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『エルヴィス』(2022)

Facebook に 2022/ 7/ 7 に投稿した記事に手を加えたものです。

エルヴィス』の伝記映画!
ニュースを知ったのは8年前、それだけなら高揚するはずが、監督が苦手なバズ・ラーマンと知った落胆。この複雑な思いを抱えたまま公開日が迫って、予告篇を観る。すると、さすがに初期のだぶっとしたスーツで全身でシェイクしまくるステージは、シビレそうだ。オースティン・バトラーも若干ナイナイ岡村寄りのルックスだが、頑張ってる。あ、岡村の顔って好きですよ、念のため。だがやっぱり監督に不安は残る。もうこれは確かめるしか!

というわけで、行ってきました。結果、期待も不安も的中したって感じ。
ステージの再現がロックンロール誕生の興奮を伝えるという意味では、始まって間もないヘイライドのシーンですでに大きな盛り上がりを見せる。予告篇で期待しただけのことは、早くも得られた感(直前に階段下で家族に囲まれて肩を揺さぶってるのも悪くない)。しばらく後の、競技場での暴動を呼ぶステージも見せ場になっている。
一方で、薄っぺらな自己陶酔にしか思えない(注:個人の感想です)この監督の個性としてのカッコ付きの「映像美」には、やっぱりウンザリさせられる。映像だけじゃない、音楽の扱いも、ごきげんなエルビスのロックンロールにすぐにエコーみたいなのがかかってズゥゥゥン…って感じになって「ドラマチックでございます」になるのは、なんだか安手の現代オペラを聞かされてるみたいだ。
いや、まあ、ここまでで言ったのは、監督のタッチに対するあくまでも「好み」の問題としてもさ、例えば、有名なカムバック・スペシャルのテレビ番組で、マネージャーの(はっきり言って「悪役」の)パーカー大佐が、繰り広げられるロックンロール中心のショーに対し「次こそサンタ(の曲)をやるのか!」と歩き回るのを延々とカットバックするのは、茶番にしか思えない。もちろん、史実として番組制作者と大佐の確執はあったわけで、それを映画的に象徴的にやったつもりなのは分かるが、その象徴のさせ方が安っぽ過ぎる。収録が始まってからこんな大慌てする「大物マネージャー」がいていいものか。生放送でもないのにさ。
それでもやはり拍手を送るとしたら、それはバトラーの物真似パフォーマンスの充実だろうし。彼に限らずリトル・リチャードの役者など、実在のミュージシャンになりきってみせるひとたちの凄さには「さすがアメリカン・ショービジネス」とため息が出る。層の厚さが違うのだ。
その上に乗っかって演技でたっぷり見せてるのは、パーカー大佐役のトム・ハンクス。でっぷり太った様子は、『バットマン・リターンズ』(1992)のダニー・デヴィートのペンギンを思わせる。だが、ペンギンの方が面白い。そしてたぶん、実際のパーカー大佐の方が面白いと思う。それはトム・ハンクスではなく演出の責任だ。
結局、最大の拍手は、最後のシーンに送られる。実際のエルヴィスの映像。ここは感動する。まあ当たり前だ。しかし監督は、ドラマの中のパーカー大佐が目撃したシーンとするためにナレーションを入れる。
いやいや。もうそんな必要はないよ。そんなナレーションでドラマとつながなくても、観客は実在したエルヴィスそのものを見るよ。ここに至って現実の映像を出してしまうことへの覚悟があるのだろうか。例えば『シンドラーのリスト』(93)の最後のように。『アメリカン・スナイパー』(2014)のエンドロールのように。映画は現実に負けかねないことへの厳粛な思いが、大佐=トム・ハンクスのナレーションで安易につないだバズ・ラーマンにあるとは思えない。

というわけで観てよかったところもいろいろあるが、よほどのことがない限り、二度とこの監督の映画は観に行かないだろう。しかし、「よほどのこと」をしそうなのが困ったところで。例えば、オーソン・ウェルズの伝記映画ぐらいに無視できない題材のものを撮りそうじゃない、このひと。だったらやっぱり、観に行くだろうな。やだな。