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政治ノワール『オール・ザ・キングスメン』(1949)

Facebook の 2013/9/8 の投稿に手を加えたものです。

最近個人的に開催している "真夜中のロバート・ロッセン祭り" 、今日は『オール・ザ・キングスメン』(1949)。廉価版DVDで持っているのだが、観るのは実はこれが二回目なのだ。

ロッセンとしては前回取り上げた傑作『ボディ・アンド・ソウル』(47)に続く監督三作目で、アカデミー賞の作品賞・主演男優賞(ブロデリック・クロフォード)・助演女優賞マーセデス・マッケンブリッジ)の三冠に輝いた成功作。骨太な社会派映画の見本のような作品で、田舎町の熱意溢れる政治活動家が悪の権化のような州知事に変貌していく姿と、周囲の人間たちのドラマを描いている。

主人公の野心が膨らむにつれ煽動者として磨きがかかり民衆が熱狂する描写や、登場人物の中に見事に誰ひとりとして真の善人がいないことなど(最も正義漢のように見える医者でもその "正義" はエゴイスティック)、人間の捉え方がかなりシビアだ。『赤い河』(48)『黄色いリボン』(49)のあの美しいジョーン・ドルーが本当にどうしようもないアホ女を演じているのは、ちょっとショックでもある。
また、主人公が民衆の支持を拡大するのが、公共事業への惜しみない投資というのも、今昔を問わぬ説得力を感じさせる。それで救われる人たちにとっては悪とは言えないのではないか-という問題も含めてだ。

それにしてもこの映画に終始漂う血なまぐさい暴力の匂いは、何と言えばいいのだろうか。映画が始まって間もなく、家に石が投げ入れられるシーンの衝撃から、一貫して、何か凶暴なことが起こりそうな雰囲気がある。
政治劇は暴力映画のように撮ることが正しい-という信念が、ロッセンにはあったとしか思えない。なぜならそこには大いなる欲望があり、色んな意味で欲望こそが暴力の種だからだ。

欲望は他人を傷つけ、自らをも傷つける。その傷つき、病んだ顔の数々を、ロッセンはみごとに画面に焼き付ける。
この映画の登場人物たちの顔に目が惹きつけられてしまうのは、我々もまた程度の差こそあれ欲望に病んだイキモノだからだ。

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オール・ザ・キングスメン (1949) (字幕版)