鑑賞録やその他の記事

古澤健『いずれあなたが知る話』『見たものの記録』(2023)

書き下ろしです。

古澤健監督の新作を2本、試写で。

まず『いずれあなたが知る話』(23)は、出演者でもある大山大と小原徳子が、前者はプロデューサー、後者は脚本を務めた作品。古澤監督は準備の最終段階で、乞われて監督を引き受けたという。
大山演じるニートの男は、アパート隣室の母子家庭の若い母(小原)のストーカーとなり、一方で若い母は生活苦からホテトル嬢となる。娘のために身を犠牲にしているにもかかわらず母娘関係は次第に軋み始め、一方でニートはそんな彼女の不幸をただ見ているだけの鬱屈感と自身の不甲斐なさがもたらす劣等感で、次第に追い詰められていく…。

ニートが世界との適切な距離をとれずに狂うのをぬめぬめと記録する手つきや、何気ない住宅街が茫漠たる異世界としてあるような空間把握、人物たちがみな今にも消えそうな幽霊にように見えてくる感じなど、古澤監督の2020年作『キラー・テナント』に共通する部分が多い。
監督にその点を尋ねると「撮った時期が近いですし…」と言ってたが、それに加え『キラー…』がその後の作家人生を決定する大傑作というのもあろう。作家は自作に影響されるのだ。古澤健監督に『キラー・テナント』という映画が「来て」しまったのである。

もちろん彼に限らず映画作家たるもの、映画を「追い」ながら「来る」ことを願う存在であり、この「反転への欲望」はストーカーのそれと同じなのだが。一方、作品の構造的には「追われる」若い母の方も別個に-何なら日記的独白を字幕で表現する「主体」として-描かれ、彼女がどうやら「現実」と呼ばれる非情ななりゆきに蝕まれていく過程も見せてくれる。
そのうち彼女自身どんどん存在が希薄になっていくのだが、幽霊のように消えてしまう手前で何とか自分を取り戻すのは、奪われた我が子へのストーカーになることによるのだ。このアイデアが秀逸で、また、男ストーカーがそのことを全く理解できないのが破局をもたらすというのも、映画らしいドラマ構造でいいと思う。

そしてこの映画の中では、ストーカー的な「反転への欲望」を膨らませるための装置としては「窓」がしばしば登場し、行為としては「覗き」が描かれる。窓の向こうには覗かれる者の現実があるはずなのだが、ここでは覗く者の欲望なり妄想なりの反映となってしまってることが、さまざまな形で示される。
例えば、窓の手前に-カメラのファインダーという-もうひとつの窓を重ねることで。例えば、窓のガラスに覗く者(ストーカーでも若い母でもない婆さんふたり)の姿を写すことで。例えば、窓の向こうに実際には覗き得ない人物の「過去の映像」を-モンタージュ的に-つないでしまうことで。
だがこのような「覗いてたのは結局、自分の解釈した世界でした」というのは、ストーカー的に望んでいた「『追う』が『来る』になる反転」とはほど遠いもので、欲望を抱えたまま、ますます自分の中に閉塞せざるをえない。それが前述の無理解による破局につながっていくのだが、そのときもはや窓は機能しなくなるのだ。

こうして『いずれあながた知る話』は「開かれた窓が機能しなくなるまでの話」と解釈することができるのだが。その中で登場人物たちはそれぞれの「肉体」という檻の限界を超えられない現実が描かれる。
若い母はまさに自らの肉体を犠牲にして生きようとするのだが、ストーカーもまたAV業者襲撃に無様に失敗することで肉体の限界の中で悶え苦しむ。しかし古澤監督の手にかかると、これら呪われた肉体のありようが、どこかぎくしゃくして、喜劇的にも見えてくる。物語として展開するのは、間違いなく悲劇であるにもかかわらずだ。
それは古澤監督が映画を撮るときのみ、肉体と自分なりの距離を置く方法を会得してるからだろう。例えば、本作の演出では、登場人物にひょいと曲がり角から登場させるのが巧みである。そのとき、画面の中にほどよく肉体が招き入れられている感じがする。それによって映画が普通に物語る以上の何かを備え始めるのだから、この巧みさはありきたりではない、良い巧みさだ。

そしてまた、演出の巧みさは、演出「しない」部分にも表れる。
子役が折り紙(?)で遊ぶ即興は、演出なしでやらせてるように思えるが、反転への欲望やら肉体の呪縛やらに苦しむ大人たちの世界を超越した「ありのままのもの」に見える。制御しきれぬ幼き者の見せ方としては、かなり見事ではないだろうか。
この映画の「物語」はこの子にとって『いずれあなたが知る話』かも知れないが、このシーンはすぐにでも「もはやあなたの知らない話」となるのだ。その意味で映画全体からうまく「浮いて」おり、ここを撮ることで、古澤監督はまたしても映画に「来させる」ことに成功したのではなかろうか。
子役の一華も、主役ふたりと同様に良い。いや、役者はみな、なかなか良いのではないか。他にひとり挙げるなら、ビデオ屋店員のはぎのってひとが気になった。

ぷう。

もう1本の『見たものの記録』(23)は、映画美学校アクターズ・コースの修了生の女優たちが、講師の古澤監督に声掛けして、2019年夏から23年初頭までに断続的に撮られたもの。その日その日の出演者の都合に合わせて古澤監督が脚本を書き、「企画・脚本・撮影・照明・録音・編集:出演者一同」とされる実験的な作り方がなされた。

ドラマともドキュメンタリーともつかぬこの映画は、いろいろな意味で『いずれわたしが知る話』とは全く違うのだが。にもかかわらず、さっきまで『いずれ…』の感想を書いていたとき、ずっとこちらの映画も意識していて、何ならその感想も書いていたような気がするのだ。それはなぜか。
説明できるような形で自分で分かっているかも覚束ないので、両作を観たひとは、まず『いずれ…』の感想として、次に『見たもの…』の感想として、「ぷう」までを読んで頂ければ幸いである。ひょっとしたら二度おいしいかも知れないし、不味い上にさらに不味くなったら、本当にごめんなさい。

3点、つけくわえる。

まず、『見たものの記録』は題名に反して「見なかったはずのものの記録」でもあるということだ。
途中、明らかにカットがかかったあとのカメラ(iPhoneかな?)が撮影者の目から離れて捉えられた映像が入っている。古澤監督に確認したらその通りで、他にも通常使わないNGテイクを積極的に取り込んでいったという。「見る」とは「意識する」ということだ。「見ない」ことでカメラは意識を離れ、映像それ自体を残す。これは映画を裸にするということだ。

ふたつめ。映画ではなく、肉体として裸になった古澤健監督は、本作の中でタイムスリップ用のブリーフを履くのだが。結局は実験に失敗(=タイムスリップできない)したことを、記録として残す。にもかかわらず、後のシーンで、実はタイムスリップに成功して、監督自身、時空を飛ぶ子鬼のような存在になったことが明らかになる。
ここで自分の解釈を披露させてもらうと、何か制御できぬスイッチがブリーフを稼動させたのだろうが、それは、「ぷう」っというおならであったように思うのだ。おならはガスであり-この映画で重要な役割を果たす-雲のともだちだからだ。

3。映画は手で掴めるような確固たるメディアではなく、消え去る予感の中に、作り手も観客も「崩壊」を志向させてしまうものなのだが。崩壊の中でも最も恐ろしいのは、時間の崩壊なのだ。
本作の登場人物は、製作途中の映画を見る試写室で、それまで見えなかった何かをスクリーンで目撃するときに、時間の崩壊を畏れる。にもかかわらず-いや、それだからこそ-「上映時間が来たら映画はどうせ終わる」という事実が、観客の手を取り、導いていくのだ。そのような、映画が構造的に備える楽天性を、強く感じさせる作品になっている。

さて、古澤健監督の最新作はなんと『STALKERS』というタイトルらしい。複数形であることなど、気になる。一緒に気になって欲しいあなたには、まず『いずれあなたが知る話』『見たものの記録』を観ることを勧める。
いまさらながら、共に、映画を問おうではないか。