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妻たちの離婚の旅『女たち』(1939)『パームビーチ・ストーリー』(42)

書き下ろしです。

シネマヴェーラ渋谷で、離婚を決意した妻が旅に出かけるという点で共通するハリウッド黄金時代の傑作コメディを二本。

うちジョージ・キューカー女たち』(1939)は以前、無字幕のを睡眠不足で観たときに眠ってしまった。
こんな風に、どんな傑作だろうが体調・条件によってうまく観られないことがあるのも、自分は評論家にはなれないと思う理由のひとつである(※注1)。今回は体調万全だし、字幕付きなので安心だ。

プレストン・スタージェスパームビーチ・ストーリー』(42)(※注2)に至っては、以前観たはずで場面の感じも何となく記憶にあったのに、今回、初見なことが判明してしまった。
してみると、俺がその映画だと思っていた、倦怠期(だったっけ?)の夫婦が左右対称の構図でリゾート・ホテルのエレベーターを降りたり、回転ドアを抜けたりする映画は何だったんだろう。
いずれにせよ、どちらも今回、映画館で観られて幸せだった。

『女たち』はタイトル通り女性スターのみをズラリ揃えた一篇だが。観ているときの贅沢感で言えば、どこかホークスの『リオ・ブラボー』(59)などの後期作に通じるものがある。メリハリをつけて物語を一直線に語り切ることよりも、シークエンスごと-いや、もっと極端に言えば-カットごとに役者が芝居の「しどころ」を見せてくれるのを、身を浸るようにして楽しめる花形歌舞伎のような贅沢感。
例えば、地味な役回りにも思えたジョーン・フォンテインがいきなり電話の場面で彼女主役のドラマを演じるときの感動。ストーリー的には無くてもいいような場面で酔わせてくれる豊かさがあるのだ。
もちろん主軸となる話の見せ方も凄いところだらけで、特に主人公ノーマ・シアラーがドレスの展示・試着会で夫の浮気相手が来てると聞かされたときの微妙な表情から立ち上がって人の流れを気にせず歩き続けるのは、キューカー監督の技芸の極致。ラストでやり込められた悪役のジョーン・クロフォードが、たった1カットのアップで、「かっこいい退場」を印象付けてしまうのも凄い。
言うならば、初老のアメリカ人夫婦がディナーを終えてから劇場で楽しむような一級の「大人の娯楽」で、終わってから拍手したくなりましたよ。

『パームビーチ・ストーリー』は、クローデット・コルベール演じるヒロインの行動原理がいまひとつ理屈では分かりにくいところに、逆に浮世離れた可愛さがあるのが、実にこの監督らしい。
愛する男と別れることにこだわって、前後の見境なく行動し続けるのに「このひとはこうなんだから仕方ない」と納得するしかない感じ。まるでシェークスピア喜劇を見ているようなお伽噺感だ。
だから夜行列車で、狩猟会が歌い出そうが、クレー射撃を始めようが、ヒロインが顔を踏んづけた男がアメリカ屈指の大富豪だろうが、車掌が独断で客車を切り離そうが、「そういうものだ」と観続けるしかない。そしてパームビーチに到着してからは、物語の主要部分を社交ダンスのシーンだけで展開して見せる語り芸に、舌を巻くしかなくなるのだ。
ラスト近くで大富豪の歌が実に効果的に使われるのは、のちに『殺人幻想曲』(48)という不思議な音楽映画の傑作を撮ったこの監督ならでは。「全て冗談ですよ」と言わんばかりのオチをぶつけてくるのも、大胆さ炸裂で嬉しくなってしまう。ヒロイン以上にスタージェス自身が-時には計算を離れた-「飛び方」ができるのだ。

それにしてもどちらの映画も、あれやこれやの場面転換や活劇的な役者の動きで楽しませながら、すべて解決する局面では、限定的な室内空間に主要登場人物を集めて、余計なものナシのお芝居だけで見せ切ってしまう思い切りの良さに、感服させられるというしかない。
脚本・演出・スターの魅力の全てに自信がないと、やれないことだ。この余裕を、最近の映画でも見ることはできないものだろうか。

注1:これ以外にも、自分には、ちょっとした気分が割と映画の印象を左右してしまうことがある。そういうのを極力抑えて日常的に作品評をこなせるのが、プロの評論家だと思う。じゃなきゃ、単なる映画ライターだ。

注2:1948年の日本初公開時の題名は『結婚五年目』。