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少年とアリス-『君たちはどう生きるか』(2023)

書き下ろしです。

宮崎駿監督の最新作、『君たちはどう生きるか』(2023)を、公開初日に観る。以下ネタバレを気にせずに書くので、嫌なひとは鑑賞後にどうぞ。

異例の-鳥のイメージ画を除いて-前情報全く無しという宣伝戦略がとられたので、かなりの異色作ではないかと予測していた。
例えば、あの鳥みたいな動植物が出てくるセリフ無しのイメージ・フィルムみたいなものではないか-とか。宮崎駿という監督の内省的な映像エッセイ、言うなれば『8 1/2』(1963)みたいなものではないか-とか。いろいろ想像はしてみたが、とりあえずなるだけ真っ白な気持ちでスクリーンに向かうようにした。

その結果、観たものはといえば、宮崎駿監督作品としてはそんなに異色でもなく、変でもない、少年の冒険物語だったのだ。
比べれば、大人の破滅的な恋愛を耽美的に描いた『風立ちぬ』(2013)の方が他の宮崎作品と趣が異なっているし、個人的には、主人公の行動の意味が分かりづらい『ハウルの動く城』(04)や、この世の終わりのような水害の世界で住人たちがのんびりしている『崖の上のポニョ』(08)の方が、「変なものを観た」印象が強く残った。
いや、もちろん世にあふれる娯楽映画の中では、充分に変な異色作ではあるけれどね。

ただ、宮崎監督としても-『風立ちぬ』ではなく-これを最後の作品と決めた理由のひとつに、やっぱり "子供が冒険する映画" を作り続けてきた自分らしい映画で幕を閉じようという思いがあったのではないかと思う。
とはいえ、もちろん手持ちのパターンに沿って一丁上がりというようなものではなく、誰も見たことのない独自性のある「何か」に辿り着こうとはしているし。「あれはどういう意味だったんだろう」と思わせるような謎には満ちている。

ではどんな内容か、おおざっぱに書くならば。
まず時代は第二次世界大戦の最中、主人公は戦火で母をなくした少年、眞人(まひと)。父が母の妹、なつこと再婚したことから、東京を離れて母の実家で暮らし始める。それは-旅館のように思われる-旧家の大邸宅で、妖怪のような使用人の婆さんたちがいて、庭は鬱蒼とした森につながっている。眞人は学校で、疎開した都会人にありがちなイジメに遭い、嫌になって石で自分のこめかみに傷をつけて休むことにする。一方、妊娠中のなつこも気分すぐれず、寝込む日が続く。

そのうち眞人は屋敷の周囲を飛び回る不思議な青鷺を追って、森の中に立つ古ぼけた塔の存在を知る。それは大おじにあたる狂人に近い天才が建てたものだという。ある日、眞人はなつこが邸宅を抜け出して、その塔の方へ向かっていくのを見る。そのままなつこは戻らず、眞人もまた塔に向かっていく。ひとつは、父の愛したひと(なつこ)を取り戻すために。ひとつは、青鷺がそそのかしたように塔の奥の世界にいる-死んだはずの-実の母に会いに行くために…。

明治・大正からの流れにある和洋折衷的な美術感覚をベースに、主人公の子供が失った親を求めて、引越し先の謎の地帯に足を踏み入れる-というと、宮崎作品の中では『 千と千尋の神隠し』がすぐに思い出されよう。自分に限らず観ていて「あれ? 男の子版『千と千尋』?」と思ったひとも少なくないのではないだろうか。

しかし女の子の千尋が-その行動原理が親恋しさであるとはいえ-異世界の中で自立した働き手として解決策を見出していくのに対し、眞人はどこか亡き母の幻影に依存し続けており、そのくせ "父さんのために" を自分の行動の言い訳にしているようなふんぎりのつかなさを感じさせる。
要は "親離れしてない" 印象を受けるのだ。

これは千尋と眞人というキャラクターの違いだけではなく、宮崎駿の男女観が反映されているのではないか。
自身が母性を抱えた少女に比べ、少年は親離れし難い存在なのだ。特に今回は最初に母を失うことから始めて、強烈なマザコン映画に思われることを恐れてないように見える。もちろん、マザコンっぽいことは事実だ。
だが同時に、単なるマザコンから抜け出ようとしているのも、はっきりと感じられる。

例えば、義母なつこを最後の方になって「なつこ母さん」と呼ぶのは、マザコン的な "唯一の母" から脱却しようとする心の表れだ。
しかも、この映画のなつこの描写は母というより異性であるように思える。登場時に人力車を降りる動きから一貫して、宮崎映画の女性の中でも際立って色っぽく描かれている。階段の上から父と母の接吻を目撃する素晴らしい場面は、はっきりと見ていない分、余計におとなの秘めごとに触れた印象を与える。

また実母との関係においても、少女時代の彼女と同年代の少年として共犯者になることにより、庇護者であったはずの母への依存とは異なる関係を結ぼうとする。それを経たからこそ、先述したように義母を「なつこ母さん」と-少女時代の母がそこにいるのに-呼べるようになったのではないか。

これはいかにもフィクション的な飛躍で、比べると例えば『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』(22)の母娘の対立と和解の方が、現実に近いように思える。少年が、"少女時代の母親と異世界への冒険者という同じ立場で共闘する" という現実では-心理的な要素としても-あり得なさそうな事態を、「映画だから」見せているのだ。

その中で二人は、あまりにも自然に、抵抗なく、事態を受け入れるのだが、こちらはむしろ「映画だから」というより「夢の中」のような心理と行動に思える。
人間は夢で、しばしば現実ではあり得ない心理や理屈で行動しうるのだ。だけどもそれは絶妙に現実での状況やふるまいとつながっており、二人は自分らの現実にも役立つような、求めている結果-言うならば眞人の親離れと成長-を得るために、夢らしい「都合」で動くのである。

夢というと『不思議の国のアリス』だ。
その絶大な影響力は、多くの創作者に自分なりのアリスの物語を描かせてきた。『オズの魔法使』(39)『キャンディ』(68)『ナイト&デイ』(2010)等々、アリスの変奏のような作品は数え切れず、恥ずかしながら付け加えると、自分もかなりそれっぽいの(※注)を作ったことがある。

そして宮崎駿は『千と千尋の神隠し』という、日本版アリスの物語の決定版といえる傑作をものにしているわけだが。
今回、眞人が異世界で出会う少女時代の母親が、アリスそのもののコスチュームであることには、正直、動揺してしまった。戯画化された王国のパレードに辿り着く点なども含めて、実にアリスを思わせる映画になっている。
つまり眞人は、『不思議の国のアリス』の世界に投げ込まれた少年なのだ。何というアクロバティックな趣向だろう。

その世界で、最も宮崎駿自身に近い立場にいるのは、眞人でも母親でもなく、異世界の長老となった大おじであろう。彼は作り手であり、演出する者のようにも見えるからだ。
その現実世界での行為が、宇宙から来たむきだしの塔を-多くのひとを犠牲にして-包み込むという、フロイト好きが解釈したら下品な意味にとられそうなことなのだが。この点については、夜空に昇るワラワラたち(これが実に『すみっコぐらし』的にかわいい)が胎児というよりむしろ精子に見えてしまうことも含めて、後々考えてみたい。

とりあえず、本作での大おじの世界の最後について書かせて頂くと。
彼は自分の血を引いた者である眞人に世界を委ねようとして、それを裏切りとしたインコの王に積み木を崩され、世界崩壊に至ってしまう。
このインコの王が宮崎妖怪的なおどろおどろしさのない、まるでマンガな存在なのに注目したい。これがまた大おじが宮崎駿であるゆえんで、彼は自分が描いた "いかにもアニメーションのキャラクター" に、怒られ、世界を壊されてしまうのである。
こはちょっとフェリーニの作家らしい自滅願望的な内面告白にも似ていて、『8 1/2』的という予想も当たらずとも遠からずかな-と思うのだが、いかがだろうか。

注:オムニバス映画『LOCO DD 日本全国どこでもアイドル』(2017)の一篇『富士消失』