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道化師の純情『カビリアの夜』(1957)

Facebook の2020/8/8 の投稿に手を加えたものです。

恵比寿ガーデンシネマフェリーニ映画祭で『カビリアの夜』(57)。この監督初期のネオレアリズモ系列の中では最も有名な中の一本で自分も大好きだが、スクリーンで観るのは初めて。
貧しくて酷い目に会いがちな娼婦カビリアは、それでも健気で純な魂を失いません…という話ながら、「男の監督が頭で理想の女性をでっち上げていい気なもんだ」にならないのは、巷の「本物のカビリア」をフェリーニは知っていて、彼女のような純真は性を超えて男にも見いだせるからだ。実際、カビリアは「リアルな女版チャップリン」のようであり、「女」というよりむしろ「道化師」の純情を感じさせる存在なのだ。
そしてカビリアは決して絵空事のように描かれない。マリア参拝の熱狂の中で「生活を変えたい」と涙ながらに祈り、直後に野外で酔っ払って悪態をつきながら、ふと寂しさに座り込むとき、「ああ、これ、分かるなあ」と彼女の人生を共有した気持ちになる。しっかりとした肉体を持った人生という祭の一員として、彼女を理解する。
幻のような夢の女性が登場するとしたら、それはカビリアではなくラストで彼女に「こんばんは」と声をかける若い子。『』(54)のラスト近くでジェルソミーナの歌を歌いながら洗濯物を干している若奥さんや『甘い生活』(59)のラストの少女と同類。彼女らの美しさは感動に花を添えるが、やはり大事なのはカビリアが「生きている」のを見たということだ。
凡百の「天使のような娼婦」を描いたナニカとは、作品の根幹-命の部分で、違う。それを理解せずに影響を受けたつもりになると、マズイんだぞ。映画に限らず作家志望のひとは、気をつけるべし。

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カビリアの夜(字幕版)