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アイダ・ルピノ監督作『恐れずに』(1950)『暴行』(50)『ヒッチハイカー』(53)

2022/5/3 および 2022/5/10 の Facebook 投稿を組み合わせたものです。

シネマヴェーラアメリカ映画史上の女性先駆者たち」特集で、初めてアイダ・ルピノが監督した映画を3本観た。言うまでもなく『ハイ・シェラ』(1941)『危険な場所で』(51)などの名女優である。ただし彼女は監督作に出演しない方が多く、今回観たいずれも演出に専念している。

まず『恐れずに』(50)は初めてルピノの名前が監督としてクレジットされた作品(※注1)。隅々まで演出のやる気が感じられるシリアスなドラマだ。難病に襲われて障害者となった踊り子が、苦悶しながらも乗り越えようとする姿を描く。
ヒロインは振付師でもある恋人とダンス・デュオを組んでおり、冒頭の練習シーンでうまくできないかもと泣き言を言う。この脚本(※注2)が、すでに巧い。それゆえ続く本番で観客はヒロインがミスらないかハラハラすることで感情移入しやすくなるし、また、ここで示された「自信の持てなさ」が後半、病と闘う上での鍵になってくるわけだ。
主役のサリー・フォレストは見た目麗しく、演技もルピノ監督の期待に応じようと懸命だ。ラストのセリフに頼らない芝居が引き起こす感動に、涙するひとも多かろう。撮影のアーチー・スタウトはフォードの『アパッチ砦』(48)『太陽は光り輝く』(53)のひとで、戸外の光の捉え方に冴えを見せる。プールのシーンの撮影も良い。

続く『暴行』(50)は、性犯罪が事件後も残す苦しみというテーマが現代にも通じる意欲作。心身ともに健康なヒロインが突然の不幸に襲われ、彼氏とも亀裂が生まれ、療養先で魅力的な男と何とも煮え切らない交流をする-という話の骨格は、前作とよく似ている。
これが初主演のマーラ・パワーズは前作のフォレスト以上の大熱演で、当時18歳の可憐なルックスゆえ、悲痛さが胸に突き刺さる(※注3)。
冒頭から見応えある場面ばかりだが、ヒロインが失踪先で事件を起こしてしまう一連は、息をのむ。まだ何も起きないうちから彼女がダンスする人々を見つめながら移動するだけのショットで、みごとに不吉な雰囲気を醸し出していて、全身の毛が逆立った。物凄い演出力だ。
社会派的な熱量や才気ある工夫(※注4)だけではなく、ヒロインと牧師の関係にはどこか倒錯的な趣きもあって、興味深い。

ヒッチハイカー』(53)は監督作の中では恐らく最もよく知られた一本。乗せてやったヒッチハイカーが強盗殺人犯だったために、車を乗っ取られ、人質にされてしまうというサスペンスだ。
実話に基づいてるというが、ありがちなネタではある。ただしうまくいくとそのシンプルさゆえ引き込まれてしまうわけで、本作は創意あふれる脚本と切れ味のいい演出で、みごとに見せてくれる。
他の2本に比べて非常に男臭い映画で、嬉しいのは全篇に溢れる西部劇的な味わいだ。エドモンド・オブライエンをはじめとする男三人の関係は、さながらアウトローと人質にされたカウボーイたちのごとし。さかんに野宿するだけじゃなく、岩場で缶を撃って銃の腕を見せるわ、崖の上に伏せて眼下の騎兵隊-じゃなかったパトカーが行くのをやりすごすわ、ついには車を捨ててみんなで荒野を歩き出すわ…途中で寄るメキシコ人の雑貨屋も西部劇の店にしか思えない。人相書が重要な役割を果たしたりもするしね。
ピノは決して西部劇的なイメージの強い女優ではないが(有名なのは-未見だが-『秘境』(49)ぐらい?)、監督としてはきちんとつながってるひとだと分かる。
もちろん随所で見せるサスペンス演出も堂に入ったもので、映すべきものだけをきちんと映して登場人物を追い込む手腕は感嘆すべきものだ。常に無駄を排した効果を考えて撮られている。撮影はニコラス・ムスラカ。『過去を逃れて』(47)『らせん階段』(46)『キャット・ピープル』(42)のひとだ。

というわけでいずれも期待以上の作品だったのだが、興味深いことに、ルピノの演出には作家的な意欲だけではなく、職人監督的な早撮りの切れ味も感じられるのだ。俳優として場数を踏む中で、現場を動かすのに必要なことを吸収していったのだろう。後年テレビ演出を多く手がけているのも頷ける。

注1:監督作としてはその前に『望まれざる者』(49)があるが、本来の監督のエルマー・クリフトンが病に倒れたため、途中で交替したものであり、ノンクレジット。

注2:脚本はルピノ自身とプロデューサーのコリアー・ヤングとの共同。『暴行』『ヒッチハイカー』でも-他の脚本家も交えているが-共作している。ヤングは1948から51年までルピノの夫でもあった。

注3:パワーズはルピノの生涯の親友となり、遺言執行者に選ばれた。

注4:ひとつの画面の中で、中心となる芝居と同時に別の芝居が演じられているのを、あえて背景的なものにせず多発的に見せるなどの工夫が見られる。