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ほたる監督作『キスして。』(2013)

Facebook の 2013/12/13 の投稿に手を加えたものです。

自分の脚本作では気に入ってる2本の映画、『ぬるぬる燗燗』(1996)『倉沢まりや 本番羞恥心』(95)に出演された葉月螢(現・ほたる)さんの主演・監督作『キスして。』(2013)が公開中というので、観に行ってみた。

役者さんの監督作というのは特に本人も出ている場合、監督として "見ること" と役者として "見られること" の微妙な関係が刺激的と思われ。特にそれが甚だしいのがイーストウッドなわけだが。
ほたるさんのこの映画では、映画の中の "人物が人物を見ること" さえ覚束ないのに少し驚いた。

開巻間もなく主人公に別れを告げられた夫が、(設定の上では)彼女をじっと見ながら長台詞を言ってるはずなのだが。その目が、どうにも相手を見ているようには見えてこないのだ。
そのようなアップは他にもあり、(時間を遡って)別れる前の夫がマックノートを力なく打っているときに、その姿を(設定の上では)見ているはずの主人公の目も、なぜかひとを見ているように見えない。
これらはカメラ位置が少し低いこととも関係があって。そうなると目線の先が観客の頭上を越えるため、ひとである観客としては、ひとを見ているように見えないわけである。ローアングルで知られた小津の人物の目線の不気味さとも、ちょっと通じる話だ。
ただ、小津の場合はその宙ぶらりんの目線が頻繁に繰り返される切り返しの "嘘の繋ぎ" とせめぎあって、独特のスリルを生むわけだが。この映画はあるていど長いカットが続くことで、目線の不安は落ち着く先を失う。

これはほたる監督の女優としての資質とも関係あることではないのか。
つまりこのひとは意識しているにせよ、していないにせよ、 "ひとを見ることへのためらい/ひとに見られることへの不安" を体現してしまっている、希有な俳優さんなのではないか-ということだ。ほたるさんの出ている映画をあまり観ていない身でありながらここまで言うのはちょっと傲慢だと自覚しつつ、この意見にちょっと賭けてみたい。
なぜならこの映画の中の主人公の目は、「ひとを見ることさえ覚束ない私がひとに見られることに耐えうるだろうか」という不安を訴え、その上で、「でも私を見て欲しい」と突っ張っているように思えるからだ。

こういう対人関係の中での視線の不安は、青春期に特有のものである。だって、子どもはこっちがたじろぐぐらいガン見するじゃないですか-それを一挙に失うのは青春期なのだ。
そしてひとは、見ること/見られることの不安に気づくと同時に、それを解消するために肌寄せ合うことを求めるのだ。
視覚への不安が触角への欲望に入れ替わるのが青春期であって。この映画はストーリーだけ考えれば倦怠期の男女を扱うオトナの映画のようでありながら、人物のありようは青春期のように "若い" のである。

だから、ほたるさんは老けないのだ。
いまだに若い不安の中で、触角に助けを求め、それがタイトルの「キスして。」ということになる。
それもまた人間の可愛さではないか-ということで、俺にはこの映画が "可愛い" 映画であるように思えた。

ただ、ごく単純な意味で、ストーリー的に分かりにくいことがあった。
主人公の妊娠が発覚し、でも「まだ早すぎる」(だっけ?)というモノローグがあって、病室のシーンになる。すると、「あ、これ、堕ろしたな」と思っちゃったんですけど、その後に、生まれたはずの娘らしき人物(それは主人公の娘の頃とダブる存在)に、裸の腹に顔寄せられるシーンがある。そうなると、子供が母体への感謝、母体が子供への感謝を共有しているようにも見えて。「あれ? じゃあ、やっぱり産むってことなの?」と戸惑ってしまうんですよ。
オッサンには、よく分かりませんでした。

その後の電車の中のカットは、この映画の中でも特に力があって良かった。

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