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映画の魔『フェイブルマンス』(2022)

書き下ろしです。

スティーヴン・スピルバーグ監督最新作『フェイブルマンズ』(2023)を観る。これはかなり手強い傑作だ。あまりにも語りたいことが多すぎて収拾がつかず、このままでは書けなくなってしまうので、とにかく綴ってみよう。

これまで大人か子供ばかりを主人公にしてきたスピルバーグが、前々作『レディ・プレイヤー1』(18)で初めて青春映画(※注1)の領域に足を踏み入れ、次は青春群像劇の古典『ウエスト・サイド・ストーリー』(21)と、「おお、これは本気で『若さ』に取り組むのか?」と思う間もなく、立て続けに到達したのは、なんと、青春期までの自伝映画!

このことだけで充分エキサイティングだが、これまでのスピルバーグ映画の明白な特徴である「異邦人/よそもの」の感覚が、多くのひとが恐らくそれが原因なんだろうな-と思っていたであろう「ユダヤ人の出自」を全面に出して、赤裸々に語られてしまったことには、驚かざるをえない。もちろん無視できぬ要素だが、ここまでやるか!-と。

それは学校でイジメられるシーンよりも、むしろ、かわいい女の子たちに「へええ、あんたユダヤ人」と好奇の目で見られ、半笑いで応じてしまうところなどに、ひしひしとリアルさを感じる。このように、憎むべき敵ではないはずの相手からの生温い差別を-被差別者当人のキッパリしない対応をも含め-描いたものは、案外少ないのでは。

そして更に本作で中心となってくるスピルバーグ的な(つまり、これまでも様々な形で繰り返してきた)テーマは、「フェイブルマン一家」という題名が示す通り、「家族、或いはその喪失」である。

それが本作では主に母親の喪失として表れるのだが、既に絶賛されているミシェル・ウィリアムズ演じるエキセントリックな母親像も、預言者のような彼女側の伯父さん(彼を通じて母親がかなり変な家庭に育ったことが察せられる)も、幼い息子に「映画とは何か」をいきなり工学的に説明してしまう父親も、地味なところにリアリティのある妹たちも、みごとに描きこまれるほどに「いつか何かが失われる」予感を漂わせてしまうのに、声高にならぬ迫力を感じる。

ハイキングの夜、逆光で母親が舞う場面の美しさ(※注2)に「ああ、これじゃお母さん、死んじゃうじゃん!」と予感してしまったが、そこまでフラグ通りにはいかず、それでも、家族崩壊を予告する舞いにはなっていた。この場面を主人公が撮影してしまうのが大きなポイントになっているのだが、ここでいよいよ、本作での「映画」の扱われ方について話さねばならない。

その点でまず、観る前に心配だったのは「映画って素晴らしい」という気恥ずかしい「賛歌」になってたらどうしよう…ということだった。スピルバーグに限ってそれはあるまいとは思っていたが、呆然と画面に見入る子供時代のスチールも見たし、商品の「売り」としては「映画愛」(※注3)って分かりやすいじゃないですか。

だが、やはり杞憂だった。画面に見入った子供時代の主人公はまず「自失」の体で映画に取り憑かれたが、その後-具体的な作品例は避けるが-「映画賛歌」的なものにありがちな、いかにも「映画ファン」らしくワクワクと顔を輝かせて画面に向かうカットは出てこない。後で重要な意味を持つジョン・フォード監督作を観ているときでさえ、悪友連中のおしゃべりに邪魔され、他の客の注意を受けるのである。映画を観ながら顔を輝かせるのは、むしろ主人公以外の人物たちだ(※注4)。そのとき上映されているのは主人公の作った映画で、彼ひとり既に作家としての孤独と不安を抱えている。

本作の主人公は映画に-主に作ることで-関わっていっても、決して、単純な多幸感に包まれはしない。それどころか、生活の負の部分にまで踏み込んでくるような映画の「魔」に侵されていくのだ。映画はスクリーン上の虚像だが、現実の人物・事件をカメラが記録し、上映してしまうことで、危険な影響力をもつ。

そのことは、主人公が熱中する虚構の劇映画作りに於いては、まず「演じている現実の人物」を記録するドキュメンタリーであることで示される。アマチュアの戦争映画の撮影で、演技の意味さえ分かってない若者を虚構の登場人物そのもののような気持ちにさせてしまったのは、演出者たる主人公の力を超えた撮影現場の魔力なのだが。取り憑かれた若者を、カメラはただただ記録してしまっている。現実の若者の魂に手を突っ込んで、虚構を成立させ、機械を介して記録・再現してしまい、観客を揺り動かすことは異常であると、主人公は自覚し、引き受けざるを得なくなるのだ。

その映画を仕上げる前に父親に編集を命じられたのは、先述のハイキングの夜の撮影フィルムである。こちらは劇映画ではなくホームムービーだ。ここで実写映画がどうあろうと現実を「撮ってしまう」ことの更なる危険性もが、明らかになる。
主人公の回していたカメラは、気付かぬうちに母親の不貞の証拠らしきものを記録してしまうのだ。これは、今までの劇映画撮影で意図通りのものを撮影しようとしていたこととは、全く別の体験である。ここでスピルバーグは、作り手の意志さえも無視しかねない非情な「映像記録」の現実への揺さぶりを示してみせる。写ってしまったことは、受け入れざるを得ないことの恐ろしさ。発見してしまった主人公、ピアノを弾く母、母に近づきたい父。この三者がカットバックするシーンは、本作の白眉のひとつである。後になって、母に「記録された現実」を押入れ内で見せるところもいい。

そして更に、高校のビーチパーティーの記録映画制作時、映画と現実の関わりは別の段階へ進む。ここで主人公は「映像作家」として、現実を作り変え、作品化してしまうのだ。彼を虐めていた少年ローガンは、でき上がった映画に映る自分を観て、深く傷つく。どう傷つくかはかなりミソとなる部分なので、念のためネタバレは控えておこう(ここまで書いておいて俺もよく言うよな…ちなみに、ローガンを演じたサム・レヒナーという新人は気に入った)。とにかく大事なのは、この段階で主人公は、現実を揺さぶる映画という魔物と共謀する存在になったということだ。

このように本作はエピソードを重ねていって、着実に映画の「魔」と、その共犯者たる「作家」になっていく主人公の変貌を描く。この主人公が現実のスピルバーグになったとき、『シンドラーのリスト』(1993)の最後に現実のユダヤ人たちを唐突に登場させるに至るのだ。あそこは単純に感動するシーンではなく、映画というものの生々しさに動揺するところである。そのことは『フェイブルマンズ』によって、よりハッキリしたと言える。

さて、今まで述べていたように本作は、映画賛歌どころか、かなり映画と映画作家の魔界に踏み込んだものとなっており、ひとを-特に映画作りに関わったり、志したりする者を-複雑な気持ちにさせるものとなっている。にも関わらず終わったとき気持ちいい余韻が残るのは、ひとえにラストに、「映画作家」というヤバいものになっていく主人公を導く極上の老師との出会いがあるからだ。よくもまあ、ここで取っておきのいい話を持って来たものだと思う。ずるいぞ。

そして、もっと凄いのは、ラストのラスト、本当に映画が終わる瞬間だ。ここで俺は、現実のスピルバーグがカメラのこちら側にいるのを感じた。あなたも感じてしまうだろう。ここまでやって、なおかつ現実の作者本人がいることを明るく示して終わりうるとは、映画とは、なんと無責任で魅惑的なメディアだろうか。ここには単純に「映画賛歌」に逃げ込む人間には、決して描き得ない奥深さがある。

スピルバーグは、ゴダールに見せたかったと思う。

注1:『レディ・プレイヤー1』をVRによる冒険物と考えて青春映画と思わぬひともいるかも知れないが、「貧民層で育って、ひとりぼっちになってから、自分の信じてた世界と違う『現実』に次々と出会い、なおかつその『違い』を背負う(顔に痣のある)少女と初々しい恋愛に落ちながらも、自力で道を切り開いていくティーンエイジャーの話」は、十分に青春映画であると筆者は考える(もし主人公がティーンエイジャー以外なら、いま要約した話の説得力はかなり薄れるだろう)。個人的な見方かもしれないが、『レディ…』と『フェイブルマンズ』は表裏の関係のようにも思える。

注2:ここでの母親の舞いに、『ウエスト・サイド・ストーリー』のリメイク元監督のロバート・ワイズの名作『たたり』(1963)を思い出したひとは、俺の他にもいるよね?

注3:映画というジャンルは、他に比べてすぐに「映画愛」って言われがちだと思いません? 「小説愛」とか「美術愛」って、「映画愛」ほどは言われないよね?

注4:「主人公の作った映画を観て顔を輝かせるひとがいる」ということが、単純に出世物語に通じてしまわないのは、押さえておいて欲しい。スピルバーグには、当時の自作映画は、あくまでも「知り合いのうちで盛り上がるもの」の限界内だった自覚があるのだ。