ映画と言えるだろう。
当時すでにデビュー40年のベテランで、この後も多くの映画に主演。42年には本作のリメイクで同じマッス役を演じた。彼女に肩入れして見れば、ワガママ男を凹ませて可愛そうな女性を救う痛快コメディに見えるわけだし、実際、そういうのが本作の "売り" なんだろうと思う。

しかし、どうもそれだけの印象ではない。
もちろん、ドライヤーらしいある種の徹底性を感じさせる美的な魅力はある。当時のデンマークの家庭を再現したセットは、リアルでありながらも、役者の動きとともに見事な映像を形作っていく。ストーブ、やかん、鳥かご、ネクタイ、机の脚などの細部が的確に役割を演じ、映画全体のテンポも着実。高度に完成された無声映画を観るときのしっかりした手応えを得ることができる。

しかし自分が強く揺さぶられたのは、この映画のヤバさというか、倒錯的なところだ。

まず前半のヴィクトルの横暴ぶりは、暴力的なサディズムを感じさせる。
ストーリー上この男が酷ければ酷いほど後半に効果が上がるんだから仕方ないじゃないか…という意見もあるだろうし、それはその通りなのだが。演じるヨハンネス・マイヤーの病的に凝り固まったような表情が、必要以上の悪魔性を感じさせてはいないだろうか。単に「荒れてる」のではなく、神経症的な怖さと一触即発の加虐性を漂わせている。
彼の家族への虐待の中で-デンマークではよくあるのかは知らないが-息子を壁に向かって立たせて手を後ろに組ませるというのがあり、その印象はとりわけ陰惨だ。その後のシーンで息子の後ろ姿が、さりげなく「道具」のように映り込んでるのに、何とも言えないものがある。

そして後半、ヴィクトルは思い知らされ、徐々に反省していくのだが。そんな彼はあたかもマッスに「調教」されているように見えてくる。マッスはマッスで支配下に置いた者を観察する「主人」となり、ふたりの関係はSM色濃厚に見える。
その関係の中でヴィクトルは「罰せられるべき者」としての自分に目覚め、子どもの立場に追いやられる…いや、自らを追いやるのである! 成熟した子どもという倒錯!
そして遂には-自分が息子に強いたような-鞭打ちをも受け入れる体勢で、壁に向かって立つことになる。それは、「調教を受け入れる者」としての、マゾヒスティックな「奴隷完成形」に見える。後手を組むことは、縛られることを受け入れるための決定的な仕草だ。

映画はそこまでやっておきながらヴィクトルとイダの再会(それも「主人」たるマッスの思惑通りなのだが)で、穏やかなハッピーエンドを迎えるのだが。倒錯性の印象は鑑賞後も澱みのように残る。
それが美しさへの感銘と共にあるのだから、これはかなり厄介な、一言では言い難い魅力ある映画だと言えよう。もしもクリント・イーストウッドが観たら、自分がヴィクトル役でリメイクしたいと思うのではないだろうか。

傑作である-と言うには、そんな明快な結論は似合わないような気がする。あくまでもコメディであることも踏まえて、異常に魅力的な珍品と呼びたい。ドライヤーらしい芸術性に満ちた珍品として、こわごわ、愛でていきたい映画なのだ。