鑑賞録やその他の記事

悪いことの後にいいことがある

Facebook に 2013/12/25 に投稿した記事に手を加えたものです。

前にも書いたんだけど、映画で人を泣かせるのは意外と簡単なのだ。
もちろん中には、生理的に涙を流しにくい人もいるかも知れないけど、そういう人を泣かすのは笑わない王様を笑わすというのと同じで、別の問題である。
よく俺が挙げる例では、病床で子供が「ママ、ありがとう」とか言うと殆どの人は泣かせられる。子供・可哀想・健気と大三元を揃えただけで、俺だって自動的に涙が出るけど、泣いても気持ちよくはないし、ありがたくも何ともない。

それでは、 "気持ちよく泣ける" にパターンはないかというと。
そうでもなく、代表的なのに "悪いことのあとにいいことがある" というのがある。

例えばアルドリッチの『カリフォルニア・ドールズ』(1981)。仕事のために身体を売るという最悪の事態のあと。大祝祭となる試合入場シーンで、涙腺が決壊する。
ルノワールの『フレンチ・カンカン』(54)では、主人公が恋のトラブルに落ち込んだあと。ラストの何もかも吹き飛ばすようなカンカンの場面が、感涙の嵐ににじむ。
すごいのはグリフィスの『素晴らしい哉人生』(24)(キャプラの似たタイトルの有名作とは違うので注意)で。最悪の事態のあとに、 "それでも我々は生きている" という一点で闇雲に盛り上がって。ほとんどそれだけの、当たり前のようなことに涙するのだ。

そして、我が国の森﨑東監督の映画には、このパターンがよく見られる。
最新作『ペコロスの母に会いに行く』(2013)では、老母のボケが進行し、迷子になる。そんな悪しき事態のあとに、奇跡のような橋のシーンになる。
喜劇・特出しヒモ天国』(1975)では、共同体のようなストリップ小屋の検挙とヒロイン池玲子の傷心の後。病院で彼女が下條アトムと出会うときに、すごく "いいこと" が起きる。
喜劇・女売り出します』(72)は、米倉斉加年のチンピラ・スリが指を斬られる悲劇の後。どっこい、勝ったのは米倉だったというところで、思い切り泣かせる。
喜劇・女生きてます』(71)では、頭の弱い少女ポチが金持ちの嫁になり。かつて世話をした夫婦が久々に訪れたときは、まるで他人のように振る舞う。そんな様子に夫婦が傷ついた直後に、感動的な事態が訪れる。

ではあなたがアルドリッチルノワール、グリフィス、そして森﨑に学んだつもりで。泣かせの "テクニック" として、 "悪いことのあとにいいことがある" をやろうとしても。そうは簡単にいかないんですよ。
実はその秘密は、テクニックを超えたところにあるからだ。

なぜなら、 "悪いこと" とは、人生そのものだから。要するに、殆どの人にとって "人生はつらい" のです。
そのつらさを見つめて見つめて、なおかつ、 "でも、生きる" ということに至る力わざを発揮して。"いいこと" のクライマックスを引き入れて、映画を輝かせる。
それはもう、奇跡を召還するようなことで。オトナが人生を賭ける勢いで、物語を語りきらなければいけないのだ。

つらい人生の果てに "いいこと" があることへの祈りというか、目指す心意気。それは "生きること" への心意気で、だからこれは "パターン" であっても。
そう簡単に "テクニック" にはなり得ないのです。

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