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キートン長編の初期作『荒武者キートン』(1923)

Facebook に 2019/ 5/20 に投稿した記事に手を加えたものです。

DVDで『荒武者キートン』鑑賞。初見。

バスター・キートンの役者としての最初の長編にはダグラス・フェアバンクスの代打で出た『馬鹿息子』(20)があり、自ら主導権を握ったのには短編3本で構成されたような『恋愛三代記』(23)があるが、長編らしい長編の「キートン映画」と言えるのはこれが最初。監督はキートン自身とジャック・ブライストン(別名ジョン・G・ブライストン)。
短編時代の『隣同士』(20)のような「仲の悪い一家の男女が愛し合う」という『ロミオとジュリエット』パターンをより因縁話ぽく作り込み、なおかつアメリカ映画の「田舎モノ」(南部モノ…と言い切ってしまっていいか)特有の情趣がある。
これはやはりキートン、D・W・グリフィス監督の影響があるのだろう。本作もゆりかごと母親のイメージで始まるのは『イントレランス』(16)を思わせ、ハッとする。そしてキートン登場前の序幕の喜劇要素の全く無い嵐の日の決闘も、迫力ある描写で作り込んでいる。
キートン登場後のメイン部分では、滑稽な汽車の旅、家の外に出ると命が危ないというサスペンス状況、クライマックスの追跡劇から奔流での大アクションとなるわけだが。
とにかく、物語の中で細部まで気を配って作り出した面白い状況に乗っかって生身の体で演じたのを、最も分かりいいカメラ位置で撮れば、映画としてみごとに出来上がるという確信が、次から次へと驚くべき画面を生み出すのに、今さらながら唖然とさせられる。人間が、動物が、小道具が、乗り物が、邸宅が、自然の水や茂みが、なんと豊かな役割を演じて、笑わせ、わくわくさせてくれることだろう。
我々にはキートンのような天才的アクロバット芸人も、その本領を活かす(現代では考えられない)危険な状況も、まず得られないだろう。だが基本として、面白いことをまずやってみて、その記録が面白い映画を成立させるということだけは、忘れてはならない。キートンの足下にも及ばないのは最初から確定していても、小手先の工夫で逃げるような情けないことはやめよう…と、思ってしまうのだ。