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暗黒の南北劇『修羅』(1971)

書き下ろしです。

目黒シネマで松本俊夫監督作品『修羅』(1971)を、恐らく40年ぶりぐらいに観た。
鶴屋南北の名作歌舞伎『盟三五大切(かみかけてさんごたいせつ)』と、それを石沢秀二劇団青年座用に脚色したものが、原作となっている。南北には先輩に当たる並木五瓶作『五大力恋緘(ごだいりきこいのふうじめ)』を大胆に書き換えて、忠臣蔵外伝に仕立てた一作。
人間関係が絡んで進むストーリーの運命劇的な面白さに、奇想、残酷、反道徳…と、南北の特徴がみごとに生かされ、自分が知る中でも『東海道四谷怪談』『桜姫東文章(さくらひめあずまぶんしょう)』『絵本合法衢(えほんがっぽうがつじ)』などに匹敵する南北劇の傑作だと思う。

貧困の中に暮らす赤穂浪人、源五兵衛のもとに、臣下の八右衛門がやっとの思いで用立てた百両を持参する。仇討ちの義士の列に加わるために、必要不可欠な金なのだ。だが源五兵衛は、惚れた芸者の小萬と(実はその亭主の)三五郎の計略に引っかかり、そっくり騙し取られる。復讐の鬼と化す源五兵衛。一方、小萬と三五郎にも、どうしても百両が要るわけがあった…。

源五兵衛に中村嘉葎雄、小萬は三条泰子、三五郎が唐十郎で、八右衛門を今福正雄(のちの今福将雄)が演じ、それぞれにいいが、中でも中村と唐が素晴らしい。
強烈な目力で熱演する中村は非常に泥臭い印象だが、南北劇の描線の太い野蛮な味わいをみごとに体現している。もちろん現・片岡仁左衛門のような麗しい二枚目が南北劇を演じるのも美しい絵面を作るのだが、それぞれ別の良さがあるのだ。映画の『四谷怪談』の伊右衛門を演じるのに、野性的な若山富三郎も眉目秀麗な天知茂も別の決まり方をするようなものだ(※注1)。ここでは中村の泥臭い野性味が、修羅と化してからの殺戮に次ぐ殺戮を狂った野獣の止まらない暴力のように見せる。血まみれの小萬の手に刀を握らせて彼女の赤子を突き刺させる場面などショッキングだが、カッコ付きの「悪の美学」ではなく、ただただ憎しみに満ちた暴力行為の極北として描ききれている。中村の源五兵衛だからこそ成し得た南北世界の現出だ。
唐十郎の三五郎は、このひと独特の人を食ったような感じに加え、台詞回しや身のこなしにも歌舞伎や新劇に負けるものかという気概があり、また、非常に美しく撮られていて、感嘆するばかりだ。映像での唐というと、若松孝二監督作品『犯された白衣』(67)やテレビドラマ『黄金の日々』(78)が有名だが、それらと比べても代表作と言えるのではないか。中村の泥臭さに対し、こちらが都会的な粋や美しさを感じさせるのも、良いコントラストになっている。

松本俊夫監督は実験映画作家としてあまりにも有名であり、劇映画作品は2作目。このひとらしい通常の劇映画では見られない実験的な手法がとられているかというと、確かにそうなのだが、かといって決して分かりにくいわけではない。その実験性は全てかっちりとしたストーリーを語ること、劇的効果を高めることに寄与しており、非常に受け入れやすいものになっている。役者の芝居の見せ方もみごとで、劇映画監督としても並々ならぬ力量があると思わせてくれる。
全篇、ほとんど闇の中と言えそうな照明を落とした白黒映像で描かれるのだが(※注2)、時間設定も夜なのだから不自然なわけではない。実は記憶では抽象的表現に見えるぐらいの闇という印象だったのだが。今回観直すと、きちんとセットを組んで(あるいはロケセットを飾りつけして?)暗部の多い照明をしているのだった。その思い切りの良さは実験精神といえるかも知れないが、決して奇矯でも、これみよがしでもない。観ていて「こういうものだ」と素直に入ってくる。
他に実験的な要素を挙げると、ふたりの人物が向かい合って座って会話している設定で、まずひとりを正面から撮って、スッと横移動すると、これも正面向いた相手が語りだすという演出がある。実際の撮影現場では横並びになってるわけで、普通のドラマ演出なら考えられない。しかしこれによって強調される舞台劇的な平面性が、観ていて違和感を感じさせない。この映画ならではの会話演出の手法を自然に作り上げた印象で、「こうあるべきだ」とさえ思えてくる。
また、カットを割って動きをダブらせたり(つまり-例えば-誰かが立ち上がるまででカットを割り、次のカットで立ち上がり出すところから始めるなど…お分かりでしょうか?)、先に挙げた会話の撮り方でもだが、いきなりカメラが-誰かの動きを追うわけではなく-移動を始めたり…といったのも、風変わりな演出と言えそうだが。歌舞伎的な音楽性というか間合いのリズムが確立されているため、いちいち「キマって」見えてしまうのが快感になっている。座っている唐の三五郎に斜め前からカメラがスッと寄って「儂(わし)でござんす」と言うところなど、シビれる。
つまり、ただの "感性" とやらで変わったカットつなぎやカメラ移動をしてるのではなく、歌舞伎的なリズムをしっかり会得した上で映像演出に反映させているから、いちいちツボにはまって来るのだ。ここで鈴木清順という名を思い出すひともいるかも知れないが、確かに共通するものはある。清順映画が好きなひとなら、かなりの確率でお気に入りの作品となるであろう。何なら、清順映画の中でも個性全開で奇異の領域に至ったもの-『悲愁物語』(77)や『カポネ大いに泣く』(85)など-についていけなくても、こちらなら大丈夫と言ってしまえそうである。

というわけで、本作は多くのひとに勧められる「思ったより分かりやすい」傑作なわけだが。今どき心配になるのは、時代劇の基礎知識の部分である。忠臣蔵とはどんな話か知らないとダメだし、"塩谷の浪人" というのが歌舞伎的には赤穂浪人を指すということも知ってなければいけない。重要なキーワードである "身請け" の意味を知らぬひとも多かろう。そのあたり、自信がなければネットで "盟三五大切" で検索して、先にあらすじなどを読んでおいてもいいかも知れない。
傑作はそのていどのネタバレになど揺るがないものだ。

注1:南北の代表的傑作『東海道四谷怪談』の映画化で主役の民谷伊右衛門を、1959年の中川信夫監督の同名作では天知茂が、加藤泰監督『怪談 お岩の亡霊』(61)では、若山富三郎が演じている。なお若山は、石沢秀二演出の舞台『盟三五大切』で源五兵衛を演じている。

注2:冒頭の真っ赤な夕日のみ、カラーである。