鑑賞録やその他の記事

『多十郎殉愛記』(2019)の贅沢さ

2019/5/22 の Facebook 投稿に手を加えたものです。

多十郎殉愛記』(19)は、いま現在、観たことそのものが事件になるような映画だった。
全ての瞬間に「この映画を作りたい」というスタッフ・キャストのはち切れるような想いが充満し、老将、中島貞夫監督の技術と心の演出が美しく贅沢に仕上げる。
贅沢さとは、お金の話ではなく、例えばカット数を少なく撮る精神だ。それは単純に長回し演出という意味ではない。カメラが回り始めたらそこはもう映画の場であるということを大切にし、タメにタメてカットを割る。割るというより、次のカメラが回る場にしっかりと手渡す。
ファーストシーンの桂小五郎に寄るまでのタメを味わえ。その緊張感さえあれば、敵が侵入してくる覗き穴のカットはスッと挿入することができる。できるのだが、誰にでもできることではない。「こうすれば映画はつながる」という確信だ。その演出の確信はお金で買えない「芸」の贅沢だ。
中島監督がその贅沢を得たのは、もちろん経験もだが御本人が映画が好きでたまらないからで、その気持が冒頭の伊藤大輔監督への献辞に表れている。続いて夜の門前のゆるやかなクレーン移動から入る…って、もう、ズルイぐらいだが、映画への覚悟があるからむしろ誠実だ。
その誠実さをもって、この映画は主演の高良健吾多部未華子をスターとして撮る。映画は役者で見せるものとばかり、高良を時代劇のスターとして撮るのだ。素足がさらけ出される着物の乱れに、手には刀、顎を引いた表情。殺気の抜けない痩躯の浪人。その姿をスターたらしめる型、立ち居振る舞いを、監督は心を込めて演出し、高良が全身全霊で応える。だからこそ眼にも映画の命が宿り、神社のシーンで刀を抜かずして腕前を見せるときの、「やはり彼はデキる!」という旧友の絶妙な反応も生きる。
そして多部未華子。長屋での長回しの絶妙なタイミングでの登場から、続く酒場のシーン、世慣れた姉ちゃんとして店を仕切りながら、ふと立ち止まり、サッと顔が乙女になる。切り返すと、孤独に飲む多十郎。もうここで、殉愛記の運命が動き出す。やがて彼女は二度、多十郎の刀に反応したアップを見せる。まずは彼女自身が抜いて刀の正体を知るとき、その後、多十郎の隠していた白刃がギラリと光るのを目撃するとき。刀は男女を引き裂き、しかし男は女のために刀を抜く。この相容れなさこそがドラマだ。そのドラマのために、多部未華子は「ここぞ」というときのみにアップになる。これもまた確信が生む贅沢さだ。
そんな多部と高良のアップとアップが恋情を盛り上げる庭のシーン。ここに石灯籠があるのがたまらなく良いのだが、こんな演出の調子で酔わせてくれるなんて、最近、観たことあるか?
クライマックスでの大殺陣は、やたら斬り合うだけではなく、竹やぶで身を隠しながらも相手を倒すサスペンスと汗まみれの力演が相乗効果をあげる。アクションは生きるか死ぬかのための必死の身振りの中でこそ生きる。彼は斬りながらも逃げ、姿をくらまし続けるのだ。だからこそラストの決闘でも、いつ敵の前に姿を見せるかがポイントになる。これぞ映画の語り方だ。いまどきの、あっさりと敵の前に身を晒してしまう対決には無い贅沢さをこそ、味わって欲しい。
ああ、それにしても多部未華子。「こんな女やからや」と言うときの着物の膝に置いた手をギュッと握り、目を落とす仕草! マキノ以来と言いそうになるこんな芝居を、彼女が見せてくれるとは!