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だから映画は怖い-清水宏『みかへりの塔』(1941)

Facebook に 2021/10/ 4 に投稿した記事に手を加えたものです。

清水宏監督作『みかへりの塔』(41)をDVDで。初見。
問題児を預かる教育施設を賛美を込めて描く作品。現在も大阪にある修徳学院がモデルらしいが、関西弁は出てこない。
その教育は精神主義的な面も強く、ご先祖様にお祈りを欠かさないところなどは新興宗教かとも思った。クライマックスの水路開削は、児童労働として大問題。過酷な作業に子どもたちが倒れたり脱走したりするが、後者は「どうせ常習犯だし」で片付けられてしまう。いや、そういう子たちこそ、何とかするための施設じゃないのか。ラストの「立派になった子どもたち」の卒業式も、「やらされてる感」に少々しらけてしまう。これらを「そういう時代だから」で片付けて良いものか。その「時代」に対し、ときに批判的な目を向けるのも理性だ。
ではダメな映画体験だったのかというと、さにあらず。それどころか、開巻すぐの「おお、清水宏の映画が始まった!」と思わせるトラックバックから、フォードやルノワールなどの巨匠に対抗しうる映像の快楽に痺れっぱなしだ。
子どもたち、木登り、水浴び、砂利道、森林、そして汽車(圧巻!)と、清水宏らしいモチーフが画面に溢れ、天才が本気で撮っていることが伝わってくる。子供らが事件を大声でリレーのように伝えていくところは、映画の誕生を目撃したような初々しい衝撃がある。井戸から溢れる水は、開通した水路のみごとな奔流へと発展する。開削工事は先に書いたように理性で考えれば酷いんだけど、子供らが集団で作業する様子はしばしば素晴らしい画面に結実してしまう。もちろん登場人物の仕草と顔も、いちいち胸を打つ。
理性では割り切れないものにやられてしまう危なさ。だから映画は怖い。批判しながら至福の体験に酔ったりするのだ。しかもそれらを形作る要素は「良い部分、悪い部分」と割り切れたりせず、渾然一体と迫るのだ。この画面に広がる世界をどう消化すればよいのか?