鑑賞録やその他の記事

段取りゃいいってもんじゃない

Facebook に 2013/ 7/ 8 に投稿した記事に手を加えたものです。

映画でもテレビでもいいのだがドラマにおいて、あるシーンの一発目の画面になったとたん次の段取りが見えてしまい、激しく萎えることがある。
例えば、部屋が居心地の悪い角度から撮られており、次に誰かが入ってきてカメラが動くな…とか。手前のソファに人物が座っていてその横が空いていて、後ろに立つ人物がこっちに来て座るだろうな…とか。その手の段取りのために最初の画面が提示されてしまう場合である。
(ただし、ロングショットで人物が歩いていて、次に寄るのが分かる場合などは、これに当たらない。なぜなら、ロングショットにはそれ自体の意味があるからだ)
だいたいに於いてドラマ演出の基本というのは段取りをいかに自然に、気持ちよく見せるかであって。しかしながらそれがものすごく難しいからこそ演出というのが芸になるのだ。
そのためにまず第一に考えられるのは、芝居の動きの段取りを舞踊を見せるように気持ちよく「振り付ける」ことだが。その極意はマキノ(雅弘)みたいな達人じゃないと、なかなか会得できない。もちろん、それを目指すことは大事だが。
なので我ら凡人が演出するためには、まず人物の気持ちに寄り添ったり。その人物がそのシーンで見せる魅力を考えたり。その場に別の人物がいればドラマ的な関係をしっかり把握したりして。その上で動いたり止まらせたりすることを、考えなきゃいけない。人間を-あるいは人間たちを-いかに見せるかに於いて、段取りを引き出していく努力である。
その部分を欠いて、とりあえずは段取ることで演出して見せましたという自己満足に陥ってしまうと、冒頭に挙げたようなみっともないシーンの入り方をするわけだ。それは、芝居の演出というものは役者との共同作業から生まれるということを忘れた演出家の傲慢さの露呈にもなってしまう。そして、傲慢さは弱さの裏返しでもあるのだ。
段取りは必要。だが、段取りゃいいってもんじゃない。そこに立ちはだかる課題に役者、そしてカメラマンや他のスタッフと共に取り組む演出こそが好ましい。

(偉そうなこと書いてスイマセン。実際にはスケジュール的な制約などもあって、段取るのが精一杯の局面が多いのも分かります。でも志は忘れないようにしましょうよ-という呼びかけぐらいの気持ちで書いてます。ほぼ、自分自身に向けてですけどね)