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『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』(2019)

Facebook に 2019/ 9/10 に投稿した記事に手を加えたものです。

※最後に盛大にネタバレしています※

クエンティン・タランティーノワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』。1969年のハリウッドへ小ネタ豊かに観客を案内する体験型のテーマパーク。ゆったりと大きく構えた呼吸で飽きさせず楽しませ、ずいぶんスケールの大きな作家になったと思わせられる。

物語は落ち目のスター、リック(レオナルド・ディカプリオ)と彼付きのスタントマンのクリフ(ブラッド・ピット)を中心に進み、脇の流れとしてマーゴット・ロビー扮する愛らしいシャロン・テートの日々の断片が描かれるのだが。実は例の事件(※注)があった「歴史的事実」が無ければ、シャロンが描かれる必然性は、話の途中までは薄い。
それがヌケヌケと並行して語られることによって、先に言ったテーマパーク巡り-というか直線的な起承転結から離れた群像劇的雰囲気が醸されそうにもなるわけだが。ならばもう一組か二組、(思いつきで言うとスタジオ付きの黒人の守衛とか)交えても良さそうなものだが、そういうことはしない。設定としては隣同士でありながらも、リック&クリフとは「別に」流れるシャロンの日常だけが、ザックリと切り取られる。
この思い切りが逆に心地よく、映画を「大きく」見せている。そんな中でリックと子役少女の泣ける交流、その共演シーンの見事さ、クリフのヒッピー牧場での西部劇的サスペンス、そしてシャロンがプレイボーイクラブに入っていくときの胸を掴むクレーンショットなどを見せ切ってくれる。

そのどれもが着地点としては「役者の魅力」があり、タランティーノの芸道というものを感じさせるのだが。リック演じるディカプリオが真に良さを発揮するのは、全てが終わったあとのシャロン邸玄関前の芝居なのだ。さりげないようでいて、ここは本当に凄い。
思えば本作でのリックはプログラムピクチャーのスターからテレビ界に行き、さらに…という、もはや黄金時代とは言えないハリウッドの変化を象徴化した人物だった。しかし、あそこで立っている彼の姿にはそんな象徴化を超えた「何か」があった。それは虚実というより彼岸に触れる感覚に近い、ヤバいものだ。
考えてみよう。実在した(そして殺された)シャロンに対し、リック&クリフはあくまで虚構の存在である。この映画の中だけの存在だ。だからこそ、「この映画の中だけ」ではヒッピーたちをやっつけて、シャロンを死の運命から救うのである。では、「救われたあとのシャロン」とは何なのか。それはもはや、「実在したシャロンとは別の存在」である。
なんて言うと、「だってもともと『マーゴット・ロビーシャロン・テート』というこの映画だけの存在じゃん」と思うひともいよう。誠にその通り。ならここで「マーゴットのシャロン」が「ハーイ」ってな感じで、玄関前に出てきても良かろう。その方が完全に嘘として完結する。
しかしタランティーノはそうしなかった。シャロンの姿は見せず、その声のみをインターホンで響かせ、リックを誘い入れたのだ。
まるで現実の世界では死んだシャロンの声のように。
リックが彼女の誘いを受け入れ、邸宅に入っていくのは、「シャロンが死なずに済んだ映画の世界」を持っていってあげるためなのだ。ここで「殺されたシャロン・テートのために『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』を作る」というタランティーノの儀式は完結する。こんな大胆な試みを成し遂げるタランティーノもヤバけりゃ、一身に背負って演じ遂げるディカプリオも相当、ヤバい。

思えばタランティーノは西洋の監督さんにしちゃ、女の幽霊や霊魂へのこだわりが-本人が意識してるかは知らないけど-強いように思える。いま書いたように本作での最後のシャロンの声は、いわば幽霊の声。『イングロリアス・バスターズ』(09)の煙のスクリーンに浮かび上がるのは女の亡霊。『キル・ビル』(03)のオーレン・イシイが最後のセリフを吐く時は既に死んでいるよね。何なんだろうね、この感覚。

注:ヒッピー・コミューンの教祖チャールズ・マンソン配下のヒッピーたちが、ロマン・ポランスキー監督の妻で売出中だった女優のシャロン・テートら数名を、ポランスキー邸内に侵入して惨殺した事件。詳しくは "シャロン・テート事件" で検索を。

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ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド (吹替版)


ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド (字幕版)