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異常メロドラマ-『枯葉』(1956)

Facebook 内に 2018/ 9/15 に投稿した記事に手を加えたものです。

アルドリッチ枯葉』は異常メロドラマだった。ひとりの女性がバートと名乗る謎めいた男性と恋に落ちるがゆえにトラブルに巻き込まれ、苦悩しながらも戦いぬく様を "力強過ぎる" タッチで描く。

まず冒頭のいかにも映画の入り方らしい「〇〇という住宅地がありました」というショットから、鉛の重さの白黒画面で、美空ひばりを太ゴシック体の白人女性にしたような凄い顔のジョーン・クロフォードが力強くタイプを叩く。ここでもうツカミはOK。
いつもの話し相手の大家婆さんが家に入ってきて、新聞・マッチ・タバコといった小道具を手際よく活かしながら、自立しているが満たされぬオールド・ミスの主人公の人となりを伝える。セリフとシチュエーションによる説明をジョーンが表情演技で肉体化していく。大人のドラマを見る妙味。
彼女の孤独は他者の中で際立ち、満員の劇場で悪夢のような回想に入る。ここで父権という本作の重要な主題も出てくるが、これは俺よりもっと難しいことが得意なひとに任せよう。驚くのはこれほど強烈な顔を持つヒロインが、回想の中では顔がないことだ。痛々しく禍々しい語り口。
孤独だけでなく情熱もまた他者の中で際立つ。海のデートで(ああ、アルドリッチの海!)ヒロインの手をバートが掴んで駆け出すとき、他の海水浴客がいるのにハッとする。この他者がいる場所での見せ場と、閉ざされた空間での芝居の対比が、実にダイナミックだ。
他者の存在はラストではっきりセリフになったりするのだが、白眉はバートとの出会いシーンであろう。ここは他者代表のウエイトレスに笑わされたりもするが、何よりジュークボックス(席から操作する形式のは初めて見た)でタイトル曲がかかったときに、他者に囲まれる中をバートが歩いてくるカットの見事さ。音楽の効果と合わさって、これぞ映画を観る醍醐味。
直後の会話、どう考えてもバートは怪しいんだけど、ヒロインが警戒しながら惹かれるのも「分かってしまう」。「ああ、この恋はひどいことになってしまいそうじゃん!」というサスペンス。
そして実際「ひどいこと」になるのだが。その原因を構成する悪・狂気・人間の弱さを描くのにアルドリッチは容赦がない。「あなたはこのドラマに耐えられるか」という挑戦にも思え(そして実は「耐えられる」と信じたがっている点にアルドリッチの良心がある)、演技がエスカレートするにつれ映像もどんどんやり過ぎる。果ては誰もが驚く「こんな撮り方をするのか!」という鈴木清順みたいな常識破りのカットになるのだが。清順なら奇想で驚かせるのに対し、アルドリッチは「もうこうなったらここから撮んなきゃダメだ!」という「踏み越え」としてやってしまう。ひょっとしたら、こっちの方が異常では。
その異常さは、ヒロインが電話をかける決意をする異様なローアングルをも導く。電話越しに撮られたジョーン・クロフォード。この女優の顔が必要だと、心から納得させられる。そしてまた、ジョーン以外の役者の顔も実に個性的で、中でもバートの元妻ヴェラ・マイルズの中身のなさそうな感じは怖い。
こうした凄い顔の持ち主たちが対決を繰り返す中、映画は西部劇的な匂いも漂わせる。西部の町の木製歩道を思わせる遊歩道風の庭があり、そこに沿ったヒロインの家のドアを開くとキィィと軋む。特に西部劇なのは、バートの父と元妻が揃ってやってくるところで。軋むドアを開けると道の遠くに馬車-じゃねえや、車で着いたばかりのふたりが見える(このタイミングがドラマ的に最悪で、ほとんど笑いそうになった)。さあ、敢然と対決です…というところで、遊歩道をスタスタ歩くジョーンとヴェラを切り替えして、決闘のように見せるのだ!
このように互いに歩き寄るのにせよ、一方的に近づいてくるのにせよ、追いかけるのにせよ、登場人物たちは歩いたり立ち止まったりして次のドラマへと進む。人間、誰もが他者のいる社会の中を、歩いてドラマと出会ったりするものなのだろう。それが止まってしまえば枯葉となる。ヒロインの父親のように。

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