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ディランの目『名もなき者/A COMPLETE UNKNOWN』(2024)

書き下ろしです。

ジェームズ・マンゴールド監督作『名もなき者/A COMPLETE UNKNOWN』(2024)を観る。

無名のボブ・ディランがフォーク界のトップ・スターとなり、ロックに突入して波乱を巻き起こすまでを描いた実録映画で、演じるのはティモシー・シャラメ。彼を含め登場する歌手役の役者たちは皆、自分で演奏して歌う。

マンゴールド監督としては、ホアキン・フェニックスジョニー・キャッシュを演じた『ウォーク・ザ・ライン/君につづく道』(05)と同様の方法で、実写劇映画とは本質的に俳優の芝居のドキュメンタリーと考える自分には、非常に興味深いものに思える。ちなみに本作にもキャッシュは登場するが、今回はボイド・ホルブルックが演じている。

シャラメは若きディランの掴みどころのなさと才気と野心とカリスマ性を存分に表現し、パフォーマンスもなかなかの出来栄え。
そして歌唱の面で彼以上に驚かせてくれるのが、ジョーン・バエズのモニカ・バルバロ。美声で万人に「歌が上手い」と思わしめるバエズを、俳優が吹き替えなしで演り切ってしまうのは、驚異的だ。

さて、本作で最初にゾクゾクっとさせられるのは、ニューヨークに出てきたばかりのディランが、入院中の(憧れの歌手である)ウディ・ガスリースクート・マクネイリー)に会いに行き、自作曲『ウディに捧げる歌』を披露するシーンだ。
ここで観客たる我々は初めてシャラメの歌いぶりに触れるわけだが、「ディランらしく歌えてる」ということ以上に衝撃を受けるのは、歌いながらガスリーを見る「目」の何とも言えぬ良さである。

この瞬間、この映画では「歌う/聴く」という関係と同じぐらい-いや、もしかするとそれ以上に-「見る/見られる」が重要であることが了解される。そのことは、ラストで誰が誰を見ているかを思い出すだけでも十分だろう(ちなみに現実のディランはこのラストから間もなくバイク事故に遭い、休養に入ることになる)。

そして歌うディランを見る(見られる)場面で印象的なのは、多くの観客や業界の人々以上にエル・ファニング演じる(破局する)恋人シルヴィが見るところだ。
それは2度にわたって演じられ、その場のディランのパフォーマンスは観客たちには大いに受けるにもかかわらず、1度目は「私たちダメかも知れない」2度目は「もうダメだわ」という悲しい思いに満ちたものとなる。

そして特に2度目に於いて、ディランの方は彼女を「見ない」ことが切なさをかきたてる。ここで複雑なのは、もしも見たなら、より事態は悲惨であっただろうということだ。よりを戻しかけてる男が「君が求める男は俺じゃない」という意味の歌(It Ain't Me Babe)を他の女(バエズ)と歌いながら、こっちを見たとしたら!
…直後の金網越しの別れの場面は、地味ながら本作屈指の名シーン。マンゴールドのドラマ演出のうまさが際立つところだ。

他の場面の他の人物との関係においても、ディランは「見る/見られる」ことによって常に「何かが起きている」ことを感じさせ続ける存在であり、彼が歌うことでその「何か」は言葉で表される意味を超えた映画の興奮を生み続ける。
つまりこれは、「歌う」というアクションで見せる活劇。
だとしたら、彼がロックに向かうのは当然のようにも思えるし、そのことが(活劇における)「対決」ともいえる事態を生み出すのも、またふさわしいことなのだ。

フォーク・フェスティバルでの大騒動の挙げ句、ディランは生ギター1本でステージを締めくくる。それがディランの敗北にはならず、むしろ敗者へのレクイエムに思えるのは、歌の内容もさることながら、彼が(歌いながら)観客を「見ない」ことによってだ。
最初にガスリーを「見る」ことと、いかにも対照的である。