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四章構成の『HOKUSAI』(2020)

Facebook に 2021/6/14 に投稿した記事に手を加えたものです。

橋本一監督作品『HOKUSAI』(20)( ※注1)を観る。タイトル通り、世界的な絵画の巨匠、葛飾北斎の人生を描いた作品だ。

開巻まもなく浮世絵の大手版元/販売店の蔦屋への幕府の弾圧が描かれる。役人どもは絵や版木を奪うと路上に積み、焚書の如く火を放つ。厳しい表情の阿部寛蔦屋重三郎。男の顔と炎。そこでバーンと『HOKUSAI』ってタイトルなんだけど、いや、これ、『TSUTAYA』って出る勢いでしょう。ローマ字で出たら笑っちゃうかも知れないけど。

実際、映画は四章に分かれてるんだけど、第一章の主役ははっきり蔦屋だ。「北斎にとって重要な人物」であることは分かるし、若き北斎のあがきや苦しみは、演じる柳楽優弥の頑張りもあって描けているけど。どうしても蔦屋が主役に見えてしまうのは、そんな北斎が「蔦屋にとっての北斎」だから。若き北斎は問題児ぶりも含め「見込みのある芸術家」として描かれているが、その見方を代表するのは蔦屋だ。しかもワトソン的な語り手に徹した人物でもなく、本人が最初から「権力との闘い」という大きなドラマを背負っている。だから観客は蔦屋側に寄り添ってしまうのである。

もちろん若き主人公に大きな影響を及ぼす人物が、スケール感をもって描かれるのは、よくあることだ。ならばその人物は主人公から見たものであるべきではないか。北斎に寄り添って蔦屋を描いてこそ、蔦屋自身も北斎の中で消化され、登場しなくなってからもその影を深く残すだろう。
蔦屋がプロデュースする歌麿の異様な作品作りなども、蔦屋視点のシーンを先行させず、北斎が目撃するかたちで初めて描かれた方がいいのではないか。同時に、北斎は蔦屋というプロデューサーをより深く知るのだ。そうなると蔦屋が花魁から北斎の噂を聞くという流れが崩れるのだが、そんな段取りより主人公としての「北斎の青春」を描く方が大事だと思う。

あと、これは個人的な好みになるかも知れないが、北斎は芸術家としての見込みとは別に、問題児としての人間性自体が愛されるように描かれた方が観ていて乗りやすい。俗な例で恐縮だが「北斎クンったら絵にばっかり夢中で自信満々な割には乱暴で気が弱くてでもなんか目が離せないの」みたいな少女が出てくると、人物像も膨らむし、より主人公っぽくなる。
実はそれぐらいはシナリオ初稿あたりで書いて、敢えて捨てたのかも知れない。しかし捨てたことが正当化されるだけの青春の描きこみがあったかというと疑問だし、つけ加えれば、第二章でいきなり出てくる妻の扱いが不満だ。彼女が出るシーンのボリュームをあんまり増やさずとも、演じる瀧本美織にもう少し「しどころ」をあげて欲しかった。妊娠を告げるところとか、ちょっと二人で夜道を歩かせてみたらどうか。

三・四章は老年期の話となり、「田中泯北斎を演じること」を楽しむ映画となる(※注2)。突風が吹いた路上で慌てる人物たちを画家の目で見て喜ぶところなど「やってるやってる」って感じで、こちらも嬉しくなる。
富嶽三十六景誕生秘話を経て永山瑛太柳亭種彦の悲劇がクローズアップされるが、主人公が北斎というのは崩れることはない。種彦は観客にとって北斎の仕事の関わりで登場してきた人物であるし、見た目も北斎が格上だからだ(どちらの役者が優れてるという意味ではない)。とはいえ孤高の老人となった主人公の姿が胸に突き刺さるには、一章からもっと主人公である必要があったのではないだろうか。
ラストの大作を描くエピソードで、若き北斎と並んで描いているのは、表現として自分にはちょっとよく分からなかった。描いているうちに若い北斎になったり(また、老人に戻ったり)するのなら、大いに分かるが。それではありきたりだと考えたのだろうか。

ここまでけっこう不満点を書いたが、実のところ観終えて手応えは得られたのだ。監督をはじめ撮影所で鍛えられた人々がセットの空間を生かした画面づくりを堪能させてくれるし、芝居も熱気に溢れ、ちょっとしたエキストラにまで着付け・動かし方に配慮が行き届いている気がして、しっかりと時代劇映画の世界に浸ることができた。
浮世絵ファン的には彫師・摺師の仕事がきちんと描かれてるのに感激したし、「神奈川沖浪裏」が刷り上がる瞬間には震え上がった。ここが観られただけでも『HOKUSAI』の題名に相応しい充実があった。
コロナ禍で延期を余儀なくされながらも、公開され、自分も観ることができて良かった。

注1:2020年の第33回東京国際映画祭で上映され、公式サイトにも ©2020 HOKUSAI MOVIE とあるが、一般公開は2021年となった。

注2:実際、その点においては「楽しい」という言葉がふさわしい。