鑑賞録やその他の記事

映画監督とバンドリーダー

Facebook 内に 2014/ 5/27 に投稿した記事に手を加えたものです。

そもそも種類の違うモノを喩えるというのは、喩え遊びに過ぎないんだけど。だけどその遊びの中からほんの少し真実が顔を出すこともあると思うので、言わせてもらうと。多くの場合、映画監督は他ジャンルの表現者の中ではバンドリーダーに近いモノではないかと思う。譜面よりも、その場での即興的な要素の強いジャズやロックのバンドリーダーに。
そういったバンドでは、同じようなリズム、同じようなメロディを感じている人が集まることが最善とは思えない。それぞれの人に固有のリズムとメロディがあり、合わせてみることによって新たなリズムとメロディとハーモニーが生まれる。その環境作りをして、ひとつの表現のかたちにまとめるのがバンドリーダー。そのとき個々のイキモノとしてのメンバーとは別の、バンドという新たなイキモノが生まれる。そのように映画もイキモノであるべきだし、だからこそ一個人の表現の枠を超えうるものとなるのだ。
ただしそれは、そのイキモノに好き勝手にやらせるという意味ではない。自由と多幸感がめざましい成果を生むかというと、必ずしもそうとは限らないのだ。だから映画監督もバンドリーダーも、孤独な独裁者となる。

鶴田法男監督の中国映画『戦慄のリンク』(2020)

Facebook 内に 2022/ 7/16 に投稿した記事に手を加えたものです。

昨日は新宿シネマカリテへ。カリコレ(※注1)での鶴田法男監督の中国映画『戦慄のリンク』、待望の国内初上映に駆けつける。ネット小説を巡る暗黒サスペンスを、不穏なカメラワークとツボを押さえた演出で見せる。

「ディスプレイ上の文字で小説を読んで悪夢に引き込まれる」という映像では難しい表現を、技術を駆使してやり遂げているのは、もちろんお見事だが。パソコンを開くところの真俯瞰ズームや車椅子の男が立ち去るカットのさりげない手応えは、実に映画を観てる気にさせてくれる。「さあ、怖い映画の始まりです」と言わんばかりの冒頭カットは嬉しく、廃病院、廊下、階段…と揃ったクライマックスの展開もさすが。ヒロインもいい。
舞台挨拶での監督の話によると、中国では○○の存在を否定する前提で作るべし…というホラー映画監督には最悪の縛りがあるそうだが。安心(?)して下さい、映像的には-いかにも鶴田監督調に-出まくりです。「幻覚なんだからいいでしょう」という開き直りの頼もしさ。娯楽映画の心意気。作り手(カメラを向ければ「写ってしまうこと」)、観客(映画館の暗闇で「観てしまうこと」)、それぞれの立場からの映画というメディアへの根源的な畏れと、職人的な洗練を両立させてしまう鶴田法男監督は、やはり信頼できる傑出した映画作家だ。
正式公開(※注2)も決まったということで、おめでたい。祈、大ヒット!

注1:新宿シネマカリテの映画祭「カリテ・ファンタスティック!シネマコレクション」の略称。

注2:2022年12月23日より新宿シネマカリテなどで全国公開。

『ハスラー』(1961)を映画館で観る

書き下ろしです。

ハスラー』が映画館にかかるとなれば、観ぬわけにはいくまい。テアトル・クラシックスポール・ニューマン特集での番組だが、自分には何といってもロバート・ロッセン監督作品というのが大きい。まだ助監督だった頃の青山真治と話していたときに、大好きな監督として名を挙げたら、「僕が言いたかったのに!」と返された。

ポール・ニューマン扮するエディは、凄腕のハスラー(賭けビリヤードプレイヤー)。旅を続けて腕を磨き、伝説の名手ミネソタ・ファッツに戦いを挑む。序盤はエディの優勢に見えたが勝負が長引く中、酒を飲み続けたこともあり、完敗。失意のどん底で女子大生サラと出会い、同棲を始める。そんな彼に裏社会の顔役で賭博師のバートが、マネージャーになってやろうと近寄ってくるのだが…。

犯罪映画めいた翳りの中に、悪の誘惑に引き込まれる男の罪と弱さを容赦なく描き出し、痛ましいブルースのように深く印象付けるのは、『ジョニー・オクロック』(47)『ボディ・アンド・ソウル』(47)『オール・ザ・キングスメン』(49)のロッセンならでは。
加えて本作は、ビリヤードという粋な競技とジャズ、そしてポール・ニューマンのルックスゆえに極めてスタイリッシュな仕上がりとなっており、ぶっちゃけ、シビれるぐらいカッコイイ。タイトル前のシーンで、ビリヤード台の上の球に顔をくっつけるように見るエディの横顔アップから、カメラが一気にトラックバックハスラーとしての牙をむく一発を打つや音楽が鳴り響くのは、「うおお!」と叫びたくなるほどのキマリ具合だ。

男のドラマとしてこれまでのロッセン映画の系譜にあるのは先に書いた通りだが、精神を軽く病んでいるように思えるサラの人物像は、3年後のロッセン最後の監督作にして悪夢的名作『リリス』(64)を予告している。エディが長年の相棒と喧嘩し、決定的な別れの言葉を言い放つところで、そばにいたサラが涙するカットの鮮烈さ。この1カットで、いきなり彼女は生身の人間というより「傷ついた魂」そのものに見えてくる。
その後にバートが並外れた「悪」そのものとして描かれることで、本作はリアリズムを超えた象徴的な神話劇のような様相を帯びてくる。悪しきものと犠牲者の寓話の人物であるエディ、サラ、バートは、我々の中に…いや、ひょっとしたらあなたひとりの中にいる。サラを演じるのは後の『キャリー』(76)の母親役でも有名なパイパー・ローリー、バートはジョージ・C・スコット。それぞれみごとな名演で、ニューマンおよびミネソタ・ファッツ役のジャッキー・グリーソンとともに、揃ってその年のアカデミー賞にノミネートされている。

本作はシネマスコープだが、これはビリヤードを効果的に描く目的で選ばれたのではないか。台の高さよりやや上にカメラを据え、動き回るプレイヤーを見上げるように追うのが、スマートさと臨場感を感じさせる。
また、誰かの視点で誰かを見つける場面などは、横長の画面に引き気味で他の人物と一緒に捉えることで、観客もまたほんの一瞬「探して、見つける」。それによって映画の「語り」に同化する絶妙な感じは、今回映画館で観て充分に味わうことができた。
そのように考え抜かれたひとつひとつのカットは、ロッセンと本作でアカデミー撮影賞を得た名カメラマン、ユージン・シュフタンの共同作業の精華である。

ちなみに IMDb の Trivia には、本作にロッセンの自伝的な要素があるとの説が書かれていた。1940年代後半に始まるハリウッドの大規模な思想弾圧-いわゆる「赤狩り」において、もと共産党員だったロッセンは非米活動委員会の公聴会に呼ばれる。1951年には党員仲間の名を証言することを断固拒否したのだったが、そのためにブラックリストに載せられて職を奪われてしまう。苦悩の末、53年に再び呼ばれたときには、名前を列挙する。仲間を裏切ってしまったのだ(※注)。この経験が、バートの悪に染まってサラを裏切るエディの行動に反映されている…というわけだ。
しかしそれならば公聴会に呼ばれるより前の47年作『ボディ・アンド・ソウル』の主人公の方が、より露骨に悪の道に染まって仲間を裏切るのだし。二度目の公聴会後のロッセンの心情的な苦悩ならば、『コルドラへの道』(59)の主人公の方がはっきりと反映されているように思う。『ハスラー』が特に自伝的とは思えない。
もし本作にロッセンの分身的人物を見出すならば、それはエディではなくミネソタ・ファッツではないだろうか。エディ対ファッツの最後の勝負が終わった後、バートはエディに金を払えと脅すが、エディは信念を持って拒否する。このとき「払えよ」と言ってしまうファッツの姿にこそ、ロッセン自身が反映されている気がしてならない。ロッセンの写真を見れば、外見的にも、最もファッツに似ているように思える。

注:この「裏切り」でロッセンは映画界に復帰するも、しばらくはヨーロッパで活動。本作で再評価されるも、酒が身体を蝕み、病気が重なって、1966年に57歳で亡くなってしまう。

バーバラ・スタンウィック版『ステラ・ダラス』(1937)

Facebook に 2022/ 2/ 5 に投稿した記事に手を加えたものです。

大好きな "ミッシー" ことバーバラ・スタンウィックの代表作の一本、『ステラ・ダラス』の DVD を買った。監督はキング・ヴィダーヘンリー・キングサイレント映画のリメイク。キングつながりだが、どっちも好きな監督だ。オリジナルも観たい。
貧しい工員の家庭に育ったステラが、お坊ちゃんのダラスと結婚し、様変わりした生活に浮かれて派手に遊んで、やがては別居。娘のローラは品の良いお嬢さんに育つのだが、ある日ステラは自分が彼女の母に相応しくないと思い知らされる…。
実年齢では30になったばかりのミッシーが、少女期から娘が結婚するぐらいの年齢までを演じきり、あっぱれ大女優ぶりを見せる。憧れの男を思いながら本を枕に寝る愛らしさ、わざとらしく淑やかぶる面白さ。派手好きの本性を表してからは、後年の彼女が得意とする悪女芝居を予告。若さと美貌で隠れてた下品さが老いて表面化し、滑稽になる感じなど、よくやるわってぐらいに出してみせる。娘のために本心を隠して突き放すシーンでは、ちらりと見せる悲しい表情にグッとくる。ラストは劇場ならすすり泣きが漏れるところだ。持てるものを全部さらけ出した大熱演。娘役のアン・シャーリーもいい。ジョン・フォード監督作『周遊する蒸気船』(35)と同時期だ。"泣かせる母もの" としても代表的な1本と言えよう。
ヴィダー演出は人物と人物が座り込んで会話に入っていく見せ方がうまく、『ビリー・ザ・キッド』(30)の頃に比べてもすっかりトーキーを使いこなしてる(もちろん『ビリー…』も好篇ではある)。ラストももちろんいいが、寝台車の場面が素晴らしい。
買った DVD には淀川長治さんの解説のオマケが付いてた。これがなんと、サイレント版の話しかしてない! まあ、この先生らしくて、愛せますけど。それでは皆さん、サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ。

『続・荒野の用心棒』(1966)をスクリーンで観る

Facebook に 2020/ 2/ 4 に投稿した記事に手を加えたものです。

セルジオ・コルブッチ監督によるマカロニ・ウエスタンの異常傑作『続・荒野の用心棒』を、シネマート新宿に夫婦で観に行く。
映画館で観るのは初。泥土をズルズルと棺桶を引きずって歩くジャンゴ(※注1)の後ろ姿。その名が雄々しく歌い上げられる例の主題歌(※注2)が鳴り響くタイトルだけで高揚させられ、入場料分の価値がある。
タイトル後のファースト・シーンの鞭打ち、ヒロインが地面を引きずられるのを、顔のアップから素早くズームバック。これだよな。このケレン味たっぷりの通俗的語り口。ジャンゴの顔が最初に見えるのも、足もとからカメラが上がりバーンとアップ。彼の棺桶も何かというとアップ。これです、ここが大事です、さあ、見てください、お客さん!…というわけだ。
ガトリングガン(※注3)による殺戮は、非現実的すぎてほとんどシュール。永井豪とか、夢中で観て影響を受けたんだろう。敵が発砲前にフライングで倒れ始めるミスに気付けるのは、大画面ならではか。ひと通り殺したあと、逃げる敵ボスの大佐の馬を拳銃で撃つ。倒れる大佐の顔が泥だらけになり、主題歌のインストが重なる。ここはホントにいい。
品位無用のしつこさ、ギトギト感、劇画的荒々しさはパワフルというしかないが、知恵を絞って作っているから空回りにはならない。ラストの墓場の対決はテレビ放映時の記憶があったけど、今回、曲撃ちに利用する墓標にもちゃんと意味があるのに気づかされた。子供の頃にはおそらく分かってなかったのではないか。
映画館を出て新宿 TSUTAYA(※注4)へ。勢いで『情無用のジャンゴ』(66)と『女ガンマン 皆殺しのメロディ』(71)を借りた。

注1:本作以降、"ジャンゴ" はマカロニ・ウエスタンの神話的な名前となり、同名の主人公が登場してタイトルに冠した映画が量産された。2012年にはマカロニではないが、クエンティン・タランティーノがウエスタン『ジャンゴ 繋がれざる者』を作り、フランコ・ネロも少しだけ出演している。またタランティーノ三池崇史監督作『スキヤキ・ウエスタン ジャンゴ』(2007)に出演しており、監督作『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』(19)の中ではセルジオ・コルブッチ監督を称えている。

注2:主題歌は英語版とイタリア語版が流れる2ヴァージョンがあり、シネマート新宿に響いたのは英語版。こちらの方が製作時通りなのだ。

注3:実は、正確にはガトリングガンではない。それっぽく見えるが、ガトリングガンのように銃身が回転していない。

注4:2020年11月15日に惜しくも閉店。映画に関しては抜群の品揃えで、新宿に出たついでに DVD か VHS(!)を借りる映画ファンは多かったと思う。

『天間荘の三姉妹』(2022)

Facebook に 2022/11/ 3 に投稿した記事に手を加えたものです。

天間荘の三姉妹』を観る。
いま作られることの大切さを考えたメッセージ性あふれる意欲作で、最初の長回しから「映画だぞ!」と堂々と打ち出し、砂浜に寝転ぶ真俯瞰から海と空へのメインタイトルの出方も綺麗で、柳葉敏郎の暮らす現世に移る呼吸など細部にうまみもあり、なんと言ってものんは素晴らしい。顔も芝居もいいが、仲居の茶衣着やウェットスーツといったコスチュームの決まり具合が映画を引っ張ってしまうのは、ホント、凄いと思う。全体に立派なプロの皆さんが気合を込めて作り上げた作品で、その心が通じて救われた気持ちになるひともいるだろうし、それは宝のような映画体験だと思う。
だから、最初から漂う微温的な雰囲気、日常系アニメを実写にしたみたいな言動、あからさまな讃歌的盛り上がりが、どうにも気恥ずかしくて耐えられず、観ながら何度も「勘弁して下さい!」と言いたくなったのは、全く俺が悪いのです。すいませんすいません! でもこれが苦手で、例えば『天国から来たチャンピオン』(1978)『ヒア アフター』(2010)『ゴーストブック おばけずかん』(22)等々はOKなのは何故かを考えるのは、自分で自分を知るのに大事な気がします。だから観て良かったです。

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