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苦すぎる西部劇『コルドラへの道』(1959)

Facebook の 2013/9/2 の投稿に手を加えたものです。

DVDでロバート・ロッセン監督の珍しい西部劇『コルドラへの道』(59)を鑑賞。いやぁ…物凄い映画だった。

1916年の米軍のパンチョ・ビリャ討伐遠征を背景に、ゲーリー・クーパー扮する少佐が戦場での活躍で叙勲に値すると見なした連中を、コルドラの基地まで連れて行く旅を描いている。
彼らは皆、少佐の評価では勇猛果敢な活躍を見せたのだが、普段は人間として決して立派ではない。むしろならず者に近く、成り行きでリタ・ヘイワース扮する女牧場主を同行させたことが事態を複雑にする。
やがて明らかにされる少佐の戦場での(勇猛果敢さとは正反対にある)臆病な過去。旅路の過酷さの中、兵士達の不満は頂点へ…。

西部劇的に美しい荒野が、登場人物たちには地獄であることが、これでもかと執拗に描写される。
この手の "地獄の荒野の旅" を描く西部劇は『砂に埋もれて』(18)『三人の名付親』(48)『夕陽に向かって走れ』(69)『銃撃』(67)など、ジャンル内の小ジャンルと言っていいぐらいに数多いが。ここでは集団の中の心理劇の要素が強いのが特徴と言えるだろう。
あまりにも過酷な旅ゆえに、兵士たちの心は上官の少佐から離れ、やがて一触即発。少佐は、彼らの名誉のために引き連れている筈の者たちに殺されかねない状況になるのだ。さらにはヘイワースの美しさが、男たちの暴力性に説得力を与えてしまっている。

色鮮やかな映像にも関わらず、次第にロッセン的な人間の闇が深まっていく中で。少佐がこだわり続ける(叙勲に値する)"勇猛さ" が、決して軍隊的な "強さ" ではなく、瞬発的な "自己犠牲の精神" であることが見えてくる。
この一点に於いて、(パンチョ・ビリャに対するアメリカ軍のカッコ付きの「正義」などを超えて)彼のこだわる問題が普遍性を帯びてくるのだ。

少佐の判断では、自己犠牲の精神は、平時の性格的な善悪を超えて、ある一瞬の力によって引き出されるものとされる。もちろん、その素質は各人にもとから備わっていたには違いないのだが。少佐が拘り続けるのは、単純な善人/悪人の区分を超えた一瞬の奇跡なのだ。
その拘りは、長い長い苦行の旅路の中で、兵士たちには理解されない。

やがて少佐は、(一瞬に於いては)臆病者であった自分の罪を背負うがように、線路でトロッコをたった一人で引く苦行に達する。観たら分かるが、まさにキリストが十字架を背負って歩くような、文字通りの「苦行」として描かれている。
そのとき、最も卑劣な行為に出るのは、最も冷静で "良心的" と思われていた兵士なのだ。ここにまた、この映画の一筋縄ではいかない人間観が表れる。人間とは何か、正邪とは何か-まで、踏み込むような恐ろしい映画だ。

理想家肌だったロバート・ロッセンは、赤狩り時に非米活動委員会の証言をいったんは拒んだ。しかし、あまりの圧迫に耐えきれず、ついには仲間を裏切ってしまった。その重い代償と引換に、作ったような傑作だ。
しかし作ったことで、カタルシスがもたらされることもなかったのだろう。

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コルドラへの道